4.現場に残る甘香

 街中はすっかり秋の景色に染まり、道端のいたるところに黄色い銀杏イチョウの葉が分厚い絨毯を作り上げていた。降り注ぐ暖かな日差しは黄金色に輝いて道行く人々の髪を煌めかせる。時折吹く冷えた風に無防備な首を撫でられ、アシュレイはニットの胸元を軽く上に引っ張った。


 三人は、渇いた落葉をさくさく踏み鳴らしながら、ショーコ・Aの自宅を訪ねた。

 高級住宅街の一角に佇む二階建ての一軒家。聞いていた家族構成、父、母、娘の三人暮らしにしてはいやに大きな家だ。

 麦色の外壁に赤い屋根がかぶさり、表通りに面した二階にある馬蹄型の窓には白いレースのカーテンがかかっている。

 家の人の趣味だろうか、門の奥では広い庭が色取り取りの花によって色彩を与えられ、とても綺麗に手入れがされている。

 門から庭を挟んで、直進で五メートルはあろうかと思われる先に、茶色い玄関扉が待ち構えていて、傍らには黒いスチールの傘立てに、ローズ色の傘と空色の傘がさしてあった。

 他にも、庭に設えられたテーブルセットや、豪奢な彫り物が施されたベンチ、そこかしこにあるヴィンテージのきいたインテリアなど、まるで絵に描いたような立派な家である。


「彼女はお嬢様なんだな。とても立派な家だ」


 アルカードが素直な感想をもらすと、アシュレイは「うーん……」と、困ったように苦笑いしてしまった。

 何か変なことでも言ってしまっただろうか、と首を傾げていると、彼女はやや声を低くして、

「見た目だけです、彼女の家は」と落ち込んだように言った。


「それは、どういう……?」

 意味だ、と訊ねようとしたとき、まるでアシュレイはこの話はしたくないと言わんばかりに、目の前のインターホンを押した。

 間も無くして、カメラの備わったスピーカーから、疲れたような女性の声が応答した。ショーコの母親だろう。


『……アシュレイ?』

「こんにちは、おばさん。今、大丈夫ですか? お客さんも一緒なんですけど……」


 アシュレイは、カメラに向かって言った。

 声は急な来客にもかかわらず、相手は一切躊躇う様子もなく、


『ええ、少し待っていて』と言った。


 会話が途絶えてすぐ、玄関扉がそっと開き、中から四十代前半くらいの女性が出てきた。彼女は痛々しい程に酷く憔悴しきっていた。霞んだ色の金髪は、冷え込んだ風に晒されてパサつき、元々深めだったと思われる印象の目元は、暗い影が落ちる程に窪み、化粧ノリの悪い頬もやつれて、青い目には哀れなほどに覇気がない。

 本来は身嗜みに気を使う質なのだろうが、身に着けた高級感の漂う衣服とは裏腹に、それ以外がやけに質素なのが奇妙だった。

 品のある足取りで門のところまでやってきた彼女は、キイ、と音を立てて門を開き、客人を招き入れた。


「今日も来てくれたのね。ありがとう」


 彼女はアシュレイに向かってそう言い、力なく笑った。口調や所作には、その身に染み込んで離れない品の良さが見え隠れしている。

 視線を、娘の友人の両サイドに佇む見知らぬ客に移すと、変わった身なりのアルカードを見て、ほんの一瞬、驚いたように目を瞠っていたが、そこについて言及する元気もないと言った風情で口を閉ざす。


「おばさん、昨日も眠れなかった?」


 リビングに通されソファーに腰を下ろすなり、アシュレイが心配そうに言った。

 この家は、室内土足の文化が根強いこの辺りの土地でも珍しいことに、玄関で靴を脱いでスリッパに履き替えさせられた。

 対面キッチンで紅茶を淹れる彼女は、疲れたように笑いながら、「ええ、そうね」とだけ答えた。

 ほどなくして、木苺のような甘い香りを湯気と共に立ち昇らせたティーカップが盆に載せられてやってくる。


 ショーコの母・カーラは、三人の前にカップを置き、テーブルの中央に角砂糖とミルクを置いて、「空茶で申し訳ありません」と、ちょこんと頭を下げた。


「いえ、お構いなく。ありがたく頂きます」


 レオンは早速ストレートで紅茶を啜ると、


「いきなり押しかけてすみませんでした。心身共にお辛いところを大変恐縮なのですが、いくつか話をお聞かせ願えますか?」


 カーラは、レオンのお願いに素直に頷いたが、

「あなたたちは、刑事さん……? には、見えませんわね」

 と、怪訝けげんそうに言うので、レオンは財布の中から名刺を一枚取り出し、それを手渡す。


「申し遅れました。私はレオン・シェダールと申します。こっちは……助手のアルカード」


 と紹介しただけマシである。

 だがレオンが「助手」と言う前に少しためらう時間があったのを、アルカードが気付かないはずはなかったが、今ここでそれを突っ込む気にはなれなかった。


 受け取った名刺に視線を落として数秒、カーラの目が驚愕に見開かれる。


「《吸血鬼ハンター》……! まぁ、アシュレイ、あなた、本当に……」


 その口振りは、アシュレイがプロのハンターに相談しに行くというのを事前に聞いていた風情であった。けれど彼女自身、まさか娘が吸血鬼に勾引かどわかされたなどとは考えてもいなかったので、アシュレイが本気でそれを実行するとは思わなかったのだろう。


「だって……もし、本当にショーコちゃんが吸血鬼に攫われたんだとしたら、警察じゃ手も足も出ないでしょう? だから、一応……念のため……ショーコちゃんが一秒でも早く見つかるようにと思って……」


 アシュレイは、一つひとつ言葉を選ぶようにして言うと、申し訳なさそうにカーラの表情を伺った。

 その視線を受け、一気に不安が込み上げてきたカーラは、


「では、うちの娘は、本当に吸血鬼に拐かされてしまったのでしょうか……?」


 乱れ気味な前髪の間で、気の弱そうな双眸が忙しなく揺れた。

 まるで縋るようなその瞳で見られたレオンは、安心させるように微笑を浮かべ、


「まだそうと決まったわけではありませんよ。今日は、その心配を払拭出来ればいいと思って参った次第なのです。そのためにいくつか教えて頂きたいことがございます」


 彼がそう言うも、カーラは少しも緊張を解くことが出来ない様子で頷いた。


「あっ、じゃ、その前にまずおれが聞きたいことがある」


 急に立ち上がったアルカードに、レオンは咳払いして「言ってみろ」と促す。

 再びソファーに座したアルカードは、軽く身を乗り出すようにしながら、


「あんたは匂いだのか、ショーコちゃんの部屋に残っていた、妙な香り」


「妙な、香り?」


 返ってきた反応からして、匂いに関してカーラは何も知らないらしい。あまり娘の部屋には入らないのだろうか。


「気がつかなかったか? アシュレイは、この間ショーコちゃんの部屋に入ったときに、嗅ぎなれない甘い匂いがすることに気が付いたそうだが」


 アルカードは、もしカーラも娘の部屋で同じ匂いを嗅いでいたとしたら、何か近頃変わった夢を見たかどうかを確かめたかったらしい。

 その妙な匂いを感じたことによって、身体にどんな作用があるのかを知りたかったのだ。だがカーラは首を傾げるばかりで、アルカードたちが期待していた答えを得ることはできなかった。


「その匂い、まだ残っているかな? ちょっと確かめたい」と、アルカードは腰を浮かせながら言った。


「ああ、そうだな。すみませんが、少し娘さんのお部屋にお邪魔してもよろしいですか?」


「ええ、どうぞ」


 カーラは是非にと立ち上がり、全員でショーコの部屋がある二階へ移動した。

 階段を登ってすぐに見えてきた真っ白い扉には、《ショーコの部屋》と書かれたプレートが下がっていた。

 カーラを先頭に、ぞろぞろと四人が部屋の中に入ると、なんとも可愛らしい空間が広がっていた。

 机や棚といった家具類は木目調のもので統一され、タンスや本棚の上には白い円のレースと、そこに赤いポプリが散らばり、小さなテディ・ベアがちょこんと座っている。


 窓の横で束ねられた象牙色のカーテンは室内の清潔感をより一層高め、薄桃色のボックスシーツがかかったベッドには、毎晩彼女に安らぎの睡眠をもたらす役目を熱心に果たしていると思しき、丸々とした黒猫の抱き枕が、主人の不在を寂しがっているような顔で横たわっていた。


 カーラは毎日、この部屋に上がって掃除をしているのだろう。フローリングには塵一つ落ちていない。しかし、それならば彼女の部屋に滞在する不可解な香りに気が付きそうなものだが……。


 レオンとアルカードは、部屋の中を見渡しながら、すん、と鼻を鳴らした。

 たちまちアルカードが顔をしかめて、「くせぇ、下世話な匂いがするぜ」とレースの散った袖口で鼻先を覆った。


「ああ、確かにするな。甘ったるく、それでいて妙に不気味な香りが。この部屋の元々の香りでも、ルームフレグランスの類でもないことはたしかだな。明らかにこの香りは、この部屋にしては


 二人の言葉を聞いてカーラもすん、と鼻をひくつかせるが、彼女の嗅覚には届かないらしく、怪訝そうに小首を傾げるばかりである。


「この間より薄くなっている気がします。やはり、時間が経つとこの匂いも消えていってしまうのでしょうか」


「きっとな」


 と、アルカードが一人納得したように腕を組んで頷く。彼にしては珍しく真剣な顔で何事かを考えている風であったが、カーラはそれには気付かず、アシュレイの鼻の良さに感服している。


「すごいわアシュレイ、そのわかるのね。私には全く感じないわ」


「私、人よりも鼻がいいんですよ」

 アシュレイは得意げに微笑んだ。

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