眼科医院の災難

まだ日の沈む時間ではないが、空がどんよりと暗くなった。街の人通が少なくなって。しばらくすると、ぽつぽつと大粒の雨が降り出した。

 その日は朝から大雨警報が出ていたらしい。たちまち雨脚が激しくなり、あっという間に豪雨になった。しかも、雨粒を横殴りの風がさらっていくような暴風雨である。

 ひとりの男が、ある個人病院の玄関でガラス張りのドアを力いっぱい叩いている。病院と呼ぶにはあまりにも古めかしい、朽ち果てたような建物だった。庇の下に掛かっている年代物の看板には「眼科医院」と書いてある。

「開けろ、開けてくれ」

 男は大声を出した。

 派手なシャツとサングラスは、どうやらチンピラやくざのような風体である。傘を持っていないために、頭から全身に水をかぶったように濡れそぼっていた。

 しばらくすると、ガラスの向こうの白いカーテンがさあっと開いた。そこに、化粧気のない、干からびた顔の中年女が立っている。

 今日は午後から、休診ですが…と、女がドアの向こうから、小さな声で言った。

「いいから、開けろ」

 やくざ風の男は、かまわず怒声を上げた。女は、困ったように顔をしかめたが、すぐに鍵を開けた。

 ドアが外に向かって少しだけ開くと、男はその隙間に身をねじ込むようにして中に入った。

 屋内は外よりもさらに薄暗い。

 女はすぐドアを閉めたが、一瞬の雨と風で玄関はびしょぬれになった。男はまるで、今海から出てきた半漁人ように、全身から雨水を滴らせている。女性が差し出すタオルを、不機嫌な顔で引ったくった。

「先生はどこだ。先生は」

「診察はお休みなんです。先生はいません」

「あんた、奥さんか?」

 女は頷いた。

 医者の奥方にしては、貧相な顔つきである。もっとも、眼科などという病院経営では、医療機具、設備がどれだけ充実しているかが、医院の信用を左右する。どう贔屓目に見ても、この前時代的な医院が、商売として繁盛しているようには思えなかった。

「奥さん、患者が来ているんだ。居留守を使っても駄目だよ。助けてくれよ。目が痛いんだよ」

 女が、困惑した顔で後ろを振り返った。

 奥から、ひげ面の初老の男が、白衣を肩に引っかけながらのそりと出てきた。一見してむさ苦しく不潔そうに見えるが、どうやら、彼がこの女の夫、つまり、ここの医者のようである。

「どうしたんだ」

「あなた、患者さんが…」

 女は泣きそうな顔をしている。やはり、迷惑そうな気持が、医者の表情からもありありとわかった。

「時間外治療はしていないんだけどね」

「なんだと」

 チンピラは、激昂した。

「それでも、医者か。目が痛いといっているだろう。痛いといっている患者を追い出すつもりか」

 医者は男の勢いにたじろいだ。

「わ、わかった。わかったから、そんな大声を出さないでくれ。とにかく診察室の方へ入って…」

「そうか、わかりゃいいんだ。こっちだな」

「保険証はありますか」

「そんなもんあるもんか。保険証がなけりゃ、診察できないというのか」

「いや、そういう訳ではないが…」 

「とにかく、今朝から目の奥が痛くてたまらんのだ。何か大きなゴミが入ったのかもしれん。がまんできんから、すぐにどうにかしてくれ。うまい具合に直ったらちゃんと金は払う。だが、直らなかったら、どうなるかわかるだろうな」

 男はサングラスを外しながら、診察室の方へ入っていた。

 サングラスの下の目は釣り上がって鋭い。その目で、じろりと医者を睨み、凄んでみせた。

 これ以上文句を言おうものなら、何をされるかわかったものではなかった。どんなことでも、暴力で言いなりにしてしまう、相手は、そういう種類の男のようである。

 外はますます激しい嵐だった。

 医院の中は、まるで密室のようである。そこに野獣と一緒に閉じ込められたような状況になっていた。


 突然の来訪者は、診察台の上にごろんと仰向けに転がって、医者が入って来るのを待っている。

 診察室の裏では、医者とその妻が青い顔をしていた。

「困ったことになったな」

「今のうちに逃げられないかしら」

「いや、今あの男に騒がれたら、やばいことになる。このまま、医者に成りすまして、時間をかせごう。お前は、早く仕事の続きをするんだ。貯金通帳と印鑑、それからその他の金目の物を洗いざらい袋に入れてしまえ」

「あなた、それまで、あいつの目の治療をするつもりなの。すぐばれてしまうわよ。だって、素人なんだから」

「大丈夫」

 成り行きながら、医者に扮することになってしまった「空き巣狙い」は、自信たっぷりに笑った。

「とりあえず、目の裏に薬を塗っておいてやろう」

 彼は机の上においてあった千枚通しを掴むと、そのまま診察室に向かって行った。 

 目玉をひっくり返すことなど、この男にとっては朝飯前のことだった。

 「昔とった杵柄」とはこのことだろう。実は、この仕事を始める前、彼は長い間、タコ焼屋を経営していたのである。

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