16.憎むべき相手

 時を同じくして、こちらもまた一人霧の中に取り残されたアルカード・カンタレラ。この場から動かず、じっとしているべきか、少しでも早くどちらかと合流できるように歩き回るべきか……。この状況では前者の方が賢い選択と言えよう。互いに歩き回ってしまっては、落ちあえる確率は下がる。


「いや待てよ、レオンもアシュレイもおれと同じことを考えていたとしたら、誰もその場から動けず、永遠に巡り合えないかもしれないぞ」


 同じところを何度も行ったり来たりしながら悩むこと数分。ぴたりと立ち止まったアルカードは、もう考えるのも面倒くさいとばかりに、がりがりと後頭部をかきむしった。


「おおい、アシュレイ! 聞こえたら返事をしてくれ!」


 考えることを放棄したアルカードは、霧の深海に向かって声を張り上げた。応答はない。もう一度同じことを叫んでみても、帰ってくるのは無情な無音ばかりで、木の葉ひとつ音を立てない。

 この白い闇と静寂しじまの中に自分の声だけが響く虚しさに、アルカードはどうしようもない焦燥感に駆られる。


「まずいぞ。アシュレイに何かあったら、レオンの奴に八つ裂きにされてしまう」


 訪れうる恐ろしい未来を想像し、思わず身震いした。白闇の中にアシュレイの姿を探し求め、何も事が解決しないままじっとしていることもできず、アルカードはゆっくりと歩き始めた。


 それにしても深い霧だ。こうも周囲が朧気であると、五感の一つが奪われる不自由さに苛立ちが募る。

 本来の吸血鬼ならば、暗闇だろうが深い霧の中であろうが、人間離れした視覚でどこまでも見渡せる超能力を発揮できる。それも、定期的に生き物の――理想は、人間の血を摂取できていれば、人知を超えた怪力を発揮出来たり、元素を支配し、自然界の理すら捻じ曲げることもできるのだが、彼にそれほどまでの超能力は備わってはいない。というのも、アルカードは吸血鬼へ転嫁してから、一度たりとも人間の生き血に口をつけたことはなかった。

 転化してからの吸血衝動がないわけではない。ただ……自分が人間であった過去を忘れることが出来ず、元人間だったころの理性が吸血衝動を上回り、結果として彼は人間の肌に牙を突き刺すことに一種の恐怖のようなものを抱いていた。

 幸い、現代の吸血鬼は人間食を摂り入れてエネルギーとすることが出来るので、飢えに苦しむことはないが、その代わりに吸血鬼の持つ超能力のほとんどを彼は使うことが出来ないでいた。ただただ、永遠という時間を与えられ、強靭な肉体と超能力を持て余す日々を過ごしている。


 と、その時だ。前方で、がさっと茂みが揺れる音がした。


「ん、アシュレイ?」


 急いで音のした方に駆けつけると、霧の中からスゥ、とアシュレイの姿が現れた。

 少女は妙ににこにこしていて、焦って傍へ寄ってきたアルカードを驚かせた。


「ああ、よかった、無事だったんだな。けど、どこに行っていたんだ。心配しただろう」

「ごめんなさい。さっき、ショーコちゃんの姿が、見えた、気が、したから」


 アシュレイは、妙につまづくようなしゃべり方で詫びた。もちろんアルカードはその不自然な言葉遣いや、レオンの背中を追って走り出したのに、姿、という発言の矛盾に気が付いていたが、あえて深くは言及せず、急いたように、「レオンを探そう。もうおれから離れるなよ」と、彼女の手を取って歩き出した。


 その瞬間、アシュレイの顔から表情というものが抜け落ちる。まるで笑顔の仮面が剥がれたみたいに。見開いた眼が毒々しい赤に染まっている。一切瞬きもしない不気味な眼差しが、眼前の獲物を捕らえて離さない。


 ああ、アルカード。に軽々しく背中を向けてはいけない。

 アシュレイは――否、アシュレイの姿を借りた魔物は、お前の無防備な背中に、刃のような長く鋭い爪を、今にも振り下ろさんとさいているのだから。


「おっと、そうだった」


 魔物の五指がアルカードの背中を抉る直前、彼の赤い瞳が残像を引いて振り返った。それとほぼ同時に、下の方で湿ったような不快な音が響く。


「ごめんな、アシュレイ。おれ、お前に言ってなかったことがあるんだ」


 渇いた地面に、パタ、パタ、と液体が滴る音がする。

 アシュレイは大きな瞳が零れ落ちるんじゃないかというほど目を見開き、声にならぬ悲鳴が、小さく開いた口から赤黒い血の塊と共に噴き出す。

 アシュレイ魔物の腹を貫いたアルカードの左手の先から、ドロドロした血と肉片が大地に落ちてじんわりと黒い染みを作る。


「な、ん……これは……」掠れた声で魔物が言う。


「お前は不思議に思ったかもしれない。おれのこの奇異な格好。まるで伝説のドラキュラ伯爵のようだろう? そしておれの名前、アルカード。この名が意味することくらい、わかるよな?」


 低く腰を落としたアルカードは上目遣いにアシュレイを見ると、その双眸に噎せ返る憎悪を漲らせた。

 恐怖故か、アシュレイは全身をがくがくと震わせ、寒さに凍えでもしているかのように血にまみれた歯をカチカチと鳴らした。


「どうしてわかった……私がアシュレイでないと、どうしてわかり得た……!」


 アシュレイの姿を借りた魔物は、嗄れ声で言った。


「甘く見てもらっちゃ困るよ。そんなこと、おれでなくたってわかるさ。あの子は生きてるんだ。いのちを抜き取られて、尚も生かされているお前とは違う」


 魔物はガクンと膝を折ると、地面に両手をついて痙攣し始めた。いきなり大量の血を失ったことによる《渇き》の症状だ。それと同時に、十代の若々しく潤いに満ちた血色の良い頬は土気色に変わり、渇いた大地のようにひび割れ、無残にもぼろぼろと崩れ始めた。そうなってしまえば、自らの体重を支えることも出来ず、どっと地面に転がるしかない。


 アルカードは足元に転がった魔物をひどく冷たい目で見降ろしながら、くつくつと笑った。


「お前の主人――エドワード・モーリスは、おれのことを嫌っていると思うぜ。! 元人間のひよっこ吸血鬼が、吸血鬼社会の上位にいるスバル・カンタレラの息子としてそれなりの地位に胡坐をかいているんだからな。生まれも育ちも純粋なヴァンピールたちからしたら、おれみたいなのは、みーんな煙たがるぜ」


「アルカード……カン、タ、レラ……」


 とぎれとぎれに聞こえたがさついた声がその名を呼び終えるなり、アシュレイの姿をした魔物は、アルカードの足元でただの灰山と化した。


 突然、霧が晴れる。


 アルカードは、血の付いた手をぶらぶらさせながら、溜息をついた。まったく、このおれも随分舐められたものだ。

 人としての生を終えて百幾年。不死者としてこの世に生き永らえている矛盾の生を抱きながらも、本来ならば敵対する立場同士であるレオン・シェダールと共にいることを選んだ。


 血の繋がりは一切ない父、スバル・カンタレラの酔狂さには舌を巻くばかりだ。こんな――人間上がりの半端者を息子に迎え入れるとは。

 きっと、エドワード・モーリスは、アルカードという男を侮ったからこそ、あのような下級の魔物を刺客として放ったのだろう。

 舐めるな。おれだって、元人間とはいえヴァンピールなのだ。


 ――ただ、このアルカード・カンタレラという男は、人の身を失って長き刻を生きてきたヴァンピールの中でも珍しく、人の心を忘れずにいる。人間に限りなく近い吸血鬼なのである。だから許せない。同胞が、人間の少女から未来を奪い、こうして己の盤上の駒として扱うのが、どうしても許せないのだ。


 吸血鬼という生き物は厄介だ。知性を持ち、言葉を持ち、心だって存在する。それなのに、同じく知性を持ち言葉を持ち、心を宿す人間に対して、こんなにも手酷い仕打ちをやってのけてしまうのだから。


 その時だ。

 晴れて見通しの利くようになった木々の間で、一羽の烏がバサバサと羽音を立てて、傍の木の枝に留まった。首に赤いベロア生地のリボンを巻いている。レオンの使い魔のクロヌだ。


『アルカード』


 烏は、人のような声で彼の名を呼んだ。

 クロヌは人の言葉を主から与えられ、何不自由なく人間との意思疎通ができる魔物だ。


「おう、クロヌ。レオンはどうした?」

『お前同様、エドワードの放った刺客に襲われた』

「無事なのか?」

『ああ。秒殺もいいところさ』


 随分と俗っぽい喋り方をする使い魔は、主の家政夫とはなかなかに気の合う性分らしい。


「アシュレイが心配だ。彼女の居場所はわかるか?」

『任せな。すぐ連れてきてやるよ』


 クロヌは再びバサバサと羽音を立てて、闇に包まれた空へ飛び立っていった。

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