6.屋敷編[二]

 ――某所。

 ドアを開けて廊下に出たあたしは、早速悲鳴を上げそうになった。何かが視界の端からぬるりと躍り出てきたのだ。

 肩にひっかけていた鞄がずるりと滑って、床に落ちる。

 いきなり視界に入ったそれは人の顔だった。その顔に付いた瞼が瞬きを見せる。とりあえず、生きている人間のものだということはわかった。

 しかし近い。近過ぎる。焦点が定まらないせいで、男女の判別もできない。呼吸が、浅くなる。

 あたしたちはしばらく見合いを続けていたが、先に体を離したのは相手の方だった。

 少し離れて初めて、その女――女だとわかった――が家政婦の服を着ていることに気付いた。黒いエプロンドレス。しかしそれ以上に目を引いたのは、彼女の顔だった。あたしははっと息を飲んだ。

 右目と眉の間から左頬にかけて、皮膚が変色している。古傷だろう。火傷の痕にも刃物でばっさりと切られた痕にも見える。顔色は悪くて、微動だにしないで倒れてでもいれば死体と見間違えたに違いない。性別はわかるが、年齢まではわからない。目元には濃い隈が出来ていて、見ようによっては老婆のようだ。黒い髪は、頭の後ろで無造作に縛られていた。

 言ってはなんだけれど、気味が悪い。

 この人があたしをさらった犯人なのか。もしそうだとしたら、あたしは今、ものすごく危ない状況に置かれているのではないか。ずきずきと疼く頭で、なんとかしなければと身構える。

「驚かせてしまったようで申し訳ありません……」

 しかしあたしが何かしらの行動を起こすより早くに、その家政婦は淡々とした口調で言った。淡々としているだけならまだしも、とにかく暗い声だった。トーンが低い。感情どころか抑揚もない。

 しかも、発言の内容は話し方に似つかわしくないものだったから、余計に動けなくなってしまう。

 "申し訳ありません"? 普通、誘拐犯がさらった相手にこんな言葉を口にするだろうか。

「あなたは、誰なんです?」

 警戒心を解いた訳ではないが、あたしは小さく問いかけていた。膝も指先も震えているけれど、それを悟られないように努める。

「わたしは、このお屋敷の家政婦です……」

 相変わらず抑揚のない、低い声で家政婦は答えた。

 確かにここは広い。あたしたちがいるこの廊下も幅が広く長いし、どこかの部屋に通じているであろうドアも、あたしが出てきた部屋を含めて五つはある。

 全ての部屋が、あたしのいた部屋と同じ広さだとしたら、それだけでも十分「屋敷」といえる。

「家政婦ってことは、仕えてる主人がいる……んですよね?」

 屋敷なんてものに縁もゆかりもないと思っていたあたしは、ますますここが自分のいるべき場所じゃないと感じて、混乱し始めていた。

 捲し立てるように質問を繰り返すけれど、家政婦は表情一つ変えない。顔だけを前に突き出すような立ち姿で、あたしを見上げている。

 家政婦を押し退けて(触れる前に、少し躊躇った)廊下を進んだ。窓が見えたのだ。でも、開かない。はめ殺しになっている。山の中なのか、外には連なるように生える木々しか見えない。

「なんなの、ここは。ねえ、帰して」

 今にも叫び出しそうな恐怖を抑えて、ほとんど睨み付けるようにして家政婦を見る。

「旦那様はいらっしゃいません……」

 家政婦は先の質問に答えた。タイムラグがあったせいで一瞬、なんのことがわからなかった。理解してから、視線に猜疑心を込めた。

「あなた、家政婦じゃないの?」

「旦那様はいらっしゃいません……」

 しかし家政婦が口にしたのは一言前と寸分違わぬ台詞だった。あたしはどうしようかと視線をさまよわせた。これじゃ、話にならない。こんな、見るからに怪しい相手に頼るのがそもそも間違っているのかもしれない。

「わかり、ました。この屋敷の主人はいないってことで、いいんで。それでいいから、とにかく帰して」

「いいえ、それはできません……」

「なんでよ、ねえ」

 絞り出して叫んだ声は、自分でも情けなくなるぐらいに震えていた。

 今度は反対側の突き当たりに、手すりのようなものが見えた。きっと階段に違いない。今度はそちらへ駆け寄る。家政婦が後ろから襲ってくるんじゃないかと恐ろしくなったが、その心配はなかった。

 階段を駆け下りると、正面に立派な扉が見えた。木目を模してはいるけれど、木よりも頑丈な材質で出来ている。階段をゆっくりと下りてくる呑気な様子の家政婦を気にしながら、ドアノブに取り縋った。

 捻ってみても、硬い感触が返ってくるだけだった。

「なんで開かないの……」

 まさか、ドアまではめ殺しだとでもいうのか。そんな馬鹿な!

 何度もノブを捻る。その度に、がちがちと硬い音が鳴るだけ。

 背後にひやりとした気配を感じた。振り返ると、家政婦が背中に貼り付くようにして立っていた。あたしはそこでとうとう悲鳴を上げてしまった。ドアを背に、ぺたんと尻餅を突く。ずきんと、頭痛が跳ねた。

「ここから出ることは不可能です……」

 姿勢の悪い家政婦から、今度は見下ろされる形になった。顔の傷痕が、ゆっくりと迫ってくる。瞬きをした拍子に、目尻に濡れた感触を覚えた

「こちらは外に通じる唯一の扉でございますが、鍵がないと内側からも開けられません……」

 そう言われて視線をドアノブの辺りに向けると、下部に小さな穴が開いていることに気付いた。その形は間違いなく鍵穴だった。

 ゆっくりと、視線を家政婦へ戻す。

「その鍵が、このお屋敷の中にはありません……」

「窓は……? 他にもあるでしょ」

 もはや声の震えは誤魔化しようもないぐらいだった。目の前にいる敵か味方かもわからない(敵である可能性が高い)不気味な女に、思わず縋ってしまっている。

 家政婦はあたしを見つめたまま、首をゆっくりと横に振った。

「当屋敷の窓は全てはめ殺しになっております……。お確かめになられましたらおわかりいただけるかとは存じますが……。ガラスも防弾性で、破ることはまず不可能かと」

 屋敷の主は、いない。家政婦はここに残っている。それは一体、どういうことなのだ。家政婦もあたしも、ここに閉じ込められているというのか。

 あたしは一体、どうなってしまうのだろう。

 愕然と、家政婦の後ろにそびえる階段を見つめた。

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