針金 (ショートミステリー)
「鍵は室内からすべて掛けられていました。典型的な密室殺人ですよ。しかも死因が奇妙なのです」
「奇妙とは?」
「体中の骨がバラバラになっているのです。両手足は糸の切れた操り人形のようになってるし、あばら骨はゴリラにでも締め付けられたように粉々。まるで、クラゲのようになって死んでいたんです。直接の原因は、胸部圧迫による窒息死だということでした」
「ふうむ。どう考えても普通の殺人事件じゃないな。被害者は多羅尾博士、科学者で、殺人現場はその研究所という事だね」
入江警部は書類を見ながら呟くように言った。
「研究中は、誰にも邪魔されないように、研究室の鍵を掛けているのが常だったんだね」
「そうです」
と、答えたのは、まだ新米の雷坊刑事だった。
「現場は被害者以外の指紋もなければ、不審な人物の遺留品など、手がかりになりそうなものは一切ありません。まったくどうやってこの犯罪を犯したのか」
「雷坊君、方法が分からなければ動機から探るんだ」
「ところが、怨恨の筋も物取りの筋も今のところ考えられないんです」
刑事という職業の実際は、地味な捜査活動の積み重ねである。型にはまった考え方に陥りやすい。この若い刑事も、すでにその落とし穴に落ちてしまっているようである。
入江警部はため息をついた。
「いいかい、被害者は科学者だ。つまり、特殊な人種だよ。まず、彼が現在、何を研究していたのかを調べたまえ。それからすぐに専門家を呼んで、被害者がこれまでしてきた特許出願の内容を調査するんだ。いいね」
雷坊刑事は、はい、と短く答えてすぐに駆け出した。
行動力だけはたいしたもんだ。
雷坊の後ろ姿を見ながら、入江警部は思わずにこりとした。行動力こそが刑事に求められる一番の資質だということを、彼はよく知っていたのである。
数日後、二人の刑事は被害者、多羅尾博士の自宅の玄関に立っていた。
チャイムの音で中から出てきたのは、娘盛りは遠く過ぎているが色香の匂い立つような和服の美女である。
「奥さんの多羅尾幸代さんですね。この度はとんだことでした」
入江警部と雷坊刑事は、息をそろえたように慇懃な物腰で頭を下げた。
「どうぞお入りになって…」
多羅尾幸代は、何の警戒心もなく二人の刑事を招きいれた。
応接間に通されるかと思ったのだが、そのまま食卓に案内されて、
刑事たちは軽い驚きを感じている。
「ちょうどお昼にうどんを作ったところなのですよ。先日里から送ってきた讃岐の手打ちうどんです。主人の大好物だったのですが」
幸代婦人は長いまつ毛を閉じて震わせた。
「夫がいなくなってしまってから、食事をいつも多く作りすぎてしまって…。お昼がまだのようでしたら、どうぞ召し上がっていただけないかしら」
食卓に湯気立つ釜揚げうどんが用意された。二人とも職業柄外食が多く、家庭料理には餓えている。思わず舌鼓を打った。
「これはこれは、ありがとうございます。では遠慮なくいただきます」
音をたててうどんを腹に掻き込んだ。
「これはうまい」
「ううむ、やはりうどんは讃岐が本場ですなあ」
すでに表情から曇りが消えて、幸代婦人は満足そうに頷いた。
「ヨーロッパで麺類が発達しなかったのはなぜだか、ご存知かしら?」
「イタリアにはパスタがあるでしょ」
「パスタはフォークが発明されてからやっと作り出された食べ物よ。ヨーロッパでは食事の道具は長い間ナイフだけしかなかったの。あっちには箸がなかったから」
「ほう、ということは我々の食生活を支えている箸が、その利便性によって麺類を生み出したということですね」
言いながら、入江警部は雷坊刑事に目配せをした。
彼女の薀蓄を聞くのはもういい、そろそろ切り出せ。彼は無言でそういっていたのである。雷坊刑事は、その視線を受けて咳払いをひとつした。
「さっそくですが」
彼は箸を振り回すようにして、食卓に身を乗り出した。
「実は、多羅尾博士の研究助手の吉田君、ご存知でしょう。彼も今朝、都内のホテルの一室で殺されました。死因はやはり同じです。体中の間接がバラバラになっていたのです」
多羅尾幸代は絶句した。
突如、両目から涙を溢れさせた。だが、唇をきっと結んだ意思の強さが、その場で泣き崩れることだけはかろうじて支えているようだった。
「同時に、奥さんと吉田君が不倫の関係にあったことも調べが付きました。申し訳ありませんが、一連の殺人事件の重要参考人として署までご同行願いたいのです」
「まあ」
幸代は驚いたように顔を上げ、二人の刑事を見比べて視線を動かした。すでにその表情は別人のように変わっていた。
「あなたたち、私を疑っているの?」
「いや、そういう訳じゃないのですが、とりあえず署の方で詳しいお話を聞かせていただこうと思いまして…」
「そう、そういう事情ならわかりました。私は準備がありますので、どうぞ、お食事をしていてください」
幸代はすでに笑顔に戻っていた。目くるめくような感情の変化である。
彼女はそのまま食卓を離れて別の部屋へ出ていった。その仕草は驚くほど、淡々としている。
「逃げる心配はないでしょうか、警部」
「大丈夫だろう、まだ犯人だと決まったわけじゃないんだ。ここで逃げ出したら、自ら墓穴を掘ることになるからね。ところで、前にいった、多羅尾博士の研究について調べは進んだかね」
吉田は待ってましたとばかりに手帳を取り出した。そこに一本の針金のようなものを挟んでいる。それは、繊維と見まがうばかりの細さだった。
「いいですか、警部」
吉田はその針金を摘まむと、冷たいコップの水に突っ込んだ。
取り出した針金は、見事にのの字を書いている。入江は目を丸くした。
「形状記憶合金です。多羅尾博士はこれですでに特許を取っていました。特徴は変形に際して驚くべき力を発揮することと、低温で変形温度をどのようにも設定できるということです。これは画期的な発明だそうです」
入江は、しばらくその針金をじっと眺めていたが、突然青い顔をして叫んだ。
「雷坊君、この部屋、さっきから急に涼しくなったと思わないか?」
「今日は少し陽気がいいですからね。気を利かせて冷房を入れてくれたのでしょう」
「そうじゃないよ。驚くべき事だが、あの女、俺たちを殺すつもりだ。いいか、すぐ冷房を切るんだ。このままだと胃が穴だらけになってしまうぞ」
雷坊には突然のことで、何がなんだかわからない。
入江警部は、雷坊の目の前に自分のコップを突き出した。そこには、水の中に入ったうどんの束が、まるで箸のように一直線になって、ぴんと堅く固まっていたのである。
後日、押収された多羅尾博士の下着に、あの針金が織り込んであることがわかった。冷房によって、一定の温度になると胸を締め付け、手足の間接を逆に捻じ曲げるような形状がインプットされていたのである。しかも、決められた時間、決められた形状を保つと、すぐにもとに戻るという巧妙さだった。
助手の吉田の着ていた下着も同じだった。ホテルの冷房が起爆装置になって彼を殺した。
夫と情夫の下着を自由にすることができる人物といえば、もはや多羅尾幸代しかいない。動機は愛憎の縺れと不倫の清算だった。
形状記憶うどんを食った入江警部と雷坊は、丸二日間も腹にカイロを巻いていなければならなかった。彼らが麺類を再び食えるようになる日は、今だにわからないそうである。
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