15.屋敷編[六]
――某所。
「カズさん。カズさん、いますか?」
カズさんの部屋のドアを四回、控えめにノックした。
「なんだ?」
少しの間を置いてから、カズさんはドアを開けてくれた。訝しげな目であたしを見ている。どうやらカズさんはまだ眠ろうとしていなかったらしい。髪は乱れていないし、眠そうにも見えない。
でも疲れははっきりと見て取れた。何日分にも及ぶ精神的な疲労のせいだろうか。それとも、何かしていたのだろうか。こんなところだし、何もないからこその疲労だとも考えられるが。
「屋敷内の探索ですけど、大体終わりました」
「それをわざわざ報告しにきたのか?」
呆れたとも感心したとも取れる声。しかしあたしの本題は別にある。
「それもありますけど、ちょっと気になったものがありまして」
「気になったものだと?」
カズさんは、まあ入れよ、とドアを大きく開いてくれた。少し躊躇いはあったものの、足を踏み入れる。
こんな時間に男の人の部屋に入ることになる訳だけれど、事態が事態なので深い意味がないことはカズさんも理解しているようだった。あたしが躊躇ったのは、相手を警戒しているのはカズさんも同じ筈なのに、随分と簡単に招き入れるのだなと思ったから。とはいえこれに関していえば、夕方にすでに踏み込んでいるから、今更な話ではある。そもそもこの屋敷の個室には鍵なんて気の利いたものは付いていない。誰でもいつでも踏み込める、砂の牙城なのだ。
踏み入った先で、ベッドの上に投げ出されていた本が目に入った。
「これ、カズさんの私物ですか?」
後ろでドアを閉めるカズさんに問いかける。
本なんてこの屋敷のどこにもなかったし、あたしも私物は持っていたから、カズさんが自分の本を持っていてもおかしくないと考えた。
カズさんは頷いている。
「仕事関係でな。つまらん実用書だよ」
彼は溜め息混じりにベッドへ腰かけると、ブックカバーの付けられていない表紙を立ちんぼのあたしに向けてきた。
『日商簿記検定二級』なるほど、と納得する。カズさんの疲労の原因がわかった気がした。
「ここにきて勉強ですか? もう少し事態を深刻に捉えたりはしないんですか?」
屋敷内を調べ回った疲れを感じているあたしは、思わず棘のある言い方をしてしまっていた。
「それでどうにかなるなら俺だって動くよ。でも無駄だったんだ」
カズさんも、あたしに負けない声色で言い返してきた。このままでは喧嘩になりそうな雰囲気だったが、彼の次の言葉にあたしは口を噤んだ。
「俺は十日も前からここにいて、なんとか出られないかと行動して、未だにここにいるんだ。これ以上、時間を無駄にはしたくない」
……もしかするとだが、カズさんの諦めにも似た態度は、苦労が報われなかった故のものじゃないだろうか。この屋敷での生活に慣れようとしている節さえある。この十日間が彼にとってどのようなものだったか、あたしには想像することしかできない。
しかしここから出られなければ、その勉強も無駄に終わるというのに。
もし、カズさんが本当に、あたしと同じ被害者なら。なんとかして協力し合いたい。一人ではできないことも、二人ならできるかもしれないから。
そう思うからこそ、リスクを承知でこの部屋にやってきたのだから。
「そこの椅子、使えよ」
少しの間、沈黙が下りたことで、カズさんは冷静さを取り戻したのだろうか。スツールを指さした。あたしも素直に、その言葉に甘えることにする。スツールは低いので、腰を下ろすとカズさんの頭がかなり上に見えた。
「で、なんだ? 気になったものっていうのは」
手にしていた本を傍らに放って、カズさんは真っ直ぐな目を向けてきた。あたしはその目にちらりと視線をやってから、本題を切り出すことにした。
「ここの個室の書き物机の中に、写真があったのはご存知ですか?」
「そういえばあったな。それがどうした?」
一応、目にしてはいたらしい。この様子じゃ、大して気には留めていなかったのだろう。あたしがこれから言おうとしていることがちゃんと理解して貰えるか、少し不安になる。
とにかく質問を続けることにした。
「なんの為に置いてあるんだと思いますか?」
「なんの為って」
カズさんが思案顔になる。髭の生えた顎をおもむろに擦っている。
あたしは、スカートのポケットに手を差し入れた。件の写真を取り出す。さっき、家政婦と遭遇した後で回収しておいたのだ。
枚数は三枚。それぞれ、緑の車体に黄色いラインが入った電車、数年前に流行った少女漫画の十三巻、八時五十九分六十秒を表す電光掲示板が、収められている。
「これはトワイライトエクスプレスだな。ほんの何年か前まで運行してた電車だ。今はもう使われてないけどな」
カズさんは考える素振りをやめて、どこか懐かしそうに、電車の写真をあたしの手から抜き取った。最初にこの写真を見付けた時も、カズさんはこんな表情を浮かべていたのだろうか。
「鉄オタ……ですか?」
尋ねてみると、彼は心外そうに少しだけ唇を尖らせた。
「違うって。昔、一度だけ乗ったことがあるんだよ。あんたより若い頃だ」
「ふぅん」
でも今はもうなくなってしまったのか。思い出のある人には寂しいかもしれないな、と思った。
ということはこの写真は、その、使われなくなったという何年か前よりさらに前に撮られたものか、と考える。この写真を撮った誰かも、この電車に思い入れがあったのだろうか?
あたしは、見やすいようにと、写真をベッドの上に並べた。
「電光掲示板は、コラージュでしょうか?」
トワイライトエクスプレスとやらに思い入れのないあたしは次の写真に目をやった。電車の写真以上に気になっていた、電光掲示板のものだ。
六十秒の表示。分、秒は五十九までだと思うのだけれど。バグでこんな表示になったのか、そうでなければ後で編集された画像としか思えなかったが……。
「そりゃ、うるう秒だ」
カズさんは、どこか呆れた様子でそう答えた。聞いたことはあるけれど、それがなんであるのか知らなかった。うるう年みたいに、日付のずれを正す為に挿入されるもの、というのは言葉から読み取れるけれど。
「日が昇って落ちて、また昇るまでを一日とする認識は一般的かもしれないが、周期は必ずしも一定じゃない。地球は宇宙空間の一所に留まってる訳じゃないからな。日本に四季なんてものがあるのもそのせいだろ? そこで、そういう国別のずれが生じても、世界の一日の時間的ずれが生じないように時折挟んだり省略したりされるのが、このうるう秒ってやつだ」
カズさんは少し面倒くさそうに、でも丁寧に教えてくれた。もしかするとこの人は、ぶっきらぼうに見えるだけで、実は冷たい人ではないのかもしれない。
「博識ですね」
あたしは素直に感心していた。対するカズさんは鼻にしわを寄せている。
「聞きかじった程度の知識だから、厳密には間違ってるのかもしれんがな」
どことなく熱弁を揮ったことを悔いているようにも見えた。広義で間違っていないなら恥じる必要はないと思うけれど、何も言わないでおくことにした。
「ちなみにこいつの周期は四年に一度じゃない。専門家からすれば規則性があるのかもしれんが、俺らからしたらてんでばらばらに見える。次がいつなのかも知らん」
「へぇ……頻繁にあるものなんですか?」
「どうだろうな。でも最近は数年単位で挟まれてた筈だ。頑張れば年数も思い出せそうだが、別にその必要はないよな?」
「ないんじゃないでしょうか」
そこまで教えられたところで覚えられる自信もない。頑張って思い出して貰うだけ、カズさんの労力の無駄遣いになっても気の毒だ。
どうしてこんな写真を置いているのかは疑問だけれど、それは他の写真にも言えることではある。
話の焦点を次の写真へと移すことにした。
「この漫画、知ってますよ。友達が読んでました」
それは、この写真群の中で最も不可解な存在だった。
高校生の青春をうたう、ティーンエイジャー向けの少女漫画。比較的、固い印象の電車や電光掲示板と並ぶと、異色を放って見える。これらの写真は同じ人物が用意したものではないのか?
写っているのは、十三巻のみ。
「最終巻ですね、これ」
読んだことはないけれど、全十三巻ということは聞かされていた。だからすぐにわかった。
「詳しいな。俺からすれば少女漫画なんて、どれも同じに見えるけど」
次に感心したような声を上げたのはカズさんだった。あたしが持っているのなんて、せいぜい俗な知識ぐらいしかない。うるう秒も知らないところを見せてしまった手前、こんなことで感心されても嬉しくはなかった。
「一応、映画化もされる程度には有名な作品なんですけど」
「そりゃあんたみたいな若い連中からすればそうだろうが、大人にもなって興味を持つ奴なんてまずいないと思うぞ。一定数の例外は確かに存在してるがな」
そういうものなのだろうか。社会人になって日の浅いあたしにはピンとこない感覚だった。
確かにこの漫画が連載されている頃、あたしはまだ中学生だった。そこまで考えて、思ったより古い作品だったことに驚いた。なんだか年を取った気分だ。
「ねえカズさん。この三枚の写真って、ほんとにただ適当に置かれた、なんの意味もないものなんでしょうか? なんか、共通点がなさ過ぎて、逆に意味ありげに見えてしまうんですけど」
そしてこれが、あたしがカズさんに言いたい本題だった。
別に、この写真について考えればここからの脱出方法がわかる、なんて甘い考えは持っていない。ただ、この屋敷について何もわからないからこそ、せめてここにいたであろう人物のことを知りたいという思いがあった。もしもそいつが犯人だとしたら、尚のこと。
あたしが見た時は本当に何の意味も持たない写真だったけれど、こうしてカズさんと話すことで実際にわかったこともいくつかある。電車がすでに運行を終えたトワイライトエクスプレスであることとか、うるう秒のこととか。
一人で思い悩むのではなく、話し合いたかった。その結果、カズさんの勉強の邪魔になっていることは否めないけれど、そもそもカズさんが勉強をしているのは現状が手詰まりになっているからで。
とにかく動きたかった。考えたかった。
今が無駄な時間ではないと、信じたい。
「あんたがそこまで言うなら、そうだな……」
カズさんは、今度はじっくり考えているみたいだった。あたしの提案が一笑に付されずに済んで、ほっとする。彼が乗ってくれたのは、もしかすると、この屋敷での代わり映えのしない日々に、焦燥以上の退屈を覚えていたからなのかもしれない。
「全く異なる事象の共通点を探すとなると」
カズさんは一度そこで言葉を切って、先を続けた。
「仕手または受け手が誰か、いつのことなのか、場所はどこか、なんの為のものなのか、どうするものなのかを考えると、答えへの近道になることもある」
さらに「情報整理の基本の一つだな」とも続けられた。複雑なようにも思えたけれど、少し考えれば簡単なことだった。
「5W1Hですね。この場合、対象となる物はわかってるから、『What』を省いた五つってことですか」
「あんたも物わかりがいいな。同年代の中じゃ、頭がいい方だったんじゃないか?」
「テストの成績は平均でしたけどね」
これは謙遜でもなんでもない。しかもあたしが通っていた中学、高校は、県内でも下から数えた方が早いレベルである。しかし、これは褒められて悪い気はしなかった。
この屋敷にゆかりのある誰かが、自身または他人に向けて、何年か前の日本の出来事を、意味があるのかないのかはわからないが、見るまたは見せる目的で用意した写真。というところまでを考える。
「わかってるのは、日本の出来事、ってことぐらいですかね」
「そうだな。うるう秒も日本独自のものだから……ということは、共通点は、日本か?」
それでは規模が大き過ぎるような気がする。もう少し突き詰めたかった。
「これ以上考えてわからないようならそれで結論付けてもいいとは思いますけど。でも、ここでやめるのもしっくりこないというか」
「そうだな……もう少し考えてみよう。ここには娯楽がないからな」
いつの間にかこの写真について考えることは、あたしたちの中でいい気分転換になっていた。
とりあえず、カズさんが馬鹿じゃなくてよかった。この閉鎖空間で会話が成り立たない者が二人もいては、堪ったものではない。
「さっきは必要がないとやめたが、うるう秒の年を考えてみるか。とその前に、その漫画だが」
カズさんが漫画の写真を指さす。
「その最終巻が出たのはいつのことだ?」
そういえば、いつだっただろうか。中学生ということは覚えていたけれど、何年生のことかまではまだ思い出せない。
「はっきりとした年月日は、それこそ考えてみないと……」
「じゃあ考えてみてくれ」
あまりにもあっさり言われてしまった。とはいえ断る理由がないので、言われた通り、考えてみることにする。
十三巻が最終巻だと知ったのは友達に教えられたからだった。でもそれはどんなシチュエーションだっただろうか。学校でのことか、学校帰りに立ち寄った書店でのことか。
確か、テスト明けだったように記憶している。テスト期間はいつだっただろう。期末明けなら長休みに入るから、学校でという線は消えるし、でも中間明けならそれこそどちらかわからない。
そもそも、その友達の顔すら曖昧なのに……。
この屋敷で目覚めてから感じている、妙に思考がはっきりとしない感覚は、今も続いていた。だから友達のこともなかなか思い出せずにいるのだろうか。
痛む頭をなんとか捻って、ようやく友達が誰であったかを思い出す頃。カズさんが声を上げた。
「うるう秒のあった年を二つだけ思い出せた」
頭の片隅では考え事を続けながら、カズさんを見上げる。
「二〇一二年と二〇一五年だ」
「……よく思い出せましたね」
「関連付けだ」
「関連付け?」
「たとえば気に入ってる服があるとする。その服を買った時期を考えた時に、『久々に会う友人との食事の際に、買ったばかりのその服を着て行った』というエピソードさえ思い出せれば、その直前が購入時期だとわかるだろ。それと同じことをしただけだ」
説明を聞いて、あたしは眉をしかめた。
やっぱり、似ている。あたしの大切な人に。あたしがあの人を頼りにしていたのは、単にあたしを思いやってくれるからだけじゃなく、こういうところもあるからだった。
顔も、背格好も、声まで同じのこの人。でも、雰囲気も喋り方も表情も、あたしの知っているものと、全然違う。
カズさんは一体、何者なのだろう……。
「どうした?」
尋ねられて、つい黙り込んでしまっていたことに気付く。不安を振り払うように、慌てて取り繕った。
「いえ、あの、カズさんの話を聞いて、あたしも思い出しました」
そしてこれは誤魔化しでもなんでもなく、本当のことだ。
十三巻が出た時のことと関連付けられるエピソードを、なんとか頭に思い浮かべることができていた。お陰でいつのことだったかを思い出せたのだ。
「一学期の中間テスト明けでした。テストから解放されて立ち寄った書店で見かけたんです。友達とお店の中をうろうろしながら、数学の出来の悪さを嘆いてたのを覚えてます。すごく苦手な単元で、数学の中でも一番苦手って言ってもいいぐらいの……平方根でした。確か、中三で習うものだったと思います。そうなると――」
一度言葉を切ってから、断言する。
「十三巻が発売されたのは、今から五年前。つまり……二〇一五年です」
カズさんが思い出した、うるう秒のあった二つの年。その内の一つと被っていた。
「出揃ったな」
今度はカズさんが断ずる番だった。その彼を、食ってかかる勢いで振り仰いだ。
「でも、まだ最後の一枚の時期がわかってませんよ。まだ出揃ってません」
自分でもわかるぐらいに必死な声をしていた。しかしカズさんが前言を撤回することはなかった。
「いや。二つの時期がわかったことで思い出したんだ。トワイライトエクスプレスの運行が終了したのが、二〇一五年だったことをな」
「じゃあ、三枚の写真の共通点は、『二〇一五年の日本の出来事』ってことですか……?」
カズさんは黙って頷いた。
あたしは口の中で、「そんな」と呟いた。よりによって、二〇一五年だなんて。
それは、あたしにとって忌まわしい数字。忌まわしい過去。濡れた路面。迫りくる車のライト。ブレーキの音――衝撃。
思わず頭を抱えた。
「おい、どうしたんだ」
近くにいる筈のカズさんの声が、遠くに聞こえる。ずっと痛みを訴えていた頭だったけれど、これまでの比じゃないぐらいに、強く痛み始めた。
何も考えられなくなる。何も考えたくなくなる。
記憶が視界へと、オーバーラップしそうになる……。
「すみません。急に、気分が」
目の前の景色が歪んでいた。脳みそがぐらぐらと揺れるような感覚。さらには悪寒までする。
「大丈夫かよ……」
気のせいだろうか。カズさんの声に心配そうな色が混じった。
あたしは苦笑した。
「ごめんなさい。貧血でしょうか……。今日はもう、休むことにします」
ふらりとスツールから立ち上がった瞬間、立ち眩みがした。幸い倒れることはなかったが、これ以上の醜態を、この人の前で晒したくはなかった。
「写真は一旦、預けておきます。また、明日」
それだけ言うのが精一杯だった。カズさんは何か言いかけたみたいだったけれど、あたしはとにかくドアへ向かうのに夢中で、それどころではなかった。
どうにか、せめてあたしの部屋までは、自分の足で歩かなければ――
ふらふらとした足取りであたしの部屋に辿り着くなり、ベッドに横たわった。どうやら本当に貧血を起こしてしまったらしい。
横になったまま、スカートだけを脱ぐ。お気に入りの、黒い、フレアスカート。しわになるのは嫌だったので、脱ぐなり丸めて、とりあえずは枕元に置いておくことにした。
こんな場所でろくな休息が取れるとは思えない。でももう動き回る気にはなれなかった。一晩も横になれば、この寒気も頭の疼痛も薄れていることだろう。そう信じたい。
あれだけ気分転換にと頭を使っていたのが嘘みたいだった。今は休むことしか考えられない。
芋虫のような動きで布団に潜り込む。手だけを伸ばして、付けていたスタンドライトの明かりを消した。辺りが暗闇に包まれた。
やがて意識も、闇に飲み込まれていった。
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