11.頑固者

 ほどなくして、世界は吸血鬼のものとなる。

 町を照らす麦色の西日が遠くに連なる山脈の彼方に沈むのも、もう間もなくのこと。


 アルカードは、暗い顔をして黙り込んだアシュレイを一生懸命に励ましてから、呼びつけたタクシーに乗せ、寮へと帰した。


 決戦は今夜、深夜一時。

 今宵は藍色の夜に、冴え冴えと白く輝く満ちた月が浮かぶ。

 去り行くタクシーを見送りながら、アルカードは陽光と宵闇のコントラストに包まれた町の片隅で、ふと空を見上げた。

 やがてそこに浮かぶ夜の王が、地上で起こる禍々しき争いを見下ろして涙を流してしまわぬように、どうかその袂に流れ者の雲を置いて、下界の英雄たる恵みの朝陽が蒼天の玉座に就くのを心待ちにしていてくれ。


 ほどなくして、完全なる夜が世界を包み込む。

 時は深夜を回り、世界は眠りの静寂に満ちた。


 E通りにある霊園の三ブロック手前で、乗ってきたタクシーを降りたアルカードとレオンは、深夜の大通りを、薄く白い息を吐きながら歩いていた。

 辺りに建つ家々の灯りは消え、この世の生物が全て死に絶えてしまったのかと錯覚してしまうほどの静寂しじまに包まれていた。

 耳をすませば、星が呼吸する音が聞こえてきそうだ。


 この辺りは駅からだいぶ離れており、夜になれば人通りも極端に減る。地元民行きつけのスーパーは午後九時には店を閉め、来るときに見かけた、ここから一番近いところにある二十四時間営業のコンビニには、夜勤を務める店員以外の人の姿は見えなかった。

 こんな夜更けに出歩く人などいるはずもなく、世界を黒く塗りつぶした夜の中を動くものは、レオンとアルカード以外にはなかった。


「ははあ、わかるかレオン、この匂い」


 しばらく歩いたところで、アルカードは眉を顰めながら、纏った黒マントの裾で鼻先を覆った。


「匂い?」

「あの心底不快な匂いよ。空気に乗って微かに香る。お前には感じられないか」


 レオンはスン、と鼻を鳴らした。すると微かに、ほんの微かに、今日の昼間に散々吸い込んだがするではないか。少女たちの部屋に残されていたあの、甘ったるく、どこか死に近しい香りが。まるで招かれざる客人に「おいで、おいで」と手招きをするような感じで、夜気に乗ってゆったりと流れてくる。

 思わずレオンも鼻の頭に皺を寄せないではいられなかった。不快感が込み上げてくる。


「奴がすぐ近くにいるということか」

「恐らくな。エリの言う通り、エドワード・モーリスはこの先にいるんだ」


 何とはなしに見上げた夜空。

 雲一つ漂わぬ見事な快晴。

 深い藍の空に堂々たる威厳を有して浮かんだ満月は、これから起こる魔物の戦いをその澄ました顔で一望するつもりか。

 夜空の王は、アルカードが思うよりもしたたかであったようだ。

 宇宙が始まった遥か大昔からこの地球ホシを見てきた王にとって、地上の異形の暗躍など取るに足らぬ、まさにそう言っているかのようである。

 アルカードは、空から降りてくる気丈な甘い微笑からすっと目を逸らした。


 二人は石畳の上を足音を殺しながら歩いた。しばらく行くと、前方に敵の待ち構える森の入り口が見えてきた。

「あれだな」と呟いたレオンの視界に、ゆらりと人影が飛び込んできたのはその時だった。二人は同時にぴたりと足を止め、警戒心も露に闇の奥に目を凝らした。


「エドワード・モーリスか!」と身構えたレオンの髪が、電流が流れたみたいに逆立つ。たがすぐ隣で「アシュレイ!」と連れが口にしたのを耳にするや否や、たてがみを思わせる金の髪が力を失ったようにストンと落ちた。


 じっと目を凝らしてみると、そこにいたのは紛れもなくアシュレイ・クレスウェルだった。二人と目が合うと、彼女は後ろめたい思いを隠すかのように軽く俯いた。

 レオンとアルカードは小走りで彼女に近寄る。


「どうして君がここに?」


 レオンの口調には、彼女の軽率な行動を責めるような響きが含まれていた。

 パーカーのフードを目深にかぶったアシュレイは、ものすごい勢いで頭を下げると、

「言いつけを破ってしまい申し訳ありません。……その、いても立ってもいられなくて……」と、力なく言い訳をした。


「こんな時間に一人で来たのかい。危ないだろう。もし君に何かあったらどうする」


 レオンは、子どもを叱りつける父親のような口調で言った。


「ほ、本当にすみません。私も、ショーコちゃんのためになることをしたくて」

「君はショーコちゃんを助けるために僕の所へ来てくれた。それだけで十分、彼女のためになっているさ」


 アシュレイはそっと頭を上げた。レオンを上目遣いに見る彼女の双眸には、己が心に誓った揺るぎない決意が、真夏の大地から立ち上る陽炎のように揺れていた。

 レオンはその目を見て、彼女の胸の内に秘められた強い思いの存在を悟る。何としてもついてくる気だ。


「ついて行くことを許してはいただけませんか……」

「いけない。そうしたところで、君に何ができる」


 レオンは有無を言わさぬ冷徹さでアシュレイを軽く睨みつけた。

 彼女の想いが伝わらなかったわけではない。むしろ、このような危険が伴わない仕事であったなら、レオンも彼女の熱意に折れて首を縦に振っただろう。だが、彼には責任がある。一般人であるアシュレイを連れてゆけば、必然的に彼女を守りながらの任務となり、本来の目的である三人の少女の救出に集中できなくなってしまう。そうなってしまっては元も子もない。そんなこと、アシュレイも心得ているだろうに。


 アシュレイは何かを言いかけて、身を乗り出したが「ぃようし!」と声を上げたアルカードがそれを遮る。真夜中の静寂に大きな声が響き渡り、レオンは顔をしかめた。いきなり大声を出してどういうつもりだ、と詰め寄ろうとしたレオンを避けるようにして、


「いいぜ。ついてきな」と、アルカードは驚くべきことを宣った。


「おい、お前」

 レオンが物凄い剣幕で連れの肩をつかむ。

「何、無責任なこと言ってんだよ。みすみすこの子を危険にさらすのか」


「アシュレイのことはおれが守る。エドワード討伐はすっかり任せたぜ」


「勝手なことを言うなよ。僕にだって計画があるんだぜ。あまり無茶を言って予定を狂わすな」


 勝手に話を進めるアルカードに、レオンは本気の怒気を込めて声を荒げる。傍にいたアシュレイは自分が引き起こした一触即発の事態に言葉もないまま黙り込んでいたが、そんな彼女を庇うかのように、アルカードは言い返す。


「わかってるよ、お前の言うことが一番正しいことくらい。おれだってアシュレイだって理解しているさ。けど、彼女は危険を承知でここに来た。己の命すら危ういこの状況で、自ら外へ出たのだ」


「ああ、だから危険なんだ。相手は人間じゃない。吸血鬼だ。そして人間は、吸血鬼の餌だ。どうして奴らの前にわざわざ獲物をぶら下げる様な真似が出来よう? こちらが一方的に不利になってしまうだろ」


「あ、の……やっぱり私、帰――」


 いたたまれなくなったアシュレイがこの場を収めようとするも、


「だめだ」


 力強いアルカードの声がそれを遮った。

 それにはアシュレイも驚きを禁じえず、どうして、という視線を彼に送る。


「おれは彼女の心を尊重したい。己の恐怖を振り切ってここへ来たこと、それだけの信念を持って、ショーコちゃんを助けに来たことを。おれたちには言わないが、この子には行動を起こさなければならなかったほどの理由があるはずなんだ」


「しかしな……」


 レオンは苛立たし気に額を押さえた。

 活発な見た目通り、アシュレイ・クレスウェルという少女はアグレッシブで、それが少々頑固な性格に繋がっているように思える。

 いくら親友が心配だからとて、人間の敵である吸血鬼の拠点に共に自らも赴きたいなどと志願する心意気は若さゆえの熱量か。レオンが頑として頷くことを否定していたが、ここから彼女の住む学生寮は遠い。

 このまま一人で帰してそれこそ何かあったら大変だ。もう一度タクシーを呼ぶか、とため息をついたところで、


「待って……待ってください!」


 と、アシュレイがレオンの腕に縋る。


「お願いです。やっぱり、私も連れて行ってください。一秒でも早くショーコちゃんに会いたい……彼女の無事な姿をこの目で確かめたいんです。彼女はいなくなる数日前からぼんやりしていることが増えて、明らかに様子がおかしかった。エドワード・モーリスのせいだったんだ……! 気付いていたのに……私はショーコちゃんの身に迫る危機を察知してあげられなかった。親友なら気が付けたはずなのに!」


「君のせいではないと、前にも言ったろ?」


 アシュレイは「違う、違う……」と首を横に振って頭を抱えた。後悔と自己嫌悪に、歪んだ瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。


「ショーコちゃんは気付いてくれた……! 私が苦しんでいた時に、誰よりも早く声をかけてくれた! なのに……私は……」


「泣かなくてもいい、アシュレイ」


 そう言ったアルカードは、まるで妹を慰める兄のように、小さな頭にポンポンと優しく手を乗せた。

 アルカードは無言でレオンを見つめた。言葉がなくとも、彼が何を言いたいのか悟れぬほど鈍感ではない。

 少女のすすり泣きの声が響く中、レオンは文字通り頭を抱えてうんうんと唸っていたが、なかなか出ない答えに痺れを切らしたアルカードが、


「誘拐された女の子たちも、友達がいたら安心するだろ」と言うので、彼もついに折れた。


「……本当にアシュレイを守れるんだな?」


 レオンは念押しするように言った。


「任せろよ」


 アルカードは得意げに顎を反らし、隣のアシュレイの肩をとん、と叩いた。

 まったく、頑固者共め。レオンは呆れたように目を細めて鼻で息をついた。

「仕方ないな」と頷くと、アシュレイはばっと顔を上げて、潤んだ目でレオンを見上げた。


「いいんですか?」

「ああ。けど、くれぐれもアルカードの傍を離れるな」


 わかったな? としっかり釘をさすと、アシュレイは何度も頷いて「はい!」と言った。

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