17.屋敷編[八]

 顔を洗っている間、カズさんには、彼の部屋で待って貰うことになった。あたしが落ち着くまで時間がかかるだろうと思ったし、近くで待たれるより焦らなくて済む。

 結局あたしは、心から「どうでもいい」と思うことなんてできなかったらしい。

 カズさんとはこの後、一緒に金庫を調べることになっていた。彼一人でも調べられるのに、待ってくれることを聞いた時は、何を企んでいるのかと思ったが、その表情から他意は窺えなかった。

 早く顔を元に戻さなければと、蛇口から流れる水を何度も目元へ運ぶ。何度冷やしても目は真っ赤なままだった。もう、これ以上は洗っても意味がない。

 タオルを手に切り上げることにした。

 また家政婦が現れたらどうしようとおっかなびっくり階段を上るが、幸い彼女が姿を見せることはなかった。ここは広くて、それぞれの部屋を区切る壁も厚いから気配を探るのが難しい。そうでなくてもあの女は存在感が薄いのだから。

 カズさんの部屋のドアをノックする。彼はすぐに開けてくれた。

「おう、待ってたぞ。まだ赤いな」

 しかめっ面で目元を覗き込まれた。心なしかフランクな接し方をされて戸惑う。あたしを問い詰めた時のカズさんはどこへ行ったのだろう。

「気を遣ってくれなくても大丈夫ですから。それはそうと、待っててくれてありがとうございます」

「もし金庫が開かなかった場合、一人で落胆するのが嫌なだけだよ。ああ、そういえばあんた、昨日は屋敷内を調べ回ってたな」

「今朝も少し調べました」

「そうか。俺の部屋はいいのか?」

「調べさせてくれるんですか?」

「どのみちそのつもりなんだろう? なんなら今にするか?」

 どうにもさっきからカズさんの態度がおかしい。あたしが涙を見せてから、まるで別人のようだった。家出した猫だって、帰ってきた時にここまで性格が変わっていることはないと思う。しかもこの人の場合、以前よりも穏やかになっているのだ。口調こそ違えど、これではますます大和さんに近付いてしまっている。

「後でいいです」

 カズさんとは逆に、つれない態度で答えた。これ以上、この人に感情を振り回されるのは癪だった。

 彼はどこか拍子抜けしたように、もう一度「そうか」とだけ答えた。

「それより今は金庫を確認したいです。行きましょう」

 連れ立って、真向かいのあたしの部屋の、その隣にあるドアを押し開ける。ここにも家政婦はいなかった。ほっと胸を撫で下ろす。クローゼットを開けると、昨日見た時のまま、金庫がどっしりと構えていた。テレビ台のようなものに置かれている為、少し屈まないとダイヤル錠の数字が見えない。金庫は鉄の口を無機質に閉ざしたまま、四桁の暗証番号を要求している。

 ダイヤル錠を回そうと伸ばした手が、同時に伸ばされたカズさんの手に触れそうになった。咄嗟に引っ込める。ここはカズさんに任せることにした。

 軋みに似たぎりぎりという音を立てて、四桁目の数字が入力された時。

 かちりと、小さな音が聞こえた気がした。

 あたしたちは顔を見合わせた。入力番号は、二〇一五。

「合ってた」

 二人の声がユニゾンを奏でる。

 直後にあたしは、大慌てで金庫の扉を開けていた。鍵が開いたとわかれば、いても立ってもいられなかった。

 手が乾いた感触を捉える。そのまま引き出してみると、一枚の紙切れを掴んでいた。

 また、紙だ。

 てっきり鍵でも入っているのではないかと思っていた手前、落胆する。金庫の中を覗き込んでみたけれど、他の物が入っている様子もない。

 仕方なく、手にした紙に目を落とした。カズさんも横から覗き込んできた。

 それは新聞の切り抜きだった。とても小さなローカル記事。内容は。

 内容、は。

 内容は……。

 ――あたしは絶句した。知らなければよかったと思った。カズさんの呼びかける声が、遠くに聞こえる。

 あたしは、その場にくずおれた。

 心の中を、後悔と恐怖に支配された。……気付いてしまったから。

 復讐だと。

 これが、あたしへの復讐であることに、気付いてしまったから。かつてとんでもないことをしでかしたあたしに対する、悪意。憎悪をぶつける行為だということに。

 震える手で切り抜きを持ったまま、覚悟を決めて、最後まで読み込んだ。

 二〇一五年の、とある交通事故。

 S県で起きた。

 秋。

 当時中学生の女の子が、車道ではねられた事故、だった。

 女の子を避けようとハンドルを切った運転手は、大怪我を負って――

 顔。

 顔に怪我を負ったらしい。

 運転手の名前は、不明。その部分だけ、黒く塗り潰されていて、読み取れない。

 でも、女の子の名前は、書かれていなくても知っている。

 間違いようがない。忘れようもない。

 よく知っている。

 誰よりも、知っている。

 あたしの、大嫌いな名前の、その子は。


 誰でもない、あたし自身だから。



 側で聞こえていたカズさんの声が、雨音に変わった。あたしの周りでは、小雨が降っている。

 ブレーキの音が聞こえる。濡れた路面が見える。近付いてくるヘッドライトに、あたしの体が照らされる。

 直後の記憶はない。次に思い出せるのは、白い天井。消毒液の匂い。点滴の滴り落ちる音に、酸素マスクを通して響く、あたしの呼吸音。縋り付いて泣くお母さんと、泣きながら怒鳴るお父さんの姿。

「どうしてこんなことをしたんだ」

 お父さんの声が耳元によみがえる。

「もういいじゃないの。この子が無事だったんだから、それで……」

 これはお母さんの声。

「いいや、よくない。これは奇跡だ。相手もお前も無事でいてくれたなんて……。他人の命も、お前の命も、粗末にするんじゃない」

 お父さんはそう言ったけれど、その声にはどこかほっとしているような、嬉しそうな響きがあった。お父さんもあたしが目覚めたことを喜んでくれている。

 お父さんの言うことをぼんやりと聞きながら、相手って誰だろうと考えていた。考えて、考えて、とんでもないことに思い至った。

 あたしは自ら命を絶とうとした。あの、視界の悪い雨の中。車の気配がした次の瞬間には、車道に飛び出していた。衝動的な行動だった。

 頭ではわかっていた筈だ。車を動かしているのは、中に乗っている人間だと。その運転手が人をはねたら、どうなるか。

 人身事故。車の破損。責任問題。心の傷。怪我。死亡。二次被害による、運転手の、死亡。

 あたしは、自分の勝手な都合で、あやうく誰かに人殺しをさせるところだった。それどころか、誰かを死なせてしまうところだった――それを認識したと同時に、あたしは叫んでいた。自分のしたことのあまりの恐ろしさに、心が壊れてしまいそうだった。

 お父さんに頭を抱きすくめられ、飛んできた医者に鎮静剤を投与された。

 そのまま眠って、次に起きた時には、優しい声で、「心配するようなことは何もないからね。お父さんが、ちゃんと謝ってきたから。これからは忘れて生きることが、お互いの為なんだよ」と聞こえた。お父さんが言ったのかお母さんが言ったのかは覚えていない。でも誰が言ったのかなんてどうでもよかった。あたしにとって重要だったのは、その言葉そのもので、あたしにとっての救いだった。

 だから、どんな風に謝ったのかとか、相手がどういう状態なのかとかは、聞かなかった。知りたくなかった。

 言葉の通り、それからは考えないようにして生きてきた。ずっと、ずっと。ただこれ以上、人に迷惑をかけないことだけを考えて生きるようにした。

 どこの誰かも知らぬ運転手のことなど、都合よく忘れて。



「しっかりしろ。おい!」

 カズさんに肩を揺すられて、意識が現実に戻ってきた。

 ゆっくりと、カズさんへ視線を向ける。彼は、心配そうに、今度は本当に心配そうに、前屈みになってあたしを覗き込んでいた。

「カズさん、あたし」

 声が情けないぐらいに掠れている。

「どうしたんだ。その記事に何かあるのか?」

 言われて、さらにもう一度、手に持っていた切り抜きに目を落とした。これで目を落とすのは、三度目。だけど内容が変わることはない。

 なんて小さな紙切れだろう。誰も気に留めないような、新聞の空いたスペースを埋める為だけに存在しているような記事。

 だからだろうか。今まで、取材を求められた経験がなかったのは。誰からも注目されずにいられたのは。

 でも、無関係の人からすればその程度の出来事でも、あたしの中では一番大きな出来事の一つなのだ。他の誰が忘れようと、あたしだけは決して忘れてはいけない出来事だった。その筈なのに。

 いつの間にかあたしは、見ない振りをすることに慣れてしまっていた……。

「子供の頃、名前をからかわれてたんです」

 膝を突いたまま、隣にいるカズさんに向けて、ぽつりぽつりと語り始めた。

「中学に上がってからは本当にひどくて。三年生になった時に、いじめって呼べるぐらいまでエスカレートしたんです。多分、受験もあったから、みんなストレスの捌け口が欲しかったんだと思います。聞こえよがしに悪口を言われました。通りすがりに暴言を吐かれました。靴を隠されたり、机にひどい落書きもされました。それで……疲れ果てて。本当に本当に、疲れてしまって。友達にも愛想を尽かされて。ああ、あたし、生きてる意味なんかないんじゃないかって思って。……死ぬことを決めたんです」

 視界の端のカズさんの顔が、僅かに歪んだように見えた。

「そう決めたその日も学校があって、律儀に登校して。帰り道、雨が降ってました。日はもうほとんど沈んでて、辺りはほぼ真っ暗で。傘もささずに、一生懸命、足を動かしてました。帰ったら首を吊るんだ、それだけを考えて。その時……後ろから車が走ってくる気配がしたんです。そこそこのスピードが出ていて。気が付いたら……あたしは車道に飛び出してました。自分でもびっくりしました。でももう車は目の前に迫ってて……歩道に戻る時間はありませんでした」

 あたしは大きく息を吐いた。震えていた。気付けばまた泣いていた。

 それでも力を振り絞って、この話を完結まで導いた。

「その時の事故が、この記事です。車道に飛び出した女の子の名前は……あたしの名前は、走り歩。はしり、あゆむ、です」

 そこまで言い終えるのを待っていたかのように、涙が次から次へと溢れてきた。

 最初にカズさんに名前を尋ねられた時、咄嗟にさくらちゃんの名前を借りた理由。大和さんと同じ顔をした人に、何度も名乗りたくなかった理由。

 それも、これも、全部。あたしが、走り歩だったせい。

 事故の後は両親の勧めで、みんなのいない高校を受験した。そこではもういじめられるようなことはなかった。他人に無関心な子が多かった。目立ちさえしなければ、悪さをされることもなかった。楽しくはなかったけれど、居心地が悪いということもなかった。大人しくしてさえいればよかったのだから。

 でも、そんな環境に身を置くようになっても、自分の名前だけは好きにはなれなかった。あたしの為に立ち回ってくれたお父さんとお母さんには感謝しているけれど、それと同じぐらいの憎しみ、疑問、情けなさも併存していた。

 自殺を決めたあの日から、世界は灰色に変わった。

 あの雨の日と同じ景色の中で、その景色を見ないようにしていた。大和さんが、光をくれるまで。

 大和さんがあたしの世界だったのは、彼があたしの光だったからだ。

「そうか、それで……昨日、俺と会った時、名前のせいで死にかけたことがあると言ったのか」

 しょっぱい唇を噛み締めながら頷いた。

「偽名を使ったのも、そのせいか」

「そう、です」

「そうか……そうだったのか」

 カズさんが辛そうな声を出したので、ますます涙が溢れた。胸が痛い。今度は声を出さずに、さめざめと泣いた。

 カズさんがあたしの背中に手を伸ばしてきた。撫でようとしてくれたのかもしれない。けれど迷ったように目を伏せて、結局、その手を引っ込めた。

 しばらくして、あたしの涙の勢いが弱まる頃合いを見て。

「だがこれで、その時の運転手が家政婦である可能性が浮上した訳だな」

 彼はそう発言した。

 あたしは目を瞬かせた。

 その可能性は、この記事を見た時から考えなかった訳じゃない。顔に怪我を負っていたと知った瞬間から。それが事実なら、あたしがここに閉じ込められている理由もおのずとわかるのだから。なぜ犯人は当時の切り抜きを入れた金庫を置き、わざわざ写真まで用意して、それらの共通点である二〇一五の数字を暗証番号に設定したのか、その理由も察せられる。

 けれど、わからないこともあった。

「でもそうなると、カズさんはどうしてここにいるんでしょうか」

 カズさんの存在が説明できないのだ。

 もし、あの家政婦(に扮した運転手)が、あたしへの復讐の為にここへ閉じ込めているのだとしたら。大和さんを殺されたあたしがそうしようとしたように、相手を苦しめるのが目的なら。カズさんはむしろ、いない方が都合がいいのではないか。カズさんが当時の事故と関係しているなら話は別だが、彼の反応を見ている限り、そうとは思えない。

 だったら、どうして。

「それについては、今度は俺の話をする必要があるみたいだな」

 あたしの疑問に答えたのは、カズさん本人だった。

「どういうことですか」

 カズさんが立ち上がったので、その顔を見上げる格好になる。彼は重苦しい溜め息を吐いていた。

「昨日、記憶の関連付けの話をしたのを覚えてるか」

 そう言いながら手を差し出してくる。何も考えずに握ると、ぐっと引き起こされた。ずっと床に押し付けられていた膝はいつの間にか赤くなっていて、少し痛んだ。

 スツールを引っ張り出してきたカズさんに倣うように、ベッドに腰かけた。昨日とは位置がまるで逆だった。

「覚えてます。紐付けられた別の事象から考える、ですよね」

「それを昨晩、あんたが部屋を出て行った後でやってみた。俺がここで目を覚ます以前の記憶でな。今まで思い付きもしなかった。ヒントをくれたのはあんただよ、ありがとう」

 思いがけない謝辞の言葉に目を丸くする。でもカズさんは、あたしが何か言う前に話を続けてしまった。

「思い出したことを話す前に、まず、俺の名前について言っておこうと思う。カズは本名だ。平和の和と書く」

「へいわの、わ……」

 その時点で、察してしまった。

 カズさんの正体を。

「俺には一卵性の双子の兄貴がいる。苗字は日根野。俺は大和の、弟だ」

「やまと、さんの」

「……あんた、兄貴の彼女だったんだろ」

 以前、キャメリンを訪れた時のことを思い出す。「弟」という単語。あの時は、誰のことを言っているのかわからないまま、うやむやになっていた。大和さんからも、弟がいるという話は聞いていなかった。だから今まで頭になかった。

「そう……あなたが……和さんが、大和さんの」

 全身から力が抜けそうだった。しかしこれ以上ないぐらいに、しっくりくる真実だとも思っている。悲しいような、どこか嬉しいような、でも、なんだか嫌な感覚。

 大和さんにはきっと、あたしに言わずじまいにしていることがたくさんあるんだろうなと、寂しくなった。

「あんたの口から兄貴の名前が出た時、もしかしてと思った。もしそうなら、あんたを追い詰めるべきじゃないとも」

「それで急に優しくなったんですか」

「別に、それまでだって特別冷たくしてたつもりはないんだがな。こんな状況だろ。あんたにもわかる筈だ」

 疑心暗鬼。もちろんあたしだって、和さんを信用していた訳じゃない。大和さんに似ているから、疑いたくはなかっただけで。

「そうですね。距離を縮めたくても、近付いちゃいけないって思ってしまいます」

「家政婦に関しては、本当に関わりたくないが」

「それは……同感です」

 力なく笑いかけると、和さんも少し口元を緩めてくれた。

 でも、和さんが大和さんの兄弟だということは……。

 あたしは笑顔を消した。和さんの表情も、すぐに沈痛そうなものに変わった。どう切り出そうかと迷っているのか、膝に肘を突いた姿勢のまま、組み合わせた両手をしきりに擦っている。あたしはその様子を見ながら、何も言わずに待つことにした。

 和さんは、思ったよりも早くに話し始めてくれた。

「俺が、思い出したのは」

 その声は掠れていた。咳払いを挟んでから、次の言葉を紡いでいった。

「兄貴の部屋に行ったことだ。ここに連れてこられる前の、最後の記憶……。別に、用があって行った訳じゃない。たまたま近くに寄った時に兄貴も部屋にいたから、上がらせて貰っただけだ。兄貴は途中で部屋を出た。酒でも飲もうかと、コンビニに行ったんだ。野郎二人で――それも、同じ顔が二人連れ立って行くのも気色悪いと思ったから、俺は留守番することにした。その時だ。あの女が、部屋に来たのは」

「あの、女?」

「インターホンが鳴った。俺は出た。モニタにスーツを着た若い女が映ってた。どうせセールスだろうと断ろうとしたら、あの女、自分のことを警察だと言ってきた。ご丁寧に警察手帳まで見せて」

「なんですって。警察?」

 心底驚いて、高い声を上げてしまった。

 和さんはこの反応を勘違いしたらしく、片手を振った。

「別に俺は悪いことなんか何もしてない。多分、兄貴も。女は、近隣で起きたひったくりの聞き込み調査を行ってるから協力して欲しいと言ってきた。モニタには女しか映ってなかったが、別に不審には思わなかった。二人一組が原則の警察とはいえ、片割れが近くで待機してるってことも考えられたからな。だから深く考えずに、エントランスの鍵を開けた……これがいけなかった」

 この話を始めてからずっと刻まれていた和さんの眉間のしわが、一層深みを増した。同時に、あたしも眉をひそめていく。

 警察。スーツを着た。……女の。

 頭に一人の女性が浮かんでいた。信じたくなかった。でも今は、彼女しか考えられない。

 和さんの話を聞いている内に、あたしも思い出してきたことがあるのだ。それはとても、思い出したくない。嫌な、記憶で……。

 和さんの話は続く。

「エントランスを開けてからいくらもしない内に、二回目のインターホンが鳴った。なんの疑いも持たずにドアを開けたよ。そしたら――いきなり、殴り付けられた」

 よみがえりつつある自分の記憶と戦いながらその語りに耳を傾ける。至難の業だった。けれど思いの外すらすらと入ってくる彼の話と同期するように、あたしの記憶のパズルピースもかちかちとはまり始めていく。

「驚いた、なんてもんじゃないな、あれは……。何が起きたのかわからなかった。よく見ると女は警棒を持ってた。殴られたことを理解した俺は、馬鹿なことに、頭を押さえながら部屋の奥に逃げ込んだんだ」

 本当に馬鹿だ、と和さんは繰り返す。

「自ら袋小路に入り込むような真似をしてしまった俺に、女は追い打ちをかけてきた。俺は死を覚悟した。だがその時、もっと最悪なことが起こった」

 固唾を飲んだ。――嫌な予感がした。

「兄貴が、帰ってきた」

 そう言った和さんの声は震えていた。組み合わせた手が、真っ白になるぐらいに握り込まれている。

 あたしは彼の目を見て凍り付いた。その目は、熟れた果実のように潤んで、充血していた。

「その後のことは、悪い。言えない。思い出したくない……」

 かぶりを振る和さんに、なんて声をかければいいのかわからない。

「言えるのは……標的が、俺から兄貴に移った。女は警棒の他に、スタンガンと、でっかいナイフも持ってたって……それだけだ」

 和さんはそれきりうなだれてしまった。あたしがどれだけ縋るような視線を向けようとも、全く気付こうともしてくれない。

 和さんの口からは語れないような出来事。それはきっと、あたしがあの日、あの部屋で見た光景と繋がっているのだろう。

 真っ赤に染まった顔のない死体。異様なまでの白い肌。

 大和さんがそうなるまでの経緯が、和さんの見たものなのだろう……。

 打ちのめされる思いだった。あたしの視線も少しずつ下がっていく。最初は無関係だと思っていた和さんがここにいる理由が、これではっきりしてしまったから……。

 室内に、重く湿った空気が漂い始める。

 しかし、それでもまだわからないことがあった。いや、新たに浮上したと言ってもいい。

 それは和さんの話を聞く内に揃い始めた、あたしの記憶のピースによるもの。

「その女は、何者なんでしょうか」

 ようやく口にできた言葉に、和さんはゆっくりと顔を上げた。彼から答えが返ってくる気配はなかったので、さらに続けた。

「だって、ここにいる家政婦じゃないですよね、その女って」

「……俺はそんなこと一言も言ってないのに、どうしてそう思ったんだ?」

「家政婦だったんですか?」

「いや……違う」

「女刑事、なんですよね」

「自称、な。警察手帳が本物だったかどうかなんて、調べようもないからな」

「濃い目の化粧に、パンツスーツを着ていて、背はあたしより少し高いぐらいですか」

「なんだと?」

 和さんの目が丸くなる。――やっぱり、そうだったのか。

 あたしは溜め息を吐いた。

「同じです、あたしの……外の世界での最後の記憶と」

 片手で額を抑える。ずきんと、痛んだ。右の側頭部が。

 あたしの視線に気付かない振りをしていた和さんが、今度は真っ直ぐにあたしを見ている。

 どうやら、また、あたしが話す番がきたらしい。目を伏せて、当時の記憶に思いを馳せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る