5.油絵

 不安がるカーラを励ましてからショーコの家を後にした三人は、続いて、他の二人の失踪者の自宅へ向かった。まずは、ショーコの家から近いところにあるマーリア・ダンジェロの家を目指す。

 その道中でのことであった。


「ところでさぁ」

 と、アルカードが、間の抜けた声で言う。

「ショーコの父親はどうしたんだろうな? 今日は休日だろ? 家にいなかったみたいだけど」


「……」


 アシュレイは、無言で視線をアルカードの方へ向けるばかりであった。何か言いたいことでもあるような雰囲気だが、一方で、言及するのを迷っているようでもある。

 そういえば先程、アルカードがショーコの家を見上げて「とても立派な家だ」と感心していた隣で、「見た目だけ」と言ってのけたことを思い出す。それを思い出したレオンが、「彼女の家は何か問題があるのか?」と臆面もない口調で訊ねる。

 アシュレイは苦笑しながら「うーん……」と長いこと唸っていたが、こうもはっきり訊ねられては誤魔化しようがないと諦めたようで、周囲の目を気にしながら声を低く落として話し始めた。


「彼女の家、というより、お父さんに問題が……」

「どういうことだ?」と、レオンは不穏な気配を感じて、眉根を寄せた。

「ショーコちゃんのお父さん、もう長いこと家に帰っていないみたいで」

「あんな立派な家があってか? 妻と娘の二人暮らしじゃ心配だろうに。何かあったとき、どうするつもりだろう」と、アルカード。


「ショーコちゃんのお父さんは作家さんなんです。筆名は、エヴァンジェリーナ・ロンバルディ」


「知らね。売れてんのか?」

 身も蓋もない言い方で一蹴したアルカードに、アシュレイは苦笑しつつも続ける。


「まぁ、それなりに。主に女性読者を多く獲得して、食べていくのに不自由ないくらいには収入があるそうです。でもって、知的で若々しい佇まいと、眉目秀麗なお顔立ちなものだから、都会のあちこちに愛人がいて、あまつさえ不義の子をこさえてからというもの、月に一度、家に帰ってくればいいものだそうです。おばさんはそれを知っていながらも、何も言わないんですって。別に、夫婦仲が悪いとか、そういったことは聞きませんでしたけど、家族三人の温かな家庭といった風ではなかったみたいです」


 予想だにしていなかったショーコの家庭事情に、アルカードは思わず返す言葉もなかった。思春期の娘が、自分の父親が見ず知らずの女と腹違いの子をこさえたと知った時のショックを想像して、彼は胸が悪くなるのを覚えた。

 否、彼女がそれにショックを受けたかどうかは定かではないが、普通ならいい気はしないだろう。父親を嫌うどころの話ではない。


「ショーコちゃんは、父親について何か言っていたか?」

 レオンが訊ねる。


「……嫌ってました。それはもう、物凄い罵詈雑言の嵐です。あいつは父親じゃないとか、どうしてあの人が私たちのように言葉を持ち、心すら持ち、知性なんてものを持っているのか不思議でならないとか、普段の気さくで優しい彼女からは想像もつかないくらいに荒れていました」


 ショーコの抱えていた大きなわだかまりを垣間見たと同時に、もしかしたらエドワード・モーリスは、そういった悩みに付け込んで彼女の心の隙間に入り込んだのでは、という考えがレオンたちの脳裏をよぎった。思春期の女の子、血の繋がった実父の不貞、普段は明るくて友達も多い彼女も、本来は心の拠り所でなくてはならない家庭内での問題に、幼い胸の内を蝕まれていたのに違いない。


 マーリアの家を訪ねると、彼女の姉だという二十代前半くらいの女性が応対に出た。Vネックの胸元から覗く鎖骨がくっきりと浮き出るほど痩せていて、目線はアルカードよりも高く、驚くほどスタイルの良い女性だった。アンニュイな雰囲気のある目元は、落ち着いていて大人びた印象を抱いたが、化粧っけがないせいか、少し幸が薄そうに見える。


 彼女に案内されてリビングに入ると、娘の行方が知れず気も休まらない様子の両親が、突然現れた珍客に目を丸くして立ち上がった。


「ノエミ、この方たちは……?」


 いかにも仕事が出来そうだといった風情の母親が、姉に向かって訊ねる。

 この家では、アルカードとレオンは、吸血鬼ハンターとその助手という肩書を伏せて、警察と協力関係にある《探偵》と名乗った。その方が家族に余計な心配をかける必要もないし、何よりここに訊ねてきた説明が楽だ。

 姉ノエミは、そわそわした様子でレオンたちを家族に紹介すると、一度全員でリビングに腰を落ち着けた。


 娘と同級の少女を伴って現れた、少し怪しいげというか胡散臭さの拭いきれない二人の探偵に促され、ダンジェロ家の人々は不安を心の底へ押し込めて、つとめて冷静さを保ちながら客人と向き合う。


「日ごろのマーリアさんについて教えてください。学校から帰ってきたら何をしていますか、何か悩み事などはありましたか?」


 レオンのその問いに対して要領よく答えてくれたのは、ノエミだ。仲の良い姉妹だったのだろう。彼女の声は淀みなく明確で、話がきれいに纏まっていて聞きやすかった。

 マーリア少女は真面目な性格で、クラスの学級委員を務めたり、積極的に学校の行事に取り組むなど、人を牽引するポテンシャルに長けた少女であるという。それに加え学校の成績もよく、スポーツも一通りはこなし、中等部に在籍していた時に部活で描いた油絵が公募で最優秀賞を獲得するなど、様々な分野で才能を開花し、まさしく文武両道。彼女の魅力はそれだけにとどまらず、見目も良いと来た。写真を見せてもらったが、そこに映ったマーリアは、カメラに向かって柔らかく微笑み、吸い込まれそうな青い瞳は涼し気で、賢そうな雰囲気に混じってちらりと伺える純粋な子どものような表情が、ことさら目を引く顔立ちをしている。

 その隣に映ったノエミの表情はと言うと、妹とは対照的に全く笑顔がなかった。写真が嫌いなのだろうか、視線はレンズから逸れていて、不貞腐れているように見える。アンニュイな目つきは今も昔もそのままだ。

 二人の背景に移ったチューリップ畑は、さながら夢の国を思わせる鮮やかさなのに対し、ノエミの瞳の奥にあるのは、まるでのようである。

 虚無的である一方で、何かを訴えたいと切に願っているようなノエミを覗き込んでいたアルカードは言い知れぬ違和感を覚えた。


 その間にも話は進み、ノエミの口からはマーリア失踪に少なからず関係しているであろう話題へと移っていった。


 文武両道、清廉潔白といった言葉を同時に持ち合わせたマーリア少女には、姉にのみ語った悩み事があったという。

 話を持ち掛けられたときは、「私なんかに何を相談しようというのだろう」と訝しんだノエミだったが、いざ妹が口を開いて出てきた言葉の内容に、姉は愕然としたという。その話とは、優秀であるがゆえに両親から向けられる過度な期待について、というものだった。

 マーリアも将来についてそろそろ考え始めてもおかしくない年頃だ。そんな少女に、両親は傍から見れば押し付けにも近い形で、進学や、将来の勤め先などあれこれと口を出してきたのだという。

 父は大学で教鞭をり、母は大手出版社の敏腕編集者という家柄で、共に名の知れた大学を好成績で卒業した親からすれば、同じく頭のいい娘には幸福を手に入れるための将来を歩んでほしいと思うのも当然といえよう。この場合、両親たちの思う《幸福のための将来》とは、良い学校を出、良い仕事に就き、たくさんお金を稼いで不自由ない豊かな生活を死ぬまで送る、というものだ。

 たしかにそれは幸福であろう。――その将来を本人が望んでいたのであればの話だが。


「お姉ちゃん、私ね、絵描きになりたいんだ」


 その時、妹が初めて打ち明けた将来の夢。

 十二歳で初めて筆を握り、庭でイーゼルを立て、足元に絵の具セットを広げ、マーリアは己の頭の中にある幻想の世界を、目の前のカンバスに描き映していった。

 来る日も来る日も、テレピン油の香りに包まれ、パレットの上に広げた極彩色を筆に乗せ、白いカンバスに自分の世界を投影していく中で、マーリアはいつしか芸術家への憧れを抱くようになっていた。


 両親は、長女の口から語られる話を今初しがた初めて聞いたのか、驚きを隠そうともせずにノエミを見つめている。

 一般的に社会に従ずるのを望んでいた両親に、このような話はできなかったマーリアの心は計り知れないが、少なからず、未来に希望と夢を持っていた少女を抑圧していたのは間違いない。

 そうしてマーリアが選んだのは、社会に出て久しい大人の姉に己の心情を吐露することだった。

 だがその時、ノエミは妹に対する劣等感にかられ、そのSOSをまともに取り合おうとはしなかった。

 頭も器量もいい妹。同じ家で、同じ両親から生まれて育ったというのに、姉のノエミには妹を心のどこかで恨みさえしていた。その感情について、姉は自らこう語った。


 ――私はマーリアとは違って、子どもの頃から何をやるにもものにならず、勉強も苦手で運動は大嫌い、加えて人見知りも激しく、容姿にはこの上ないコンプレックスを抱えており、日に日に美しく成長を遂げる妹を間近で見続けることに気が狂いそうな苦しみを抱えていた。

 そんな私の心の内など露ほども知らぬ妹が、両親から一切期待のされることなどなかったわたしに贅沢な悩みを持ちかけてきたとき、今まで感じたことのない虚しさと怒り、そして絶望を感じた。


「そんなこと、自分でどうにかしなよ。私より頭がいいんだから、それくらい考えられるでしょ」


 不安そうな顔で相談を持ち掛けてきた妹に吐き捨てた言葉を思い出すと、ノエミは胸が張り裂けそうな後悔に襲われるのだと語った。その様子は、いたく後悔しているようだった。


 二人の娘の間にあった確執を、今になって知ることとなったダンジェロ夫妻は、まさに言葉もなく俯くばかりで、こちらも姉に劣らずの自責の念を抱えているらしい。


 きょうだいのいなかったアルカードにはノエミの気持ちを完全に理解することはできなかったが、同じ家にいる妹だけが、愛する親からの期待を一身に受け、自分には見向きもされなかった寂しさや悔しさを想像することは難しいことではなかった。

 一方で、自分のやりたいこととは別のベクトルから向けられる期待に応えなくてはいけなかったマーリアの心情も想像してみれば、これはこれで窮屈だったことだろう。


 ダンジェロ夫妻だって、ノエミを愛していないわけではないのだ。そんなことは彼女自身もわかっていただろう。けれど、姉だからこそ、姉妹だからこそ、自分も親の期待には応えたかったし、受け止めきれるだけの期待をして欲しかった。


 一通り話を聞き終えた三人は、重たくなった空気の中をマーリアの部屋へ向かって歩いて行った。

 ノエミが部屋の扉を開けると、いかにも賢い子が暮らしているといった内装が現れた。壁を半分ほども覆う木の本棚には、勉強関連の本や哲学書、心理学の本、美しい景色を集めた写真集、世界の古典文学から流行りの小説など、さまざまな書物に加え、映画やミュージカルのDVDが収まっていた。


 勉強机の上には、開いてそのままになった科学のノートと参考書がある。傍らの白いマグカップの中には、コーヒーが入っていた跡があった。


 ベッドの枕元には何冊か本が重ねて置いてあり、傍の小さなキャビネットの上にはレトロなデザインのランプを模したスタンドライトが置いてあった。彼女は毎晩、寝る前にそのライトをつけて、枕元の本を読んでいたのだろう。


 全体的に整頓された部屋だったが、とある一角だけが妙に乱雑に物が置かれている場所があった。油絵具だ。使い込まれたパレット、イーゼルとその上に適当に引っ掛けられたエプロン、絵具はバラバラと床に散らかり、テレピン油の瓶が半分ほど残って転がっている。

 傍の壁に立てかけるように置かれた一枚のカンバスには、夜の海を描いた風景画が描かれていた。見事な出来であった。夜霧に霞んだ景色の中に静寂が漂っている。月明かりは白い霧と藍色の夜をほの白く照らし、穏やかな水面にキラキラと銀色の宝石が散っていた。水平線を真正面から眺めているような構図に、アルカードは思わずそれを拾い上げ、目線の高さに掲げてじっくりと観察した。そして何を思ったか、カンバスを鼻先にもっていって、スン、と匂いを嗅ぐ。……アルカードの眉間に深い皺が刻まれているのを見て、アシュレイは声をかける。


「その絵に何かありましたか?」


 アルカードは難しい顔で、その絵をみんなに見せた。


「この景色は、どこで描かれたものかわかるか?」


 間近で絵を見たノエミは首を傾げ、「いいえ」とだけ答える。

 アルカードはカンバスをもとの場所に置くと、絵に関してはそれ以上何も言わず、まるで興味をなくしたかのように部屋の中を歩き回り始めた。


 深呼吸をするみたいに大きく息を吸い込む。

 あった。ショーコの部屋にあったものより遥かに薄いが、例の香りは確かにこの部屋にも残っていた。辛うじて鼻腔を触れる程度の香りではあったが。

 レオンたちは互いに顔を見合わせると、ひどく落ち込むノエミを励ましてから、ダンジェロ家を後にした。

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