部屋の中

 母親はドアに口をつけるようにして娘の名前を呼んだ。

「京子、ここを開けなさい。部屋からすぐ出てきなさい」

 その肩の後ろから、父親が腕を伸ばしてせわしなくノックをした。

「出てくるんだ。京子」

「声がしないわ」

「いないのか。返事をしなさい」

 しかし、中からは反応がない。母親は泣くようにして顔をゆがめ、父親は怒りで唇を震わせた。「お前が悪いんだ」

 その怒りが母親に向かった。

「お前が子供部屋に鍵なんか付けるからこんなことになるんだ。娘の引きこもりを助けているようなものじゃないか。中で何をしているのか、わかったものじゃない」

「女の子なんだから、大きくなったら仕方ない事じゃないの。それにあの時は、あなたも賛成したわ。むしろ京子の言いなりになるのは、いつだって私よりもあなたのほうよ」

 父親は次の言葉が出ない。荒げた声を静めて、再びドアに向き直った。「京子、とにかく顔を見せなさい。家族で話し合おう」

 すると、ドアの向こうからやっと女の子の声が聞こえてきた。

「話すことなんかないわ。今は外へ出たくないだけ、だからこのままにしておいて」

「わ、わかった。やっと返事してくれたんだね」

 父親は、その妻に向かって囁くようにいった。

「よかった、少なくとも娘は中にいる。今日はそっとしておいてやろう。なあに、そのうちに出て来るさ。一人になって、とことん悩んでみたい年頃なのかもしれない」

 母親は頷いた。

「京子、ちゃんとベッドで寝るのよ。風邪をひかないように。明日の朝は、一緒に朝ごはんを食べましょう」

「おやすみ、京子」

「おやすみ」

 ドアを通して小さな声が、おやすみなさい、と返事した。それを確認すると、父親はため息をついて母親に言った。

「まあ、大丈夫だとは思うが、何かあるといけない。今晩はここで見張っていよう」

「見張るって?」

「ドアの近くで寝るんだ。ここに布団を引きなさい」



 京子は難しい顔をして、白衣の男を振り返った。

「毎晩、こんなお芝居に付き合わなければならないんですか」

 男はやさしく笑った。

「当分の間はね。親孝行だと思って我慢しなさい」

「鍵はどうするんですか」

「掛けなくてもいいと思うよ」

 京子の気持ちは半信半疑である。その疑いを察したように、白衣の男が説明を始めた。

「どんな臆病者でも、舞台の上ではりっぱなヒーローになる事ができる。だが、君たちのやっている事は、お芝居じゃなく、あくまでも治療なんだよ」

 しばらくすると、ドアの隙間から漏れていた明かりがふっと消えた。両親の部屋を背にしながら、京子は祈るような気持ちになった。

 男がその横顔を見ながら呟いた。

「自分たちのいるところが、中ではなく外だと思い込むことで、少しづつ閉塞感の恐怖から逃れる事ができるようになるんだ。それにしても、夫婦揃って閉所恐怖症だなんて、本当に珍しい事だね」

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