眠れる森の美女
今、ある老人が死を前にしていた。彼は巨万の富をたったひとりで自由に出来る大金持ちでもある。
ベッドの横で見守っているのは、老人がもっとも信頼しているひとり息子だった。
「息子よ」
と、老人は細く消えそうな声をだした。
「金では命は買えぬ。また、最先端の現代医学を持ってしても寿命というものには逆らえないらしい」
「お父さん!」
「悲しむのは早い。実は頼みがある」
そう云って、震える手で息子の前に差し出したのは、はがき大の古ぼけた絵だった。
そこには、花に囲まれたベッドの中で、死んだように眠っている女性が描かれていた。この世のものとは思えないほど美しい。
「この女の人は誰ですか?」
「名は知らぬが、彼女は、どこの時代、どこの国のどこの森とも知れぬ場所で、永遠の昔から眠り続けている美女だ。その美女が目覚めないのは、魂がないからだ。よく聞け、ここからが肝心なところだが、お前もすでに覚悟しているように、わしはもうじき死ぬ」
息子は俯いて嗚咽した。
「しかし、もう一度生を繰り返す方法がある。それが、その眠れる美女の肉体の中に、魂となって入り込むことなのだよ」
「この美女に生まれ変わると……そ、そんな夢のような……」
息子は驚いて涙も吹き飛んだ。俄かに信じがたい。
「いや、これは、夢ではない。絶世の美女になって目覚め、第二の人生を送ることができるのだ。わしは若い頃、ある信頼の出来る人物からその方法を伝えられ、今まで心の底に大切にしまっておいたのだ。方法は簡単だ。わしが息絶えたまさにその時、ある呪文を唱えてくれればよい。早すぎても遅すぎてもいけない、わしの魂がこの体から離れた一瞬に唱えるのだ」
「その呪文とは……?」
「絵の裏に書いてある。今は口に出してはいけない。お前にはわしの財産をすべて残しておく。だから後は首尾よくやってくれよ」
息子はその絵を裏返してみた。
マハリク、マハリタ、ハリポッタ、とある。このような単純な呪文で、美女に生まれ変わる事が出来るというのか。
だが、もしそれが本当だとしたら、これほどの美女である、どのような男でも思い通りに操れる事だろう。女として、思いのままの人生を生きる事が出来るに違いない。
……少し、うらやましくも、ある……。
老人は死んだ。
だが、息子はその呪文をついに唱える事はなかった。美女と呪文の存在は、自らが死を迎えるときまで秘密にしておこうと思ったからである。老人がその絵を引き継いだ時とまったく同じだった。
かくして、同じ遺言が再び繰り返され、眠れる森の美女は、未来永劫、目覚める事はないのである。
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