久しぶりの仕事人

「依頼か」

 ひとりの黒ずくめの男が闇に向かって言った。すると、その闇の中から、低い声が聞こえてきた。

「五年ぶりの仕事だ。まさか腕は鈍っていないだろうな」

 と、声が男に尋ねた。姿はまったく見えない。

「これだけ仕事に間があくと、三度の飯も食えなくなってくる。おかげで貧乏していたよ。だが、俺もプロだ。稼業を疎かにするような馬鹿ではない。毎日の訓練は怠りないさ」

「さすがに仕事人だ。それを聞いて安心したよ。ターゲットはある組織の裏切り者だ。明後日、その男は証人として法廷に立つ。組織が政界の裏まで深く絡んでいる事を考えると、奴の証言は国中を激震させる内容になるはずだ」

「証言する前に消せと言うわけだな」

「そうだ。しかし、いま奴は重要証人として厳重な管理下にある。都内のある高級ホテルの一室に軟禁され、その周りを常に数人のSPが監視しているのだ。さらに、建物の入り口にさえ近づく事が出来ないほど、完璧なセキュリティで守られている。だが、組織は奴がその中で、自殺してくれれば良いと思っている。組織に対する忠誠を思い出して、自らの命を絶ってくれれば、当局もそれ以上動きにくいだろう」

「自殺か……。これは大変な仕事だな」

「が、手はある。奴はいま、一日のうちに数回、窓をたった数センチ開けて、そこからわずかばかりの外気を吸っている。狭い空間で長い時間息を潜めていることに耐え切れなくなっているのだ。そこで君の出番だ」

「その隙間からナイフを投げ込み、奴の胸を射抜くのだな」

「隣接する商社ビルの屋上から狙って欲しい。距離は五十メートル。標的はねずみの穴ほどの隙間の向こうだ。常識を超えたナイフ投げだが、それだけに誰もプロの仕事だとは思うまい。密室での自殺だとしか考えられないはずだ」

もし、それが可能だとしたら、恐るべき技能である。だが、仕事人の目が暗闇の中で、きらりと光った。

「とりあえず同じ距離と標的をコピーしたセットを作ってくれ。期日までシミュレーションして、百発百中の技を練らねばなるまい」

「すでに郊外の別ホテルの部屋を借り切って準備している。獲物は市販のナイフを用意しておいてほしい。足がつかないようにどこにでも売っているものがいい」

 男の目がしばたいた。ナイフは、俺が用意するのか……と言いかけて、その言葉をぐっと飲んだ。


 当日の朝のニュースは、一面で重要証人の自殺が報道された。思ったとおり、人間業とは思えない殺人方法が、当局捜査陣を錯誤させているのだ。ところが、すでにその日の午後には、事件は殺人だとする情報が報道を賑わした。さらに、夕方、犯人の名前がマスコミを通じて公表された。

 男は慌てて姿をくらまそうとしたが、捜査の手は思ったより早かった。あっという間に、その住処を暴かれた。

「何てことだ」

 男は、身を捩るようにしてうめいた。窓の外はすでに警察と報道が群れている。 

 足がついた原因ははっきりしていた。練習用のナイフを投げてしまったのだ。

 金銭に困窮していたこの仕事人は、ナイフを使い捨てにするのがもったいなくて、自分の名前と住所を書いて使用していたのである。

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