母親の果て



 エブリン・ムーアは図書館の入り口で受付の椅子に座りながら、午後の眠気と戦っていた。訪問者の多い午前中の業務が終わり、いまは小閑の時。一日の中でも気の抜ける時間帯だった(そもそも緊張感が必要な業務など、ここには無いのだが)。


 エブリンの耳に時々きこえる女の子たちの笑い声。間違いなく娘たちだ。今日は宿題の調べものをさせるため図書館へ連れて来たのに、お喋りばかりしている。あとで叱ってやらないと。エブリンは憤慨しながらも、自分も止まらないあくびを噛み殺した。

 


 図書館の前に一台の車が止まった。フルサイズのFRセダン。巨大な図体は警察車両ポリス・インターセプターであることを隠しもしていない。


「通報があったのはこの辺りだ」腕組みしていたマテオ警部が目を開いた。


「こっちが小学校だから、あっちっすね」もう一人の運転していた警官イーサンが軽く言う。


 マテオが車を降りようとドアノブに手をかけた所に、若い警官が不満を漏らした。「本当に襲撃なんかあるんですか? こんな明るいのに……そんな雰囲気ないですよ。不審者が現れるまで、ここから眺めてる訳にはいかないですかねえ」


 マテオの顔が厳しさを増した。叱りつける代わりに、彼は無言で若い警官を睨んだ。


 イーサンは仕方ないといった様子で肩をすくめ、降りる準備をした。「残業とか勘弁ですからね」何かにつけて一言返さないと済まない性格たちらしい。


 相棒を父親のように説教するのはもう諦めていたマテオは、嘆息して車を降りた。「あっちだ」彼は遅れて付いてくるイーサンの足音を確かめながら、図書館の入り口へと向かった。




 受付に黒い人影が近づいてきた。明らかに異常な雰囲気を持つ男。引きずるように歩く足取りは一歩一歩がおぼつかなかった。手には拳銃とアーミーナイフを持っていて、どちらかが使用された証拠に、男のシャツは返り血で真っ赤に染まっていた。


 エブリンは人の接近には気づいていたが、意識がガラスの向こうの景色に飛んでいて、相手の姿をまともに見ていなかった。


 男は無言のまま進み、無警戒のエブリンの横を通り過ぎていく。


 その時だった。エブリンは気づいた。図書館のガラス壁に背を預けて、髪の長い人物が立っていた。顔の辺りに煙が揺らいで見える。タバコをふかしているのだろうと気づいた(ここは禁煙だと言うのに)。半袖から見える肌の色からすると白人のようだった。


 その女性がこちらを振り向いた時、エブリンはギョっとした。彼女がおもちゃ売り場で見かけるような、目と口をくり抜いた強盗のマスクを被っていたからだ。エブリンが驚いたのを見て、マスク越しに女が笑った気がした。


 強盗のような女性が手を上げて、指で何かのサインをくり出した。同時に喋っているように口が動いている。ガラス越しなので当然声は聞こえなかった。


 エブリンは首を捻った。だがすぐに、女がエブリンのいる図書館の奥を示している事に気づいた。


 エブリンは何の気なしに振り向いた。そしてもっと驚くことになった。エブリンの直ぐ横をまもなく通り過ぎようといている男の異常な雰囲気に、肌が泡立つような感覚を覚えた。


「ちょ、ちょっとそこの人、IDカードを提示しなさい!」


 男は立ち止まって、エブリンに振り向いた。ポケットをまさぐり、何かをエブリンの前に放り投げる。それはエブリンの前の机で跳ね、転がって止まった。エブリンは息を飲んだ。まだ切り口に真っ赤な血が滴っている、人間の薬指だった。


 叫び声を上げるよりも早く、男が持っていた銃の背でエブリンの顔を殴った。彼女は積まれた書類を巻き上げながら、受付のテーブルに叩きつけられた。


「奥の奴ら皆殺しにする。それまで待ってろ」揺るぎの無い殺しの約束を残して、男が奥の部屋へと歩いていく。


 エブリンは顔面を襲う傷みと、身の縮む恐怖に震えあがった。


 だが偶然目の前に、殴られた衝撃で真っ二つに割れたバインダーが落ちていたのを見た時に、震えが止まった。かろうじて紙が挟まっていた。今日入館した訪問者がプリントアウトされている一覧。エブリンはそこにある名前がはっきりと見えた――マディラ、ティコ、ジェーン。私が育て上げた、3人の最愛の娘たち。


「待ちなさい!」エブリンは立ち上がって、叫んでいた。「私の許可なしに、その先には行くことは許しません!」


 武装した男が立ち止まった。油の切れた作業機械のように、ぎこちなく振り向く。「てめぇをぶっ殺すのは後回しだって言ってるだろう……順番があるんだよ。まずは若い奴らからってな――」


 男の声を遮るように突然、館内の警報ベルが鳴り響いた。その大音量に一瞬、男さえも怯んだ。


 エブリンも驚いたが、回復は男よりも早かった。彼女は無手のまま太った体で走っていき、怯んでいた犯人に向かって体当りした。


 ぶつかった後、二人は正反対に弾け吹き飛んだ。男の手を離れた太い刃を持つナイフが床を滑っていった。エブリンは腕と腰を強く床に打ち付け、うめき声を上げた。彼女の体の中で骨が砕けたような嫌な音がした。



「全員動くな!!」入り口から複数の警官が突入してきた。マテオとイーサンだった。2人とも銃を構えていた。


 助かった……エブリンは奇跡が起こったのだと思った。しかし彼女の祈る神はその御力を、エブリンの命を救う為には使ってくれなかった。


 一発の銃声が響いた。エブリンの視界が真っ赤になった。起き上がった武装犯が手にしてた銃でエブリンの腹を撃ったのだ。


「じゅううををおおろせぇえぇ……」エブリンには、男性警官のどなる声がスロー再生で聞こえていた。お腹が焼けるように熱かった。もう駄目かもしれないとエブリンは考えた。心の中に痛みや死への恐怖が渦巻く。けれどすぐに、もう2度と娘たちに会えないという悲しさがやってきて、エブリンの胸の中を一杯に満たした。


 でも良かった……私はきっと娘たちを守ることが出来たから。警官も来たし、もう平気よね……ああ、思い出した。ずっと心残りだった事を……これで安心したわ。


 そうして目を閉じたエブリンは、そのままゆっくりと、息をするのをめた。

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