責任
男は玄関の前に立っていた。
懐かしい我が家である。男はいつものように「ただいま」と声を掛けた。
ところが、いつまで待ってもしんとしている。
おかしい。ふと、言いようもない不安に駆られて我が家に飛び込んだ。
そこにあるのは、どこまでも見慣れた日常だった。
台所へ行くと、妻がお気に入りのエプロンをして鼻歌を歌いながら野菜を刻んでいる。テレビは誰も見ていないのに相変わらず点けっぱなしだし、もう夕方だというのに窓から覗く洗濯物はまだ物干しにぶら下がっている。
ただ、奇妙なのは、何度男が「帰ったよ」と呼びかけても妻が返事をしてくれない事だ。
男は怪訝に思いながら、さらに二階の子供部屋に向かった。
半開きの戸からすっと入ってみると、中学生になる一人娘がベッドで寝転んで暢気にマンガを読んでいる。受験前だから少しは勉強しろ、とあれほど叱りつけたはずなのに、なんて子だ。
それにしても変だ。黙って部屋に入ると、いつもヒステリーのように激怒する娘が今日は何も言わない。それどころか、父親がそこにいることさえ、まったく目にも入らないような素振りである。
「どうしたんだみんな」
男は叫んだ。
娘の手を取ろうとしたが、手と手が重なるようにして通り抜けていってしまうだけである。
その時、娘が天井を見上げて「お父さん」と呟いた。
そのまま、脱兎のように部屋を飛び出し、階段を駆け下りて、妻の居る台所へ向かった。男はその後姿を追いかけた。
「お母さん、お母さん、今、お父さんが帰ってきたような気がしたの」
とたんに頬が歪んで娘の瞳に大粒の涙が溢れた。
妻が娘を振り返った。
「馬鹿な事をいわないで。お父さんはもう別の世界の人なのよ。私たちはもう、あの人の思い出にいつまでも縛られてはいけないの」
「そんな事わかっているわ。でもそんなに簡単に忘れられるわけないじゃないの」
「それは、私だって同じよ」
妻は、悲しみに堪えて唇を噛み締めるような表情をした。後はもう言葉にならないようだった。
男はその時すべてを察した。
今はまだ、ここへ帰ってきてはいけないのだということを…。
自分が彼女らにとっては、話すことも触れることも出来ない、別世界の異人であるということを…。
玄関から外へ出ると、そこは荒涼とした廃墟の街だった。
男は失いかけた意識を再び取り戻した。
背中に背負った生命維持装置はまだ機能している。彼は、もはや後ろを振り返えろうともしないで、再び無の世界に向かって歩き始めた。
全世界でたった一人だけ生き残った人間の責任として、やっておかなければならない仕事が数え切れないほどある。
このまますぐ、家族のいる場所へ帰るわけにはいかないのだ。
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