自信回復の方法
明るい書斎に二人の男が向かい合って座っている。ひとりがカルテらしいものを手にしているが、そこを普通の治療室だと思う人はいないだろう。
世の中が高度化し複雑になるに連れて、心の病を患う人も増えてきた。青年はなにごとかの悩みを抱えてここへ来ている。その彼を穏やかに見つめる中年の男は、心理療法のプロ、いわゆる心療カウンセラーだった。
だが、カウンセリングが始まる前から、青年の顔つきはいつもと違って晴々としていた。
「思ったとおり、いいことがあったんですね」
と、カウンセラーは青年のことを何から何までお見通しだとでもいわんばかりだった。
「まさかこれって、治療の成果なんですか?」
カウンセラーはその質問には答えず、ただにこやかに問診を続けた。
「どうぞ、お話ください。まず、いつものようにリラックスすることが大切です」
「何から話していいのか……」
「前回は、あなたの心を支配していた、とらわれ、自信のなさ、ストレスなどのあらゆるマイナスの要因が、あなたから集中力や気力を削ぎ、緊張症や不安症、あるいはうつ症状として顕在化しているという説明をしましたね。そして、あなたの潜在意識の中に巣くっているマイナス要因を引き出すところから、その裏にあるいくつかの問題を探っていきました」
「はい、その中に自己回復の方法があると……。でもおっしゃっていることが難しすぎてよくわかりませんでした」
「しかし、今、あなたは確実に心と体のメカニズムの調和を取り戻してきているじゃないですか」
「その通りです。これまで形の見えなかった不安のようなものが薄れ、なんだか自信が湧いてきたようにも思いますし、集中力が増してきたようにも感じます」
「ここ数日、何か変わったことがあったはずです。それは何でしょう」
青年は瞼を閉じて深呼吸をした。
「夢を見ました」
「ほう……どんな夢ですか?」
「夢の中で、同じ職場のある女性を休憩時間に屋外に呼び出し、愛の告白をしたんです。彼女は、仕事上いつも僕といがみ合い、競争しあっていた同僚でもありました。でも、そのとき始めて僕は彼女にあこがれ、恋愛感情を抱いていたことを知ったのです」
「彼女に対する抑圧された愛情。それがまさにあなたの潜在意識の中で、あなたの心を蝕んでいた原因のひとつだったのでしょうね。あなたはそれに気づき、自己回復のために行動する勇気をもった。すばらしいことじゃないですか」
「でも、夢ですよ」
「原因を知ることが一番大切なことです。それができて始めて、あなたにもっとも適した自己回復法が見つけられるのです。さて、夢の中であなたの告白は成功しましたか?」
「最初はダメでした。彼女は僕に対して頑なに心を閉ざしていたからです。でも僕は誠意を込めて一生懸命彼女を口説きました。自分にこんな情熱があるとは思いもしなかった。どうせ夢なんだから、と気分が大きくなっていたせいかもしれません。そのうち、僕の気持ちが少しずつ彼女に伝わっていくのが、実感としてわかるようになりました」
「夢だという認識があったにせよ、あなたはそこで立派に自己解放できたということです」
「ところが不思議なのは、上手くいったのは夢の中ばかりではなかったということでした。翌日、会社で彼女と顔を会わせたのですが、なんだか僕を見る目がいつもと違うんです。僕に対する優しさというか、恥じらいというか、明らかにそういうものが言葉や行動の端々にサインとして感じられるんです。まるで夢の中の出来事が現実になったみたいでした」
「なるほど、それから……」
「また、彼女に対して別の夢をみました」
「別の夢? ほう……」
「彼女を口説いた後、結婚の申し込みをしました」
「なんと、結婚の申し込みまで……で、どうでした」
「悩んでいるようでしたが、これも成功するような気がします。夢だと思うと何でもできるもんですね。ついでに、別の課の女の子にも求愛しました。これもばっちりでした。それから、アパートの隣の奥さんにもデートの約束をしました。なんだか、自分って思ったよりももてるんじゃないかと……」
「ううん、しかし、そこまで効果があるとは!」
「効果?」
青年は眉をしかめた。
「ってことは、これらの夢はあなたの治療法に関係あるってことですか?」
カウンセラーは苦々しい笑顔で答えた。
「実はそうです。だが、効果を上げすぎたようですね。その治療法を説明する前に、もうひとつ、あなたは別の夢を見たはずですが、それについてお尋ねしておきたい」
「別の夢? 確かにもうひとつ、上司の命令を断る夢を見ました。あれほどすっきりしたことはない。考えてみれば、僕は今まで彼の命令に逆らったことはありませんでした。会社に対する背信だと思えるような仕事でも、彼の指示があればいわれるままにこなしてきました。今まで長い間、僕はあの上司に抑圧され、コントロールされてきたのだということが始めてわかりました」
「そして、夢を見た後、現実でもその上司はあなたに一目置くようになった……」
「その通りです。まさにここでも夢が現実になりました」
「それを聞いて安心しました。私の治療はすべて終わりです」
カウンセラーは大げさな動作でカルテを閉じた。
「あなたは自分自信の力で自己を解放することに成功しました。すでに対人恐怖症、パニック障害、強迫神経症、うつ症などの心身症は克服されたはずですよ。おめでとうございます」
青年は首を捻った。
「どういうことですか、さっぱりわかりません」
「説明しましょう。あなたが抱えてきた重度の心身症は、カウンセリングの段階でふたつの要素から起因していたとわかりました。ひとつは職場のある女性に対する抑圧された愛情、もうひとつは恐ろしい上司に対する強迫観念です。その原因を解消するためには、あなたの心の中にわずかの勇気とわずかの自信が必要だった。私はそれをあなたの深層心理の奥から、催眠術という手法を使って導き出したのです」
「催眠療法、ってやつですか」
「まあ、似たようなものです。実は、あなたが見た夢は、夢ではありません。私の仕組んだ催眠術のプログラムでした。私の催眠術に操られて行動している間、あなたはまるで夢の中で自分を観察するように、現実を認識していたのでしょう」
「では、あれは夢ではなく現実だったと!」
「そうです。夢の中のあなたは劣等感の欠片もない、すばらしい自信と能力の持ち主だということがお分かりになりましたか? ただ、あなたの場合、催眠術が効きすぎる傾向がある。ついでに別の女の人を口説いたりして、効果が必要以上に大きかったかもしれませんね。まあ、たまにこういう体質の人もいらっしゃるようですが……」
カウンセラーは屈託のない笑い顔を見せた。
ところが、青年の顔が見る見る曇ってきた。
「あれが夢じゃないとすると、別の日にさらに文句をいってきた上司をぶん殴ってしまったのも現実だってことですか?」
「ありゃ、そんなことまで」
「ついでに転んだ頭を踏んづけて、パイプ椅子で何度も叩き、頭を潰してしまいました。それから、前から上司に僕の失敗を告げ口ばかりする隣の席の同僚を、屋上に呼び出して、そこから突き落としたりもしましたよ。夢なら何でもできると思って」
「ま、まさか」
「いつも思っていたんですが、このクリニックの受付の女、口の聞き方が生意気なので、これも夢の中でやっつけてしまいました。窓口のボールペンを鼻の穴に刺して、ぐりくりっと。きっと脳みそまで突いてるよ!」
「き、君」
「だって、夢だとばかり……」
「あ、あれは、私の妻だぞ!」
それは、この自信満々のカウンセラーにとっては、まさに悪夢のような現実だった。
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