釣り人
銭湯「タカラ湯」の煙突の中腹で、初めてその奇妙な男を見つけたのは学校から帰宅する途中の小学生だった。
煙突にそって登るはしごの真ん中辺りに、一人の中年男が腰掛のようなものを括り付け、その腰掛にちょこんと座って、釣竿を構えているのである。
子供たちは声を掛けあって、わいわいがやがやと煙突の周りを囲んだ。
なんであんなところで、という疑問は誰にも答えられない。いつの間にか、彼らは群れになって空を見上げ、一様にぽかんと口を開けていた。
しばらくすると、大人たちがその光景を訝しがって、ひとりふたりと集まってきた。主婦もいれば、営業中のサラリーマンもいる。風呂屋の向かいのパチンコ屋の客たちも、人の波に気を取られてぞろぞろと店から出てきた。
人たちが口々に、どうしたんだい、と尋ねても誰もわからない。ただ、町中でひときわ高い煙突の真ん中で男がひとり、釣りをしているだけなのである。
いつの間にか、ヒッピー風の若い男が、ギターを取り出して、「フール・オン・ザ・ヒル」を歌いだした。中には、煙突の釣り人のことを、きっと名のある詩人に違いない、と言う者もいた。しかし、たいていの人は精神異常者だと思っているようだった。きっとそのうちの八割は、そこから男が落ちる惨事をわくわくしながら見守っているのだろう。
とにかく、小一時間もしないうちに、昼下がりの銭湯前は黒山の人だかりになった。そのうちのほとんどは、暇を持て余している主婦たちである。女性がほとんどだから、そのかしましさといったらなかった。
「昔、太公望という偉い人がおって」
と、子供たちに薀蓄を垂れ出したのは、角のボロ寺の和尚である。檀家の法事の帰りにここへ立ち寄った。なるほど、釣れるはずのないところで竿を構えるとすれば、その故事に倣ったものかもしれなかった。
商店会のすし屋のどら息子は、そりゃ違うね、といった。
「試しに何を釣っているんだ、と聞いてみな。きっと奴はこう答えるだろうね。何を釣っているかだって、ここで釣れたのはあんたで○○人目だよ、ってね」
そういえば、そういう落語オチがあったような気もする。知っている人は頷いたが、大抵の人は、その話にまさかね、と思っていた。そんなナンセンスギャグを現実に実践する人間が本当にいるとは考えられないからである。それにしても、この落語好きのどら息子が、次の展開を期待して釘付けになっているのも面白い話である。結局、自ら釣られたままだということではないだろうか。
ともあれ、煙突の下ではいろいろな憶測が飛び交ったが、明確な理由も見つけられないまま、人々はただ、天空の釣り人を見守るしかなかった。
と、ふいにどこからか、大声が上がった。
「危ないぞ、早く降りてこい」
それは至極まともな意見だった。人々ははっと気づいたようにそれぞれの顔を見合わせた
すでに煙突の前に町中の人間が集まったとしか思えない人だかりだったが、これまで誰一人そんな常識的なことを叫ぶ者がいなかったのが不思議である。目の前の情景があまりにも突飛すぎて思いもよらなかったということなのだろう。
「何している。煙突から降りろ」
「落ちるぞ」
堰を切ったように空に向かって、人々の声が交錯した。
しばらくすると、男は釣竿を水平に構え、突然片足立ちを始めた。
「おおっ」
群集から大きなため息が漏れた。
なんと今度は、男がそのまま片足を頭よりも高く持ち上げ、V字バランスをしたのである。なんというスリリングなパフォーマンスだろう。思わず、ぱらぱらと拍手をする者もいる。
その時だった。
見るに見かねた駐在さんが、煙突のはしごを登りはじめたのだ。地上では説得の声も聞こえないだろうと思ったらしい。
状況は、がぜん面白くなってきた。下にいる観客たちは、わくわくしながら、文字通り手に汗を握って事の展開を見守った。
が、小さな町に起こったこの奇妙な騒動は、驚くほどあっけなく終わった。
煙突の男は、駐在さんが登ってくるとすぐに煙突を降りはじめたのである。地上に降り立つと、男は「お騒がせしました」と一言だけいい、釣り竿を担いで、群集の間を縫うように消えていった。
地上でこれまで見守っていた人々はただあっけに取られた。
一連の出来事は白昼夢だったのかもしれない。夢から覚めてみると、何のことはない、いつものありふれた昼下がりである。町の人々はみんな拍子抜けしたような顔をした。
群集はクモの子を散らすようにそれぞれの家庭に戻っていった。
しかし、その時になって始めて驚愕すべき事実が判明することになる。。
なんとその町の家という家の玄関に、「怪盗紅のタコ参上」という貼り札がはられていたのだ。
煙突の男は「空き巣狙い」の撒き餌にすぎなかった。それに飛びついた人々の財産は、すでに蹂躙され尽くしていたのである。
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