15.その正体

 その頃、レオン・シェダールは、苦境に立たされていた。


「う、ぐぅ……、なんで離れねぇ……!」


 女の左胸を刺し貫いたナイフは、押し込もうが引き抜こうが、その場所から如何いっかな動かなかった。

 相手の懐に飛び込んだものの、このような形で攻撃が阻まれてしまうとは予想もしていなかった。

 こうなってしまってはどうしようもない。次のモーションに移るタイミングを失わないために、今一度体勢を立て直すべく、懐剣を手放して距離を取ろうとした。しかし、今のレオンにはそれさえも許されなかった。今度はナイフを握る掌が、柄から離れなくなった。

 よく見てみると、柄の部分にまるで人間の体内を巡る血管のようなものが浮き出、それが自分の掌と繋がっていたのである。さながら木が大地に根を張るかのように、しっかりとくっついて離れないのだ。その気味の悪い光景を見て、レオンはゾッと首筋を粟立たせた。柄から伸びた血管はじわじわと手首の方まで侵食し、青紫色の細い線が白い肌に毒々しく浮き上がった。

 己の体内を異物が這い回る不快感に、危うく絶叫が迸る。奥歯を噛みしめることでそれを堪えるも、糸のように細い触手に喉元を擽られるような奇妙な感覚は、一向にレオンから離れなかった。


 空いていた左手を使って無理やり引き剥がそうとするも、腕の方まで這い上がる血管は、最終的に左手にまで侵食を開始する始末。焦って引っ張れば、柄に張り付いた皮膚が剥がれ落ちそうに引きつれ、いよいよ思うように身動きも取れなくなってしまった。無遠慮に引き剥がそうとすれば、皮膚が裂けるだけでなく、自分の血管も千切れてしまうだろう。


 するとその時、ナイフの切っ先から妙な力が加わった。前に向かって引っ張られるような異様な感覚に、レオンの心臓はまたしても冷える。ナイフの先がずぶずぶと女の胸に沈み込んでゆくのだ。


「うおおおああ!」


 皮膚が剥がれることなど気にしてはいられなかった。喉を突いて出た悲鳴は己の焦燥感を煽り、今ここで己の腕を切り離してしまいたいとすら思った。

 そうこうしている間に、今や刃はすべて彼女の体内に飲み込まれた。このままだと、レオンの腕ごとこの女の肉体に取り込まれてしまう。


「くそ! 離れろよ、お前。そんなに僕と離れるのが嫌なのかよ!」


 女はレオンの皮肉を受けて、恍惚とした表情を浮かべた。熱に浮かされているようなその顔は、官能的な雰囲気を醸し出す。

 枯れ枝のような骨が浮いた両手が不意に持ち上がると、女の力とは思えない怪力が、レオンの頭をがしっと掴む。


「何をする……!」


 女はレオンの首を軽く捻り、無理矢理上を向かせるような形で、太い血管の通う首筋になまめかしい視線を落とした。青い血管の中を流れる温かな血液。それを欲して赤い双眸をぎらぎらと輝かせている。薄く開いた唇の奥で白い牙が震えた。

 何をされるのかを瞬時に悟ったレオンは、自由を許された脚で、女の脛を容赦なく蹴りつけた。


「離せ! お前に僕の血はやらん」


 女はまるで、痛みなど感じていないかのようにしれっとした顔で、むき出しになった獲物の首筋に色のない唇を寄せた――


「やめろって言ってんだ!」


 ブチブチブチ、と血管が引きちぎれる音が痛々しく耳朶じだを打った。懐剣の柄から無理矢理剥がした右手が、近付いてくる女の顔を押さえる。その美しい顔に爪痕を刻み付けることも躊躇ためらわず、レオンは短く切り揃えた爪で女の頬を思いきり引っ掻いた。そこからゆっくりと滲み出た血と、ナイフの柄に根付いていた右手を剥がしたことによって生じた裂傷から噴き出すレオンの血とが混ざり合う。


「お前、エドワード・モーリスの眷属だろう? 吸血鬼になってどれくらい経つ? いつ、あいつに転化させられた? 可哀そうだが、お前を助けてやることはできないぜ。人間の心を忘れてしまっている。あの男に心まで取られちまったみたいだな。吸血鬼にもなりきれていない化け物だ。血だけを求め、ろくな言葉も口にできぬお前には同情するが、邪魔立てするなら、僕は女だろうと容赦しない」


 レオンがまばたきをした次の瞬間、森の木々を写したかのような深緑の瞳が、滴る血のような色に変化した。丸い瞳孔が、キュウウ、と猫のそれように縦に細く伸びる。

 女は、彼のその人ならざる変化へんげに、一刹那、動揺したように身を引いた。

 二人の間の空気が明らかに変わる。圧倒的に不利だったレオンの力関係が逆転したのは、まさしくこの瞬間だった。

 自分と同じ赤い瞳――けれど、圧倒的な違いがある……女はそんな風に思っていたのかもしれない。その証拠に、先ほどまでの優位に立っていた者の笑みが消えている。己が劣勢であると察している!


「ははあ、知能は辛うじて残っていたと見える。ただ僕を殺すようにとプログラミングされただけの機械ではないってわけだな。そうさ、僕は吸血鬼を屠ることが出来る存在だ」


 そう言って開いた唇の間から見えた犬歯が、人間にしてはやけに鋭い。

 風もないのにざわめく金の頭髪。獅子のたてがみを思わせる黄金のそれは、さわさわと意志を持つもののように蠢き、それに合わせて周囲を取り巻く濃霧が徐々に晴れ始める。

 女の表情の中に、決定的な恐怖の色が差し込んだのはこの時だった。


「もう一度言うぜ。。でないと僕は、お前を問答無用で灰にする。僕は銀や十字架なんかなくったって、お前を殺すことが出来るんだ。一刻の猶予も与えないよ」


 レオンはその言葉とは裏腹に、女の手を強く握ったまま、己の傍らから離そうとはしなかった。


 彼がであるか。それを悟った女は、血も凍るほどの戦慄に身を竦ませ、だだを捏ねる子どものように嫌々と首を横に振った。


「へえ、嫌か。そんなに僕と離れたくないんだね。変ってるね、お前。僕はあんまり他人ヒトに好かれない性質たちなんだけど」


 レオンは自嘲気味に笑い、もう片方の手も力づくで自由にすると、懐剣は女の左胸に刺さったまま、女の後頭部に手を回し、冷たく凍る死んだ血管の上に薄い唇を這わせた。

 そして、まるでその首筋に牙を突き立て、女の断末魔に表情を歪めながら、血流のない身体の中に、己の唾液を少量ばかし流し込んだ。


 ――キャァァァァァァァァ!


 女は、絹を裂くような悲鳴を残して、瞬く間に灰と化した。息絶えるその瞬間に、何かに縋るように天へ向かって手を伸ばしていた。神にでも助けを求めていたのだろうか。哀れだ。神に背いた元人間が、今わの際に神に縋ろうなどと。

 渇いた砂山の上に、女の胸を刺していた銀の懐剣がぽとりと落ちた。


 響き渡った悲鳴が残像を残して消えてゆく。

 霧は晴れた。

 静寂。

 

 逆立っていたレオンの金の髪は、意識を失ったかのように寝、赤く光った不気味な双眸には元の深緑が満ちている。

 ただ……女の首筋に噛みついた痕――女の血に塗れた口元だけが、まるで人を食らった直後のような禍々しきワンシーンを演出していた。


 レオン・シェダール。

 若き吸血鬼ハンター。

 その正体はダンピール。

 その身に、吸血鬼の血を持つ者である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る