12.死者の家

 アルカードの傍にぴたりと張り付いたアシュレイは、自分たちを取り囲む闇にせわしなく視線を走らせた。その目元にあるのは緊張のようにも見えるが、親友を自分の元から連れ去っていった不届き者を、なんとしても己の目で見つけ出してやろうという闘志にみなぎっているようにも伺える。


 我儘を言って連れてきてもらった身なので、できる限り自分の身は自分で守ろうと誓っていた。迷惑をかけるわけにはいかない。無事にショーコを救出するためにも、自分がしっかりしなくては! そう決意するように空を見上げ、ちょうどそこにあった白い満月と目が合うなり、アシュレイは心臓がぞくりと冷え込むような不快感を覚え、咄嗟に視線を足元へ落した。……あの丸い月を見ていると、自分の感情ではない――別の誰かの心のようなものが、己の中で暴れだそうとするのがわかった。

 低温の炎で心臓を焼かれているような感覚。熱いのか冷たいのかわからない。喉を通って吐き出される息が、自分でもわかるくらいに熱かった。

 、と口の中で呟いた声は、誰の耳に届くことなく、闇に吸い込まれて消えた。


 墓場を抱き込んだ森の中は、彼ら以外の足音など響くはずもなく、すぐ傍に寄り添って離れない夜気は、うら若き乙女の首を擽るかのように、その冷たい指先をひらひらと伸ばした。見えない手が自分の首に絡みついてくるかのような緊張感に、アシュレイの喉はからからに渇いた。


 一歩、また一歩と悪鬼の塒へと近付く度、腹の底に蟠る怒りが全身の血液を沸騰させるように、大きな炎へと姿を変える。己の怒りによって身を焼き尽くされるかのような苦しみは、冷静であろうと努めるアシュレイの理性を徐々に蝕んでいった。

 まるで他人の目を避けるような仕草でフードを深くかぶり直しながら、彼女は闇を白く染める息を忙しなく吐き続けた。……あまりにも呼吸数が多いので、具合でも優れないのかと心配したアルカードは、アシュレイにそっと声をかける。


「どうした、大丈夫か?」


 アシュレイは首筋にうっすらと汗をまとわりつかせながらも、しっかりと前を見据えたまま「ええ……」とたった一言。

 それきり彼女は口を開こうとはせず、黙々とレオンの背中に続いて歩を進めた。


 やがて正面に、乱立する木々がこちらを誘い込むようにして細い腕を広げて待ち構えていた。


 エドワードは、この奥のどこかにいる。その証拠に、かの甘い匂いは一歩、また一歩と足を前進させるたびに濃くなり、そのかぐわしい死の香りは肺の奥深くへと入り込もうとしてくるのだ。


「この先だな」


 レオンは、若い木々の合間を縫うようにして進んだ。渇いた砂の大地を踏みしめる度、森の中の静寂はことごとく破られる。

 すると、どうしたことか、急に辺りに深い霧が立ち込め始めた。それは彼らが前進するに従って、少しずつ深まってゆき、やがては緑に囲まれていたはずの森の中は、一メートル先も見渡せぬような濃霧に囲まれてしまった。


 レオンは歩みを止める。上下左右にさっと視線を走らせると、どこもかしこもが真っ白であった。全てを飲み込んでしまうかと思われた闇ですら、今や白く塗りつぶされてしまった。これもエドワードやつの仕業か。


「霧が出てきたな。おい、ちゃんとついて来いよ」


 ――と、振り返ったレオンの目が、瞬く間に見開かれた。今しがたまで後ろをついて来ていたはずの二人がいないのである。身体ごと振り返って、来た道を数歩後戻りする。耳をすませど目を凝らせど、霧の奥から二人が現れる気配が一向にない。


「おい、アルカード。返事をしないか」


 ……。

 返事の代わりに聞こえるのは、無音から生じた耳障りな耳鳴りだけである。


「……まじかよ」


 レオンは深いため息を吐くとともに言った。

 もしや自分が早く歩きすぎたのではと思い、じっと身動ぎしないまま、二人の気配が近付いてくるのを待った。

 しかし、いくら待てども、レオンの周囲には静まり返った夜半やはんが渦巻くばかりで、「やあ、遅れて悪かった」と暢気のんき顔のアルカードが登場することはなかった。


「アルカード」


 小さな声で呼びかけるも、応答は一切ない。

 無音の中心で、身動きすら忘れたように固まるレオン。


 よもやこれは、自分の塒に不届き者が近付きつつあることを悟ったエドワードが、戦力を分散させるために仕掛けた罠か。この霧は身体に悪影響を及ぼすものではないようだが、どのみちこの白い闇がどうにかならない限り、二人と合流するのは難しそうである。暗闇ならば光で対抗できるが、白闇が相手では光はさほど役には立たぬ。

 さて、どうしたものか。レオンが沈思ちんしふけったその時である。


 進行方向の遥か先で、渇いた小枝を踏みしめる音がした。

 弾かれたようにそちらの方へ首を巡らせると、八重霞やえがすみをかきわけるようにして近付いてくる影が目に飛び込んできた。

 二人が追い付いてきたのかとも思ったが、後ろを歩いていた二人が進行方向からやってくるのはおかしい。案の定、その影はアルカードでもアシュレイでもなかった。アルカードにしては小柄で、アシュレイにしては大人びた肉体を有した、大人の女のものだった。


「誰だ」


 レオンは、霧の中をやってくる女に向かって、鋭く声を放った。

 周囲のもやを揺らめかせながら近寄ってくる影は、まるで彼の言葉など耳に入らぬとばかりに無言を貫いている。


「止まれ!」


 いよいよ警戒しないではいられない状況となり、レオンはジャケットの懐から銀の懐剣を取り出して構えた。

 距離を詰めてくる女の顔が、徐々に造形を成してゆく。

 その肌は月のように青白く、表情はすっかり抜け落ちたように真顔で、東洋風の切れ長の目は氷のように冷たい視線を湛えていた。ただ、唇だけは燃えているみたいに赤く光り、肩の後ろになびくしっとりした艶のある黒髪が、まるで意思を持つものの如くうねっている。

 レオンの身長を遥かに超える等身、スレンダーで知的な品のある体系は、まるで絵に描いたような妖艶さが漂う。

 深まる秋の夜にネグリジェのような薄絹一枚だけを纏ったその女は、真冬の夜空に一等煌めく星のような瞳でレオンの視線を捉えると、真っ赤な唇を三日月型に裂き、アハハハ……、と不気味に笑った。一目でこの世のものでないとわかった。息を呑むほどに美しい女だが、それと同時に薄気味の悪さが拭い去れない。


 レオンは再び制止を呼びかけたが、女はより一層笑みを深め、素足のまま距離を詰めてくる。

 レオンは舌打ちをすると、自らその女の懐に飛び込み、夜霧に曇った刃を問答無用で女の胸に打ち込んだ。

 女は全くの無抵抗だった。まるで人の形をした氷の塊に突っ込んだ気分だった。女の身体は、血流のない死者よりも遥かに冷たかった。突き刺した刃すらも凍てつきそうな冷たさに、身体の芯がぞくぞくと震え上がる。

 手ごたえは確かにあった。視線を手元へ向ければ、銀の刃は女の左胸に深く飲み込まれている。

 ……それなのに。それなのに、どうしてか、刃が女の命を捉えた感覚が全くないのだ。

 女があの不気味な声で「アハハハハ……」と笑った。吐かれた息のなんと冷たいことか。


 ――嫌な予感がする……。


 レオンは刃を引き抜くために後退さったが、どうしたことだろう、柄から先はいくら引っ張ろうとも出てこなかった。

 ――抜けない。


 レオンは力いっぱい懐剣を引き抜こうとしたが、押して開くドアを馬鹿みたいにひたすら引き開けようとしているような感覚だ。


 おかしい。どう考えても不自然なことだらけだった。


「お前、これは銀の刃だぞ。こいつで心臓を貫けば、お前は一瞬で灰になるはずなんだ」


 レオンは威圧するような目つきで女を見上げると、その胸に呑まれたまま押し込むことも引き抜くことも出来なくなったナイフの切っ先を、上に下に、右に左にと円を描くように動かした。……そこにあるものが、どこにも見当たらなかったのだ。


「お前、心臓どこに隠しやがったんだ?」

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