18.外の世界編[七]

 ――三月某日。午後八時前。

「どこに行くんですか?」

 彼女の車に乗り込んだ私は、ショルダーバッグを足元に置いて、シートベルトを締めていた。

「その前に、あゆむちゃんからの用件を聞きたいわ」

 彼女は私の質問を受け流して、話の先を急いだ。私は、足元に置いていた鞄を膝に乗せた。その間にどう切り出そうか考える。ややあって口を開いた。

「北澤さん殺しの犯人は、特定できそうですか?」

「現段階では行き詰まってる。北澤さんと関係があったと思われる会を調べようにも、物的証拠がないんだもの。聞き込みに追われてるわ」

「ってことは、私の彼が殺された事件の方は……」

「後回しになってる事実は、否めないわね」

 やっぱりそうなのか……。

 考えてみれば当然だ。特に重要でもなんでもない一般人が殺されるのと、刑事が殺されるのとでは、警察からすれば重みが違う。

 わかっている、そんなことは。人の命は平等ではないのだ。どんな綺麗事を並べたところで、大勢の人間から「価値がない」と判断されたものの優先度は低くなる。数には勝てない。それが世の中だ。

 わかっている。わかってはいるけれど――

「ごめんなさい、あゆむちゃん。こればっかりは私の力じゃどうすることもできないの」

「……別にこのことをどうにかして欲しいなんて、思ってないです。ただ、腹が立つだけで」

 腹が立つ。それは、この上もなく、繕いようもない感情だった。だからどうするということでもないけれど、私の気持ちの問題だ。誰に文句を言われる筋合いもない。

 すぐ側を、ライトをハイビームにした対向車がすれ違っていった。嫌な記憶がオーバーラップしそうになって、思わず目を瞑る。会話もそこで一度、途切れた。

 この道はどこに続いているんだろう。

 いや、それよりも今は。会話を再開させないと。

「あの、北澤さんの事件の話に戻りますね。ヤクザが絡んでるか調査中っていっても、他に怪しい人が全く浮かんでない、なんてことはないですよね」

「どうかしらね。詳しいことは、なんとも」

「どうしてはぐらかすんですか?」

「ねえ、そもそも本件はあゆむちゃんとは関係がない筈よ。そこまで気にしてくれなくても……」

「キャメリンのママ。剛田さんには、動機があるんじゃ?」

 マーチはどんどん駅から遠ざかっていく。

 彼女の言葉を遮ってまで続けた声は、自分の耳にも冷たく響いた。再び無言の間が生まれる。

 数秒置いてから、また私が続けた。

「楠葉さんなら、それぐらいとっくに思い付いてますよね?」

「……ええ」

「北澤さん殺しが解決しない限り、私の彼が死んだ事件に手を着けて貰えないなら、早く解決して欲しいんです。今のままじゃ、高田さんにあれこれ頼むのだって、難しいんじゃないですか」

「でもどうやって剛田さんから話を聞くの? 周辺を洗うとしても、私の身はすでにあゆむちゃんとのことで、これ以上は動けないわ」

 剛田さんに動機がある可能性を警察で提示することは、同時に、剛田さんが北澤さんに口止めをされていたと提示することでもある。黙っていて欲しいと言った剛田さんとの約束を反故にすることになる。だからもし彼を調べるとなると、警察全体としてではなく、これも非公式に行わなければいけない。

 ――本当にそうだろうか? 剛田さんとの約束は、そこまで重要なものなのだろうか。北澤さんがなぜ口止めをしたかの経緯は、なんとでも誤魔化せるのではないか。

「約束を守るのはいいことです。私も今日、楠葉さんのそういう責任感の強いところに助けられてます。でも私たちの脅威だった北澤さんは死んだんですよ。剛田さんが私たちのことを喋ったところで、裏の取りようなんてないと思うんですけど。人殺しかもしれない人を、野放しにするつもりなんですか?」

 早口になりそうなぐらいに昂っていく気持ちを抑えて、一字一句を意識して発音した。

 楠葉さんに対する感謝とか、称賛とか、尊敬の気持ちは本心だ。本心……の、筈だ。

 なのに。

 どうしても強い語調になってしまっている。色んな出来事に対する苛立ちが、理不尽に対する遣る瀬無さが、ここぞとばかりに顔を出す。

 今まで、家族と彼以外の前でこんなに感情的になることなんて、なかったのに……。これではただの八つ当たりだ。

 楠葉さんの横顔は相変わらず涼しげに見えるけれど、内心はどうだろう。怒らせてしまったかもしれない。

「それこそお手柄じゃないですか。楠葉さんは手柄を立てて、上に行きたいんですよね?」

 しかし私は引かなかった。何かまた、言うべきじゃないことを言っている気がする。

「剛田さんが犯人と決まった訳じゃない」

 楠葉さんは言葉を返しはするものの、こちらを見ない。前だけを見つめる彼女。私は、彼女だけを見つめている。

「そうですけど、今一番怪しいのは――」

 ――剛田さんじゃないですか。という言葉は、口の中でもごもごと消えていった。楠葉さんがブレーキを踏んだからだ。

 急ブレーキ、という訳でもない。体への負担も少なかった。でも信号は赤じゃないのにどうして、と不思議に思った。というより、前方に信号はない。それどころか、視線を巡らせても、走っている車すら見えない。

「ここ、どこなんですか」

 暗いのと、話に夢中でいたのとで、あまり周りを意識していなかった。見覚えのない田舎道にマーチは停められている。外灯もない。

 我が家からもとても離れている場所ではない筈なのに、来たことがない場所というだけで少し不安を覚えた。さっきまでの嫌な熱が一気に冷まされるようだった。

「楠葉さん?」

「私からも、言わなきゃいけないことがあるの。ごめんなさい」

 どうして謝るのだろう。彼女の顔に落とされた影のせいで、表情をちゃんと窺うことができない。

「遺留品のスマホだけど、実は何も調べてないの」

 声も淡々としている。だから余計に、内容を理解するまで時間がかかった。

「えっ……な、なんでですか? どうして。だって楠葉さん、北澤さんの死体を見付けた日には、もう教えてくれるって……その為に日まで開けて、しっかり調べてくれたって」

「教える気なんて端からなかったの」

「どうして」

 それ以上の言葉が出ない。頭が真っ白になってしまった。多分、今、私の目は泳いでいる。

 失意。失望。――絶望。目が回るばかりで頭は回らない。

 それでも必死に言葉を絞り出した。

「冗談、ですよね。もしかして、私が楠葉さんを怒らせるようなことばかり言うから、それで、だから、ですか? だったら謝ります。ごめんなさい。冷静じゃないんです。冷静でいられないんです。だって、私……彼が……」

「別に怒ってなんてないわ。それに冗談も言ってない。私は、あなたとの捜査の中で、本気で協力し合おうと思ったことなんて、一度たりともないの」

 意味がわからない。楠葉さんは何を言っている? いや、わかる筈だ。理解したくないだけだ。

「嘘、吐いたんですか? 騙したんですか? 私を」

 か細い声が出た。それも次の瞬間には大声に変わった。

「裏切るんですか!」

 ――自分だって裏切るつもりだった癖に。

 しかし今はそんなことはどうだってよかった。悔しくて、悲しくて、目の前の女刑事がただただ憎い。

「なんなんですか、あなた……自分が何を言ってるかわかってるんですか? 守秘義務に反してまで私と一緒に行動してたのは、どうしてなんですか。なんで私を焚き付けるようなことを言ったんですか! 私が『私』を保ててるのは、楠葉さんのお陰なんですよ……。手柄を立てたいんでしょ? 私を利用したいんじゃないんですか? それを全部、ここで無駄にする気なんですか!」

 声を上げれば上げるほど、目尻に涙が溜まっていくのを感じた。彼女は相変わらず、こちらを見ようともしないで澄ましている。それが余計に腹立たしい。

 なんとか言ったらどうなんだ、この――

「卑怯者! 信じられない。こんなところまで連れてきて……駅に戻って下さいよ!」

「卑怯者は、どっちよ」

 彼女はそこで、初めてこちらを見た。私に向けられた二つの目は、どこまでも無機質で――感情が、見えない。

「卑怯者はあなたでしょ、あゆむちゃん」

「何……?」

 声が震える。

 彼女の目が、怖い。

「何をまともぶってるの? あなたは自分のしたいことの為なら他人のことなんて顧みない、正真正銘の卑怯者じゃない」

「な、なんなんですかっ……。楠葉さんに何がわかるっていうの? さっきからどうしちゃったんですか、ねえ」

 こんなのは、楠葉さんじゃない。私が憧れて、信頼して、心を開いた彼女はこんなことを言う人だったか?

 ……信頼? 心を開く? いや、違うな。本当にそうなら、私は、犯人を殺そうと思ったりなんか――

「もう、やめて下さい。キャメリンに行った時も、北澤さんが絡んだ時も、楠葉さんはちゃんと私の味方でいてくれたじゃないですか……。さっきのことは、本当にごめんなさい。だから許して、いつも通りに戻って……ねえ、楠葉さん!」

 怖くて。彼女の目が、私が彼女に対して感じていた安心感が崩れていくのが、怖くて。優しい彼女を失いたくなくて。

 しがみ付こうと、隣にいる楠葉さんの腕を、両手で掴んだ。

 その時、膝に乗せていた私の鞄が足元に落ちた。中身が飛び出す。タオルに包まれた、鉈が。

 足元には一層濃い影が落とされていて、何が落ちたかなんて見える筈もない。だというのに、彼女は腕を掴まれたまま、全てを見透かすように目を細めた。

「それがあなたという人間よ」

「あ……」

 私は鞄を拾うこともできないで、楠葉さんの腕に爪を食い込ませていた。長袖のスーツ越しに肉の筋っぽさを感じる。

「必死ね。あゆむちゃんはいつだって必死だわ。何かに執着してる。それは誰の為に?」

 彼女がそう口にした直後。目の前が、スパークした。

「ぃぎっ」

 ばちんと何かが爆ぜるような感覚。自分の体が大きく跳ねたのだと気付いたのは、シートに勢いよく体を打ち付けていたせいだった。

 指先が妙に痺れている。目だけを必死で――彼女の言う通り、必死で――動かして見た先には、右手に何かを持つ彼女の姿があった。

 バチバチと光を放つそれを、実際に見るのは初めてだけれど、何であるかは知っている。あれにやられたんだ。

 シートベルトを外す音がした。楠葉さんの体から拘束が解かれる。

 何をする気だ。逃げないと……! 私も、シートベルトを外し――

 腕が、動かない。

「ねえ、あゆむちゃん。あなた、ずっと私に、心からの信頼を寄せたいと思ってたんじゃないかしら。これは勘違いじゃない自信があるのだけど。その私に裏切られるのはどんな気分?」

「ぁ……う……」

 呂律も回らない。スタンガンのせいだけではないだろう。

 なんでこんな状況になっている? どうして楠葉さんがこんなことをするのだろう。

 彼女は持っていたスタンガンを別のものと持ち替えた。あれは、多分、警棒。嫌。やめて。何をする気だ。怖い……怖い!

 必死で身をよじったものの、無駄な抵抗に終わる。火花が散るように、思考も散った。直後には、右側頭部がどくどくと脈打つ感覚があるだけ。

 意識が全て消える直前。もう音なんて聞こえない筈の耳に、冷たい声が流れ込んだ。


「怒ってないのは本当。でもそれを言うなら、最初から怒ってるわ」


 ――全ての感覚が、黒一色に塗り潰された。

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