23.屋敷編[十一]

 ――某所。

「わたしの殺人に関しては、こんなところかしら」

 淡々と述べる楠葉さんに、あたしは、

「そう……北澤さんを殺したのも、楠葉さんだったんですね」

 そう口にするしかなかった。信じたくなくて、特に、大和さんを殺した時のことなどは受け入れがたくて。他にどう反応すべきか、それすらも考えられなかった。

 楠葉さんには、この女には、人を殺すことへの躊躇が薄れている。恐らく彼女はもう、本当に冷酷無比な殺人者になってしまっているのだ。

 この女が怖い。けれど、だからこそ、次の言葉が浮かんだ。

「よく三人も殺せましたね。その上でよく、刑事としてあたしに接して、今も家政婦に扮するなんて真似ができますね。普通じゃないですよ……」

 そしてそんな普通じゃない女を、一時は心から信頼しかけていた自分を呪う。

「あなたの鞄の中から、鉈を見付けたわ」

 少しの間を置いた後、楠葉さんはそう言った。それを聞いたあたしは、彼女から目を逸らした。

 この屋敷内に武器がないことを知った時は、妙に落ち着かなかった。ここに連れてこられる前のことを思い出した今では、それは恐怖心や脱出への欲求からだけでなく、それまで持っていた武器が抜き取られていたことも理由の一つではないかと思っている。

 和さんは、あたしが鉈を持っていたことを知って絶句している。何も言わずにこちらに向けられる彼の視線が、ただただ痛い。

「なんの為に持っていたかは大方、予想が付くけれど。ねえ、あゆむちゃん。あなたにわたしをとやかく言う資格なんてあるのかしら」

 ――人を殺そうと思ったのは、何も楠葉さんだけじゃない。あたしだって……たとえどんな理由があろうと、その相手が誰であろうと、楠葉さんと同じことをしようとしたのは事実だ。

 沈黙が下りた。

 しばらくして、ようやく和さんが口を開いた。

「北澤って刑事の話の中で出てきた、『進む筈だった道』とはなんだ。事故がなかったら、あんたには警察以外の進路があったのか?」

 彼の質問に、楠葉さんは目を伏せる。どういう心情で伏せたかはわからない。

 ただ、今の彼女の表情は、とても辛そうに見えた。何かを堪えているかのようだった。

 ややあって。

「ええ、あったわ」

 はっきりとした声で、彼女は答えた。そして再びあたしを見る。

「あゆむちゃん。あなたはさっきわたしに、この日の為に演技力まで身に付けたのか、って言ったわね」

 それから嘲るように口元を歪めて、次の言葉を吐いた。

「わたしの演技を認めてくれてありがとう。でもこれはあなたの為に身に付けたものじゃないの」

 和さんが眉根を寄せる。楠葉さんは、何もわからないあたしたちに憐れむような視線を送ってから、おもむろに口を開いた。

「あなたたち本気で、知人すら騙せるほどの演技力を、一朝一夕で身に付けられると思ってるの? それとも、この日の為に五年間、勉強したとでも言いたいのかしら。五年前といえば、わたしは警察になる為の勉強をしてたわ。必死でね。警察に入ってからも覚えることは多かったし、何より個人的な捜査もあった。とてもそんなことをしてる余裕なんてなかったわ」

「じゃあ、どうしてここまで完璧な演技が……」

「わたしはね、子供の頃から成人するまでの間、劇団に入ってたのよ」

 彼女の口から飛び出した「劇団」の単語に、あたしと和さんの視線がぶつかった。

 彼女は続ける。

「小さな劇団だった。でも公演は定期的に行ってたし、メインキャストにわたしが抜擢されることもあった。事務所から直接、オーディションのオファーが来ることもあったわ。わたし自身、将来は女優の道を歩むのだと、信じて疑わなかった」

 その口調はどこか誇らしげで、とてもあたしたちをからかっているようには聞こえなかった。これも、演技だろうか。気のせいかもしれないが、それは違うように思えた。彼女は恐らく、本当のことを言っている。

「人を殺すことへの躊躇いを上手く誤魔化せたのも、自分すら騙せたのも、その時に培った演技力の賜物だったって訳か」

 和さんも、彼女の話が嘘ではないという前提で話を進めるつもりらしい。

 あたしは一瞬、楠葉さんの顔に出来た傷に目を向けてしまっていた。彼女がそれを見逃す筈がなかった。

「そうよ、あゆむちゃん。あなたが起こした事故のせいで、わたしは女優の道を断たれたの。今でこそ少しは薄くなったけど、当時は化粧でも誤魔化せないぐらいひどいものだったのよ」

 ここぞとばかりに攻撃させる隙を、自ら与えてしまった。黙って彼女から目を逸らす。彼女の場合、厚化粧をしていたことにまで理由があるのだ……。

「そうか、それでここまであゆむを憎むようになったのか。あんたにとってその傷は、将来を大きく左右する、呪いのようなものだったんだな」

 和さんが納得したような声を上げる。楠葉さんに同調しているようにも聞こえて、胸が痛んだ。しかし――

「だがあんたは今度は警察として、有望株の立場を得たんじゃないのか。キャリアなんだろ。そこに至るまでの苦労はあっただろうが、それでも、あんたの顔の傷に、俺の兄貴が殺されるほどの理由があったとは思えんな」

 和さんは言い切った。最後の部分は、はっきりとした口調だった。見れば彼の拳は強く握り締められている。

 和さんには、楠葉さんを憎む姿勢を崩すつもりはないらしい。あたしの為じゃないとはわかっているけれど、それでも、あたしは折れそうになる心をどうにか奮い立たせることができた。

 しかし楠葉さんに視線を戻すと、彼女に動じた様子は見られなかった。和さんの発言を想定していたとでも言いたげだ。

「ええ、わたしもそう思うわ。わたしの受けた実害が、顔の傷のせいで役者になれなかった、というだけならね」

「だけ、ですって?」

 逆に、あたしたちが驚かされてしまったぐらいだ。まだ、何かあるというのか。

「わたしが養女だって話が出てきたのは覚えてるかしら」

 北澤との会話でのことだろう。本筋とは関係がないと思った為あまり重要視はしていなかったが、その事実を聞いて驚いたのは確かだ。

「施設にいたところを引き取られたって言ってましたね。祖父って、そのお金持ちのお爺さんのことですか」

「ええ。血の繋がりはなかったけどね。別に、父と呼んでもよかった。ただ年齢が年齢だったから」

 心なしか、祖父のことを語る楠葉さんは優しい目をしていた。大切な思い出を懐かしんでいるように。

「本人の前で『おじいちゃん』と呼ぶことには、なんの抵抗もなかった。それぐらい、あの人はわたしによくしてくれたから。劇団に入りたいと言えば入れてくれたし、大学にも通わせてくれた。自分の全部をわたしに遺してくれるとまで言った。この屋敷もその一つよ」

 彼女の視線につられるように、周りを見る。広い部屋。高い天井。今は、復讐の為のリフォームによって閉ざされた空間と化しているが、通常の家として考えれば、窮屈さとは無縁の屋敷だと思える。

「本当に優しい人だった……。わたしはその恩義に報いたくて、勉強も、努力も、何一つ苦にしなくなってた。学校でいい成績を取れたのも、劇団で周りから認められるまでになったのも、全部、祖父の存在があったから。あのまま頑張ることを続けられれば、上手くいってたのよ」

 そう語られた言葉は、どこか切なげに響いた。

 その声を聞くや否や、和さんが顔を強張らせていた。察しのいい彼のことだから、何かに気付いたのかもしれない。

 楠葉さんの顔に影が差す。それは刑事・楠葉絢子の顔ではなく、あたしたちを騙す為に演じていた、あの不気味な家政婦に近いものだった。

「わたしが顔に傷を負ったのは、最終オーディションの一週間前。……あのオーディションは、ほぼ出来レースだったのよ。わたしは合格確実と言われてた。あの事故さえなければ、一週間後には女優の称号を手に入れてたの」

 あたしの体に寒気が走った。それは同時に、あの日の自分の行動を、心の奥底から悔やんだ瞬間だった。

 どうして、飛び出したのが楠葉さんの車の前だったのだろう。どうしてあの日が、楠葉さんの努力が実る直前だったのだろう。本当にどうして、あんなことをしてしまったのだろう……。

 どれだけ考えても、遅過ぎる後悔だというのに。それでも悔やまずにいられない。

 間に合わなかった――彼女はそう続けた。

「祖父が亡くなったのは、事故の一年後。わたしが国家公務員試験に合格したのが、二〇一八年。わたしは……祖父の前では何者にもなることができなかった」

 静かに語られた彼女の声は、悲痛な叫びとなって、あたしの耳に届いた。和さんも黙って視線を下げている。

「わたしが警察を目指すことにしたのは、あの事故の真相を知りたかったから。本当にそれだけだった。演じることは好きだったけど、祖父を安心させられるなら、警察として成功すればいい。そう思い直したから。……結局は、復讐の為に目指したようなものになってしまったけれど。祖父が亡くなってからもわたしが止まることなく進み続けられたのは、それが理由よ」

 そして最後に。次の言葉で、彼女はこの、真実の物語を締めくくった。

「以上よ。わたしの話は、これで、全部。わたしの半生はね、あゆむちゃん。あなたに捧げたのよ」

 全て聞き終えて抱いたのは、あたしに楠葉さんをなじることはできない、責めることなどできる訳がない、という思いだった。

 あたしは、彼を殺された復讐の為に、犯人を追う覚悟を決めた。だからこそ、彼女の気持ちが理解できるのだ。そして、あたしの罪の意識。それらがブレンドされた結果、残るのは、贖罪を受け入れなければという気持ちだけ。

 あたしは目を伏せた。だが、それは――贖罪を受け入れることを決めたからじゃない。

 これまでの彼女の行動が、全てあたしだけを苦しめる為に行われていたものだったなら、そうしていた。受け入れていたと言い切れる。でも、実際は――

「それで……それが、理由ですか。大和さんを殺したのは」

 あたしは、一度は口にしようとした謝罪を飲み込んでいた。代わりに吐き出したのは、原初の感情を込めた言葉。

「確かにあたしのしたことは、楠葉さんの人生を滅茶苦茶にするようなことだった。到底、償い切れるものじゃありません。あなたがあたしに何をしようとも、あたしは受け入れなきゃいけないと思います。でも、それを理解した上で、もう一度言います。――あたしが憎いなら、あたしだけを切り刻めばよかったんですよ!」

 楠葉さんのこめかみが一度、ひきつった。

 和さんも、何かを思い出したような表情を浮かべて、あたしを見た。

 楠葉さんが何者かになれた姿をお祖父さんに見せられなかったのは、あたしのせいだ。あたしが、いじめを苦に、馬鹿な方法で命を絶とうとしたせいだ。それは決して許されることじゃない。

 でも、それじゃあ、大和さんは? 大和さんが殺されるに足る理由は、あるか? もし、あたしがここで楠葉さんのしたことに納得してしまえば、大和さんには、どう報いればいいのだ。

 最初は、あたしが復讐を決めた当初は、大和さんという光を失ったあたしが壊れてしまわないようにという、利己的な感情が心を支配していた。でも、真実を知った今、そんなものはどこかへ消えている。代わりにあるのは、悪いことなどしていないのに無残な死を遂げた大和さんに対する、ただただ気の毒だという気持ちだけ。

 あたしは、大和さんをこんな目に遭わせた楠葉さんを、絶対に許してはいけない。許してしまえばそれは、大切な大和さんへの裏切りになるから――

「開き直るつもり?」

 しかし彼女も冷たく言い放った。彼女にも、あたしを許せないという気持ちがある。彼女の心に、あたしの言葉が届くことなんてない。そんなことはわかり切っていた。

 きつく握り締めていた手から力を抜いた。肩の力も抜く。いつでもスカートのポケットに、手が差し込めるように。

 彼女が一歩近付いてくる。その顔にはなんの表情も浮かんでいない。

「好きになさい。あなたには別に、謝罪の言葉なんて求めてないもの」

「……なんですって?」

「今までのわたしの話、冥途の土産にはなるかしら」

 ここであたしは、自分の考えの甘さを思い知らされた。

 あたしが動くよりずっと早くに、彼女は蹴りを繰り出していた。あたしに向けて。彼女の長い脚は、余裕であたしの体に届いた。固い靴の裏で蹴り付けられて、なす術もなく後ろへ飛ばされる。肩を床に擦り付けながら倒れ込んだ。

 痛みを堪えながら起き上がろうとする。しかし間髪入れずに胸を踏み付けられた。息が詰まって、喉の奥から奇妙な声が漏れる。

 それでもなおポケットに手を伸ばそうともがいていると、彼女が自身のまとうエプロンドレスのスカートに、手を差し入れた。太ももの辺りをまさぐっている。不審に思う間もなく、彼女はスカートから手を出した。――ダガーナイフを、握った状態で。

 それを目にした途端、あたしは思考も抵抗も止めてしまっていた。彼女は今まさに、ナイフをあたしに振り下ろそうとしている。

 しかしその刃先があたしの肉を貫くことはなかった。それどころか、押さえ付けられていた胸がふっと軽くなる。

 和さんが、彼女に体当たりをしかけていた。

 楠葉さんが驚きの表情を貼り付けたまま大きくよろめく。直後に和さんは、彼女の両手首を掴み上げていた。

「離しなさい!」

 彼女が怒鳴る。

 あたしは咳込みながら、痛む胸を押さえて起き上がった。

「あなた、この子を庇う気? あなたのお兄さんが死んだのは、この子のせいなのに」

 彼女が目を剥いている。思えば彼女が感情を剥き出しにするのを見るのは、初めてだった。

 一方の和さんも負けてはいない。つばぜり合いを続けたまま、鋭く彼女を睨んでいる。そして次の言葉を吐いた。

「あんたの話を聞いて、俺も悩んだよ。あんたの言うことは正しいのかもしれない。同情の念すら持った。だが……そこまでの捜査力があるなら、どうしてあゆむをいじめた連中を探そうとしなかった? どうしてあゆむにばかり目を向ける。あんたが他の方法を取ってたなら、少なくとも無関係な人間を犠牲にすることはなかったかもしれない。でもそうはしないで俺たちの方を狙ったのは、あんただろ!」

 楠葉さんに負けない声量で放たれたその言葉に、あたしは胸を打たれていた。目が覚める思いだった。

 蹴られて踏まれた胸だけじゃなく、床に擦った肩もひどく痛んでいる。けれど動かせないほどじゃない。和さんはどこまでも、この女を許さないつもりでいてくれるのだ。あたしも、痛いからといって、呆けてなんていられない。

 次の瞬間、競り負けたのは和さんの方だった。男女の力の差も体格差もあるとはいえ、格闘技では彼女には敵わない。彼女に腕を捻られて、片方の手を離してしまう。膝を突かされたところで、ナイフの先が和さんを捉えた。

 標的は完全に、あたしから和さんに移っていた。

「ただ居合わせただけのあなたは殺さないでおいてあげてもよかったのに、残念だわ」

 心から残念そうに言うと、彼女は和さんの喉にナイフを押し当てた。和さんはただ歯を食い縛って、彼女を睨み続けている。

「わたしたち全員、理不尽に狂わされた負け犬ね」

 楠葉さんから悲しげに呟かれた言葉が、和さんが最後に耳にした言葉――となる前に、あたしは大きく踏み出していた。スカートのポケットからブラックジャックを取り出す。そして振りかぶった。

 彼女の、頭へ目がけて。

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