白い目

 ネオンの賑やかな繁華街の裏通りを迷路を解くように、奥へ奥へと進んでいくと、微かな灯りにぼんやりと浮かび上がった小さなドアに辿りつく。

 そのさらに、奥に「魔女」と呼ばれる占い師がいた。

 男は、どこから聞いてきた噂なのか、彼女がこの街でもトップレベルの霊能者であるということを知っていた。

 彼は自分の内にある知力と機知だけで、すでに人並み以上の人生の成功を手に入れていたが、それだけでは乗り越えられない不思議な出来事に、今直面していたのである。彼が人に勧められて、半信半疑ながらも「魔女」に会いに来たのはそういう理由からだった。

 受付をすませて、窒息しそうなほど狭くて薄暗い部屋でしばらく待っていると、ほどなくして男は名を呼ばれた。

 カーテンで仕切られた次の部屋に入っていくと、中はさらに暗く小さな部屋である。正面にひとりの小柄な女性が、体中を隠すようなショールを巻いて座っていた。男と「魔女」の間には薄いレースのカーテンが引かれていて、ろうそくが一本淡い光を放ってゆらいでいる。

 相手の顔はよく分からないが、意外に若い女じゃないか、と男は思った。

「ご相談はどんなことでしょう」と「魔女」が口を開いたが、その声にもどことなく艶がある。

 男は、いつもの快活な口調でその問いに答えた。

「相談というほどのことでもないのだが、とても不思議なことがあって……」

 そういうと、男は、背広のうちポケットから写真の束を取り出して、「魔女」に差し出した。「魔女」は、その一枚づつをゆっくり繰りながら、言葉を失ったように押し黙っている。

 いつものくせで、男は急いたような物言いになった。

「ごらんの通り。すべて最近の私の写真なのだが、両目がひっくり返って、白目をむいたように写っている……」 

 ……どの写真の眼も黒目がない。何度写真を撮ってもそうなってしまう。最初自分は、「こんなバカバカしいこと」と思って気にもしなかったのだが、人がどうしてもというから無理やりに時間を作って相談に来たのである。もちろん、こんなことにいつまでもかかわっていられないという気持ちでだ。

 男は、少しばかりうんざりしたような態度で、一気にそう捲くし立てた。「魔女」は、その間一言も言葉を挟まず、写真の束を男に返しただけで、ただ顔の前で両手を合わせて黙祷している。

「わかりました」

 しばらくして、おもむろに眼を見開いたかと思うと、「魔女」がやっとしゃべり出した。

「あなたがこの部屋に入ってきたときから変だと思っていました。今のあなたには魂がないのです。忙しいのはわかりますが、お仕事に囚われすぎているのです」

「仕事が生きがいだからね」

「どの写真のお顔も白目にしか写らない。白目というのは、死んだ人の目です。つまり、あなたを写した写真は、すべて死人を写した写真だという事です。今のあなたは、いわば生ける屍……」

「はははは」

「魔女」の言葉を遮るように、突然、男は笑い出した。

「現に私は生きている。毎日ばりばり仕事をこなしているよ」

「いえ、そうではありません。あなたの中から抜け出しているものにお気づきにならないだけなのです」

「何を言い出すかと思ったら、やはりその程度のことか。仕事を休め、休養しろ、というのは、いつもの貴様らの手なんだ。恐らく私がいることが煙たくてしょうがない者たちの手の込んだ仕掛けなんだろう」

「なにか勘違いなさっているようですわ」

「魔女か占い師か、なんだか知らんが、判ったようなことを言っていても、しょせんは小娘。やはり時間の無駄だった」

 男はそう言うとボールペンを取り出し、写真に写った自分の顔に一枚づつ黒目を書き込んでいった。その作業が終わると、写真の束を「魔女」の前に投げだして立ちあがった。相容れぬ人間同士の会話をこれ以上続けても仕方がない。

「魔女」は唖然とするばかりである。

「人生というものは、自分の力で運命を変えていくものだ。今までも、そしてこれからも俺はこうやって生きていくだろう」

 自分自身に絶大な信頼を持って、男はそう言い切った。 彼はこれまで何回もの危機を、自分ひとりの知略と胆力で乗り越えてきたのである。

 別世界への扉を背中にして、男は再び日常の荒波の中へ飛び出していった。一瞬でも、このような迷いごとに時間を浪費したことが悔やまれてならなかった。

 そこに散乱した写真にはすべて両目が入れられている。

 男の強烈な生き様に気圧されてしまったのだろうか、「魔女」はその一枚一枚を拾いながら、手の震えをいつまでも止めることができないでいた。



 すでに午前を回った深夜、豪邸の前に高級外車を乗りつけて、男が降りてきた。 

「下らん、時間つぶしだった」

 そう呟くと、玄関の扉を勢いよく開けて、広い屋敷中に響き渡るような大声で「今帰ったぞ」と叫んだ。

 しばらくして、奥から男の妻が品のいい和服姿で迎えに出てきた。

 が、男を一目見た瞬間、彼女は、「きゃー」とあらん限りの悲鳴を上げた。恐怖で、顔が蒼白になっている。

 男は訳がわからず、呆然とするばかりである。妻は腰を抜かしたまま、這うように後ずさりした。

 男を指差し、震える声で言った。

 

 あなた、白目だけになっているわよ……。

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