悪魔の哄笑

 駅のトイレに行きずりの女を押し込んで金を奪い、命を奪った。

 細い首を鷲掴みにして一気に締め上げると、女はうっ血した顔を醜く歪めた。その体が床にずり落ちる音だけを背後で聞きながら、俺は脇目も振らず駆けた。 

 からからからと悪魔が笑うような声が、俺の背中を追いかけてくるのが聞こえる。人ではない何者かが俺を操っている。それは、悪魔の代行者として完璧に振舞った男に対する賞賛の拍手だったのか。

 そこから少しでも遠ざからなければいけないと焦っていたが、すぐに息が切れた。俺の生身の肉体は、長い時間走る事が出来なかった。

 最終電車の出たあとの駅のトイレに人などいない。だから、誰にも見られていない。改めてそう思うと、気持ちが落ち着いた。いつの間にか悪魔の笑い声も止んでいる。何事もなかったような風を装うのに無理はなかった。

 俺は、ネオンの街へ出て、まったく自然に雑踏の中に混ざり込んだ。

 ところがしばらくして、道行く人々の視線が一斉に俺を見つめているのに気づいたのだ。

 明らかに、奇異なものを観察する視線。しかも、口の中で篭ったような皮肉な笑い声すら聞こえてくる。

「あ、ごめんなさい」

 ふと、若い少女が俺にぶつかって、頭を下げた。と、たちまち、少女の真摯な態度は笑顔で崩れた。

 舐めているのか。

 俺は思わず、両手を目の前に広げた。頚動脈の血流が締まる感覚が、まだ手の平の中に残っていた。ずきずきと痛いほど、心臓が高鳴った。

 この手で締めたのだ。女は自分がその時どんな状況にあったのかもわからなかっただろう。俺の凶悪さを思い知る暇もなかった。

 ……お前の首も締めてやろうか……。 

 俺は一匹の悪魔だ。その証拠を今、お前の目の前で見せてやってもいい。

 と突然、少女の後方から、二人の警官が警棒を振り回しながら、俺を目指して走ってくるが見えた。

「そいつは殺人未遂事件の容疑者だ。みんな離れろ」

 あの女、死んでなかったのか! しかし、なぜ、ばれたのだ?

 が、目の前の少女は腹を抱えて爆笑している。あまりにも奇妙で場違いな悪魔の哄笑。少女の人指し指が導く視線の先、それは俺の背後だった。


 女が倒れる寸前に、空間を掻き分けるようにして俺に取りすがろうとしたのだろう。

 間抜けなことに、ズボンの腰のところに挟まれたトイレットペーパーが、延々と十メートルほども道路にたなびき、俺の逃げてきた方向を人々に教えていたのだ。

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