7.外の世界編[三]

 ――三月某日。午後。

 マーチの中からマンションの周りを見張っていた時、楠葉さんの携帯電話が振動した。高田さんからだった。

「何かわかった?」

 私からは全容が見えないそのやり取りを、助手席から息を潜めるようにして窺う。すると楠葉さんがいきなり大きな声を出した。私は驚いて背筋を伸ばした。

「それは本当なの? それで、これからどうするの? ガサ入れ?」

 彼女の口から出た「ガサ入れ」の四文字に、眉をひそめる。

「……わかった、引き続きそっちの舵は任せたわ。終わり次第、連絡をちょうだい。それじゃ」

 楠葉さんが電話を切った。その瞬間を待ちかねたとばかりに詰め寄った。

「どうなったんです?」

「落ち着いて、聞いてちょうだいね」

 焦る私をなだめるように、彼女はゆっくりと、区切って、言葉を紡いだ。

「さくらさんのご両親から、捜索願が出されたそうよ」

 続けられた内容は思ってもみないものだった。言葉をなくして目を見張った。

「どうして」

「どうにもさくらさんはここ一週間ほど、自宅であるアパートにも実家にも帰ってないそうよ。ご両親が言うには、交際してる相手も泊めてくれるような友達もいないって話らしくて」

 さくらちゃんの借りているアパートは、私の家からも歩いて行ける距離にある。さくらちゃんは賃貸物件を探している時、実家には頻繁に戻りたいと言っていた。地元から離れない選択をした結果、今の住まいになったそうだ。

「行方不明って。さくらちゃんが、そんな」

 さくらちゃんが彼と会っていたことと、いなくなったことに何か関係があるのだろうか。

 無事でいてくれると、いいのだけれど。

 むくむくと頭をもたげ始めた不安を押さえ付けて、ゆっくりと息を吐く。とにかく今は、聞くべきことを聞くことに努めないと。

「それで、高田さんはどうしたんですか?」

 さっきの話だけですでに疲れてしまったのか、少しだけ重く感じる瞼を押し上げて、楠葉さんの顔を見る。彼女もどこか疲れたような顔で口を開いた。

「単語だけならあゆむちゃんも聞いてたと思うけど、家宅捜索に踏み切ることになったわ。とりあえずは、アパートの方のね」

「なんにしても、待つしかないんですね」

「本当にごめんなさい」

 不意に謝られてびっくりする。どうしてこの人は謝っているのだろうか。

「なんで楠葉さんが謝るんですか」

 なんだかおかしい気持ちになって、微かな笑いがこぼれた。苦笑といえるような笑顔になっていたかもしれない。

「目的達成までは地道な作業の繰り返しになると思うわ。でも、ちゃんとついてきて」

 楠葉さんはシートにもたれて、顔だけをこちらに向けていた。目元が優しげに緩められている。

「楠葉さんこそ、最後まで連れてって下さいよ」

 彼女の表情につられて今度こそ、ささやかではあるものの笑顔を浮かべる。犯人を殺して楠葉さんを裏切るつもりでいるというのに、彼女と戦友になれたらいいな、と思ってしまった。

 実に勝手な話だ、とも思った。



 何時間もの時間を車内で過ごしていると、やがて高田さんから着信が入った。高鳴る鼓動を抑えて、また、楠葉さんと電話の向こうの高田さんとのやり取りを窺う。今度は「手紙」という単語が耳に付いた。

 楠葉さんは何度か相槌を打った後、電話を切った。

「家宅捜索の結果、さくらさんの部屋からは不審なものが一つだけ見付かったそうよ」

「それが、手紙ですか?」

「ええ。内容はまだ聞いていないけれど、高田が写真を撮ってくれてるらしいから、それを送って貰うことになったわ」

 楠葉さんがそこまで説明したところで、再び彼女の携帯電話が振動した。

 先に画面を確認した彼女の表情に、苦々しい色が浮かぶ。私は端末をひったくる勢いで画面を覗き込んでいた。高田さんたち警察が押収したもの(家宅捜索は当然、公式な捜査として行われた)と見られる便箋が一枚だけ、画面いっぱいに映り込んでいる。本文はとても短く、大きな字で書かれていたので、画像を拡大する必要もなかった。


『いい加減に話を聞いて。命に関わる問題だっていうのに』


 これが、手紙の全て。

「何、これ……どういうことなんですか」

 いきなりこのようなものを見せられて、思考が追い付かない。答えを知る筈もない楠葉さんへと疑問をぶつけてしまった。彼女は溜め息を吐いた。

「わからないわ」

 当然だ。彼女だって今見たばかりなのだから。

 意味が、わからない。

「誰かに渡そうとしたものかしら。そうだとすれば、命に関わる、とあるぐらいだから、亡くなった日根野さんへ宛てたものである可能性が高いけれど。逆に、誰かから渡された可能性もある」

「ちょっと、よく見せて下さい」

 そう言うと、より見やすい方へ画面を向けてくれた。私はそれを食い入るように見つめる。

 少し左に傾いだ、丸みのある文字。可愛らしさの中に力強い印象を受ける。癖の強いこの字を、確かに見た記憶があった。

「楠葉さん! 一度、私の家に寄って貰ってもいいですか?」

 彼女は返事の代わりにエンジンをかけた。マーチが甲高い唸り声を上げる。



 楠葉さんと揃って我が家に飛び込んだ私は、パンプスを乱雑に脱ぎ捨てて階段を駆け上った。居間には誰の姿もなかった。お父さんは仕事だし、お母さんは買い物にでも出ているのだろう。

 自室を彼女に見られるのは少し恥ずかしい気もしたけれど、今はそんなことを言っている場合じゃない。

 小さなノートパソコンが乗せられた勉強机の、一番上の引き出しを開ける。紙類は大体ここに入れてある。文具や小物とごちゃ混ぜにされた中身――いつか、整理しないと――を掻き分けていると、やがて一枚の封筒を掘り当てた。

 宛名も差出人の名前もない。切手も貼られていない。シンプルな白い封筒。

 これは、手渡されたもの。

 残念ながらラブレターではない。子供の頃、さくらちゃんから貰った、誕生祝いのメッセージだ。

 さくらちゃんから手紙を貰うなんて珍しかった。あの時は確か、私が中学に上がって、さくらちゃんが成人した年だったか。

 恐る恐る、中から折り畳まれた便箋を引き出す。後ろで楠葉さんが息を詰めて見守っている気配がした。

「ああ……」

 便箋を開いてみて、思わず感嘆の声を上げた。

 さくらちゃんの字は、あの日から少しも変わっていなかった。左に傾いだ丸い文字が、紙の上で踊っている。

「今度は、筆跡鑑定かしら」

 後ろから聞こえた声に、私まで溜め息を吐いた。

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