5.外の世界編[二]
――三月某日。午後二時三十分頃。
彼の葬儀はつい先日に終わった。私は出席していない。彼の家族に紹介もして貰っていなかった私は、親族から見れば真っ赤な他人だった。それにどうせ、行ったところで彼の顔は見られないし……。
この日、私は喫茶・パンドラにて、楠葉さんとの再会を果たしていた。待ち合わせ場所にパンドラを選んだのは、駅には近いが警察署からは遠いという単純な理由によるものだった。
テーブル席に着いて、この間と同じようにブラックコーヒーを啜る楠葉さんの向かい側で、ストローからミックスジュースを喉に流し込む。喫茶店なだけあって、これ一杯でファミレスのランチが食べられそうな値段が設定されていたが、今日は楠葉さんの奢りである。少しずつではあるが胃の調子を取り戻しつつある私は、純粋に味わうことにした。とはいえ、手放しで「美味しい」と言える状況ではないのだけれど。
「嬉しいわ。あなたなら連絡してくれるって信じてた」
そんな白々しい台詞さえ爽やかな笑顔と一緒に言われると、鼻で笑う気も失せてしまう。
今は昼食には遅く、おやつには早い時間のせいか、狭い店内なのに人口密度が低い。ジャズだかボサノバ風のBGMだけが静かに鳴り渡っている。あまり大きな声を出せそうにもないし、なるべく手短に話を進めたい。
頭を冷やす為にも、ジュースをもう一口飲んで口の中を潤した。
「電話でも伝えてましたが、その前に確認したいことがあります」
「聞くわ」
「高田さんは、どうするつもりですか」
「どうする、とは」
「楠葉さんの相棒じゃないんですか?」
「ああ、彼なら問題ないわ。私の命令一つでどんな遠くにだって飛んでいく。現にこうしてあなたと会えてるのも、そのお陰」
「それもどうなんです? 仮にもキャリア組の楠葉さんがそんなんで、警察は大丈夫なんですか」
「事件解決の為よ。あなただって、毒を飲む覚悟はできてるんでしょ」
なるほど。全てお見通しという訳か。
彼女の言う通り、腹はとっくに決まっている。先の質問は些細な確認事項に過ぎない。
私は楠葉さんを信じる。そして――裏切る。
膝に乗せたショルダーバッグをそっと撫でた。この中にはタオルで包んだ小型の鉈が入っている。いつか犯人を目の前にした時の為にと、ホームセンターで買っておいたものだ。
楠葉さんの目的は犯人を逮捕すること。でも、私は違う。
私の目的は、この手で犯人を殺すこと。二人の辿る道筋は同じでも、行き着く先には明確な相違があった。
楠葉さんが逮捕するのは犯人じゃない。私に替わる。……事が私の都合のいいように動けば、の話だけれど。
でも、それでも構わないと思った。体に溜まったこの毒を早急に排出する為なら、新たな毒を飲むことを恐れていてはいけない。
彼は、『私』という世界を構築する重要な要素だった。その要素を奪われた私は、このままだと『私』ではいられなくなってしまう。
自己の崩壊。それは死と同義ではないだろうか。この先ありきたりでつまらない一生を送るぐらいなら、手を汚してでも私らしく生きる方がましとは言えないだろうか。
そういう訳で、覚悟が固まっていることに間違いはなかった。
「交渉成立ね」
私の顔に決意が溢れていたのか、楠葉さんは手にしていたカップを掲げて微笑んだ。私は彼女のカップに、ミックスジュースのグラスをかつんと触れ合わせた。
さて、まずはどこに向かうやら。
パンドラを出た私たちは、店の小さな駐車スペースに停められたマーチに乗り込んだ。公用車じゃないのか聞いたところ、言葉を濁された。なるほど、楠葉さんの車か。
「ところで走りさん。バイトの方は大丈夫なの?」
助手席でシートベルトを締めていると、隣からそんなことに聞かれた。私は、エンジンをかける彼女を横目で見ながら頷いた。
「あ、はい。有休が丸々残ってたので、今はそれを使ってます」
このバイトを始めて半年目には、日本の法に則って、十日間の有休が与えられていた。これの使用申請の為にも、先週は一度出勤している。
会社側からすれば腑抜けになった人材を雇い続ける理由はないだろうから、恐らく次の出勤時には離職を提案されると思う。その時は潔く辞めるつもりだ。
「幸い、貯金はいくらかありますから。辞める覚悟はできてます」
「なんだか悪いわね」
「いいんです。どのみちこんな状態じゃ、働けそうにもないですし」
マーチがゆっくりと車道へ乗り出す。発進と同時に、気になっていたことを口にした。
「それと楠葉さん、私のことは名前で呼んで欲しいんです」
別に、今このタイミングで言わなくてもよかったのだけど、言うなら早い段階がいいと思っていた。
「苗字で呼ばれるのは嫌いだった?」
「なんて言うのかな、自分でしっくりきてなくて。変ですよね、生まれ持ったものなのに」
走り歩。大嫌いな私の名前。
本来ならば後から付けられた名前の方を嫌うべきだろうけれど、私は自分に対して、俊敏ではなくのんびりとしたイメージを抱いていた。
走っているのか歩いているのかわからない名前。そのせいでからかいの対象になることもあった。でも、自分でどちらかを選べるというなら……息が切れないように、動けなくなることがないように、ゆっくりと確実に進み続けられる方を選びたい。
そのせいだろうか。走りと呼ばれると落ち着かないのは。
「そう。わかったわ、あゆむちゃん。これでどう?」
「はい、ありがとうございます」
その証拠に、楠葉さんからあゆむちゃんと呼ばれた途端、ほっとしている私がいた。
少し間を置いてから、彼女は本題に入った。
「今、高田に用意して貰ってるものがあるの。それを取りに行きたいのだけど」
私は思わず眉をひそめた。
「高田さん? 彼が側にいるのはまずいんじゃ」
「どんな遠くにもやれるとは言ったものの、何も彼を厄介払いする気はないわ。どんな形であれ、事件を調べる以上、協力はして貰うわよ」
「大丈夫なんですか」
大丈夫じゃないだろう、と思った。不安な眼差しを楠葉さんに送る。この人に、私を巻き込んでいる自覚はあるのだろうか。
「問題ないわ」
私の不安をよそに彼女はそれだけ言うと、国道を走り出した。警察署に向かうルートだった。
「高田さんに用意して貰ってるものって、なんですか?」
「警察では重要だと判断されなかった証拠品よ」
「重要だと判断されなかった? それって大した手がかりにならないんじゃ」
楠葉さんは答えない。仕方なく、車を降りる彼女に続いた。彼女が車を停めたのは、案の定、警察署の駐車場だった。今ではすっかり見慣れた入り口がすぐ側に見える。
入り口の側に佇んでいた警官の一人に敬礼する彼女と並んで、ドアをくぐった。
「おんやぁ、誰かと思えばキャリア組のお嬢ちゃんじゃないの」
署内に足を踏み入れた途端、しわがれた男性の声が飛んできた。思わず足を止める。隣の楠葉さんも立ち止まった。
ドアを抜けたすぐ脇にある階段から、五十がらみの男性が尊大ぶった足取りで廊下側へ踏み出してくるところだった。スーツ姿であることと偉そうな態度から、刑事なのは間違いないだろう。
スーツは灰色。細長い脚に、姿勢の悪い立ち姿。しわと染みの浮かぶ浅黒い肌に、口元をいやらしく歪ませただけの笑顔。それらを見て、どうしたってこのおじさんからはいい印象を持てないと確信した。
「ただいま戻りました、北澤さん」
楠葉さんが敬礼する。私はどうしていいのかわからず、立ち竦んだ。北澤と呼ばれたおじさんは敬礼を返すことなく、再び口を開いた。
「外回り、ご苦労様でございます。まだ帰って来なくてもよかったんだよ?」
「ご心配なさらずとも、調べものが済みましたら厄介者は早々に退散しますので」
「何、やめてよぉ? まるで俺がお嬢ちゃんを厄介者呼ばわりしてるみたいに言うのはさ」
いや、どう聞いてもそう言ってるだろ。
北澤さんから見れば全くの部外者である私を気にする様子もないところを見るに、きっと誰に対してもこのような態度なのだろう。
「ところで、そっちのもっと若そうなお嬢さんだが……」
北澤さんの目が私を捉える。その目付きが蛇みたいな鋭さを伴ったように見えた。声にならない悲鳴が漏れそうになった。
私に向けられていた目がみるみる開かれていく。
「オイオイ、正気かお嬢ちゃんよぉ……事件の第一発見者を署に連れ込んで、どうしようっての?」
「彼女は本件の重要参考人です。捜査には協力的ですし、まだまだお話を伺えるかと」
「お話なら遺体発見当日に散々吐いて貰ったでしょうに。実際に吐いてたそうじゃないの、その子」
私は事情聴取の際にも何度かトイレに駆け込んだことを思い出して、赤面した。
北澤さんは、私が恥ずかしがるのを見越してわざとこんな発言をしたに違いない。にやにやと唇を歪めている。本当に、嫌な刑事だ。
「もういいでしょう。彼女の負担も考えて、今日は手短に済ませるつもりなんですから」
「へーへー、警部補殿は御賢明なことで。巡査部長の戯言なんざ鼻にもかけやしませんってな」
ぬははははっと奇怪な笑いを上げながら、北澤さんは外へと出て行った。助かった……。
「ごめんなさいね、あゆむちゃん。私のせいで嫌な思いをさせちゃって」
楠葉さんから本気で申し訳なさそうに言われて、びっくりしてしまった。ぶんぶんと両手を振って、なんとかこの空気も振り払えないかと努めた。
「楠葉さんが謝ることじゃないですって。でも、なんというか、嫌な人ですよね」
振り返る勇気なんてない私は、目だけを動かして外を睨んだ。
「あれでも鼻は利くのよ。俗に言う刑事の勘ってやつが、鋭い人でね。あれで性格も悪くなければ、素直に尊敬できたのに」
そこで楠葉さんは唇を引き結んだ。
「ごめんなさい。あゆむちゃんに言うようなことじゃなかったわね」
「いえ、そんな」
「こっちよ」
私たちは、止めていた足を再び動かした。楠葉さんに続いて階段を上る。
「途中、廊下で待ってて貰うことになると思うけど、すぐに戻るから」
「あの、重要な方の証拠品は確認できないんですか?」
「そっちを見て貰いたいのは山々なんだけどね。重要なものとなるとなかなか持ち出しが難しくって」
「ああ、それで」
「あとは、警察にとっては重要じゃなくても、あゆむちゃんが見れば手がかりに繋がるようなものもあるかもしれないって理由ね」
なるほど。なんにしても、黙って続くしかない訳だけれど。
「ここで待ってて」
ある部屋の前まで来たところで、楠葉さんは私を手で制した。『マンション滅多刺し事件捜査本部』――入口に掲げられた紙(戒名っていうんだっけ)の文字を読んで、また吐きそうになる。
色んなことが頭の中をぐるぐるして、まともに物を考えられなくなる。
楠葉さんは先の言葉の通り、あまり時間はかけずに戻ってきた。
「これを見て欲しいの」
楠葉さんから見せられた物に目をやった時、私はきっと、彼女にきょとんとした表情を見せたことだろう。
彼女の手にあったのは、チャック付きポリ袋に入れられた一枚の名刺。一般的な会社員が使うような地味なものと違って、紫色をしていた。紙面には「キャメリン」の文字と、赤い唇のロゴが入っている。店か何かのものだろうか。
「それ、彼の部屋にあったんですか?」
「そうよ。何か心当たり、ない?」
「どこの名刺ですか?」
「それが、オカマバーらしいの」
楠葉さんが返してきた言葉に、素っ頓狂なオウム返しをしていた。
だって、まさか彼にオカマバーに行く趣味があったなんて、信じられなかったから……。
彼のことはよく知っているつもりだったけれど、私の思い上がりだったのだろうか。そう思うと、少し寂しいような気持ちになる。
「心当たりも何も、私は全然……。彼がそういうお店に興味を持ってたなんて、信じられないです」
「そっか。あゆむちゃんも知らない、か」
楠葉さんはそう言って私の目の前から名刺を遠ざけた。それから何かを考えるように、紙面に目を落としている。
「本当に行ったのか、行ったとすればどういう目的だったのか。調べた方がいいかもしれないわね」
「それって、実際にお店に行ってみるってことですか?」
「そうね、それしかないもの」
「私も同行していいんですか?」
「もちろん」
耳元に落とされたその返事に、ほっとしている私がいた。でも、本当に捜査に同行することになるだなんて。
同時に緊張感も増した。
キャメリンは、警察署から車で三十分ほど離れた、飲み屋街の一角にあった。雑居ビルの四階に、店のロゴと思われる唇のマークが描かれている。
車を降りた私は、ビルを前につい身構えてしまっていた。
「オカマバーって、どんなとこなんですかね」
当然、行ったことなんてない。顔と体を強張らせる私に、楠葉さんは、そんなに緊張する必要はないと言ってくれた。
まだ夕方より早い時間帯のせいか、通りは閑散としている。曇り空のせいで寒々とすら感じるぐらいだった。
「行きましょう」
堂々たる足取りで進み出した楠葉さんに続いて、おっかなびっくり階段を上り始める。四階には、踊り場を八回折り返したところで辿り着いた。すぐ目の前に店のドアが飛び込んできた。
ドアは名刺と同じ色をしていて、真ん中に「キャメリン」の文字と唇のロゴ。足元には「準備中」と書かれた、虹色の小さな立て看板が置かれている。
楠葉さんは臆する様子を見せることなくドアノブを握っていた。流石、刑事というべきか。なんとも心強い。
彼女の呼びかける声が店の中に響く。恐る恐る、後ろから覗き込む。薄暗い店内の様子が目に入った。壁のところどころに赤い唇が散らされている以外は、ごく普通のバーと変わりがないように見える。
誰の姿も見えないけれど……。
少しの間を置いてから、店の奥から声が返ってきた。鼻にかかってはいるが、野太さを誤魔化し切れていない声だった。
直後に、カウンターから誰かがひょっこりと顔を出した。その人は、一言で言うと大男だった。背が高い。というか、ごつい。太っているのではなく、逞しいと言って差し支えない。服の上からでも筋肉の盛り上がりがわかるぐらいだった。
黒い髪をオールバックに撫で付けている。歳は、三十代後半ぐらいだろうか。服装はなんと、真っ赤なスーツ。
もはや派手としか形容できない人物だが、この人はさらに化粧までしている。正真正銘、彼もオカマと呼ばれる類の人なのだろう。
本物のオカマの人なんて、初めて見た……。
ところでこういう店では普通、ドレスアップをするものじゃないのだろうか。スーツで接客をするなんて、この手の店にしたってなかなかフリーダムなのでは、と思った。
「あらぁ、初めて見るお客さんね。でもごめんなさい、まだ開店前なの」
女性の話し声を、そのままピッチを下げて再生しているみたいな声と喋り方。それに戸惑いを覚えつつ、とりあえずこの場は、目の前に立つ楠葉さんに一任することにした。
「あなたがオーナーの方ですか?」
「ええ。お客さんからは、ママって呼ばれてるけどね」
「突然すみません。警察です」
そこで警察手帳を取り出した彼女の凛とした声が、その場を支配する。オーナー――ママの表情が固まった。こういう場面はドラマの中でしか見たことがなかったから、筋違いなことに私まで固まっていた。
「刑事さんが、うちに何か? 何も悪いことはしてないと思うんだけど」
「はい、今日は調査協力のお願いに参りました。ここのお客さんについて、聞かせていただきたいことがあるのですが」
「うちのお客さん? あらヤダ、何かあったの?」
ママの顔がみるみる内に輝き始めた。思い切り「興味津々」と書いてある。誰しも物珍しいことに対する好奇心には勝てないものなのかもしれない。
「詳細をお伝えできず申し訳ありません。最近、このK市内で起こった事件に関することを、調査していまして」
「守秘義務ってやつ? アタシみたいなタイプには向かない職業ね、警察って」
ママが「どうぞ座って」と言うので、私と楠葉さんはカウンター席に並んで腰かけることになった。
「アタシにわかる範囲でよかったら話すわ」
「ご協力、感謝します。このお店に来た可能性がある人物について、お尋ねしたいのですが」
それから楠葉さんに促されて、彼の特徴を私からママに伝えることになった。
楠葉さんが彼についてどれだけ知っているのかはわからないけれど、そういえば生前の彼の姿を知っているのは私しかいないのだった。生きている彼の姿を見ることは、もう誰にもできないのだ。ぶり返してきた悲しみが涙にならないように、必死で堪えながら、とつとつと説明を始めた。すると。
「ああ、きっとさくちゃんが連れてきたお客さんね。確か、十日ぐらい前のことだったかしら」
合点がいったという風に、ママが声を上げた。
私と楠葉さんは、揃って、新たに出てきた人物の名前を復唱した。
「失礼ですが、その、さくちゃんというのは」
「うちの常連さん。あの子の特徴を挙げるなら、そうねぇ。物腰が柔らかくて、見た目は地味なんだけど、よく見るととっても綺麗な顔をしてる子ね」
楠葉さんが手帳を取り出して、聞き出したばかりの人物について書き付け始めた。
それにしても、さくちゃんという呼称、それに、「物腰が柔らかい」「地味だけど綺麗」という部分。それを聞いて、ざわざわと色めき立つような感覚が込み上げていた。いや、まさかとは思うけれど。
「フルネームはご存じないでしょうか?」
楠葉さんが質問した。
「ええと、そうね。ずっとさくちゃんって呼んでるから、わからなくなっちゃったのよねぇ」
「あの」
答えるママに、私は呼びかけた。ママの顔が今度はこちらを向く。
「その人ってもしかして、髪の長さが私と同じぐらいで、身長が百六十半ばぐらいの?」
自分の、決して長いとはいえない髪を指さして尋ねる。するとママが、「そう、そんな感じ」と声を上げた。
それを聞いた瞬間、椅子から立ち上がらん勢いで「さくらちゃん!」と叫んでいた。ここまで出揃えば疑いようもなかった。二人の驚いた視線が突き刺さる。
「あ……ごめんなさい」
たしなめられたような気持ちになって、しずしずと姿勢を戻した。
「あゆむちゃん、知り合いなの?」
楠葉さんから耳打ちするような体勢で尋ねられた。頷きを返す。
さくらちゃんのことなら、よく知っている。
「幼馴染なんです」
さくらちゃん。今も昔もずっとそう呼び続けているその人は、近所に住む、七つ年上の幼馴染。子供の頃はよく公園なんかで一緒に話をした。
さくらちゃんは色んなことを教えてくれた。勉強はもちろん、中学のこと、高校のこと。世間のことも。
私がクラスの子から名前をからかわれて泣いている時、優しく慰めてくれたのもあの人だった。とても素敵な名前だと言ってくれた。私はそうは思えなかったけれど、あの人がいたから、結果的に立ち直れたのだと思う。
それがいつからだろう。疎遠になり、ほとんど話をすることもなくなったのは。私たちは良くも悪くも大人になってしまったのかもしれない。
「でもどうして、さくらちゃんが彼を?」
会うことすらめっきり減ったさくらちゃんに、彼を紹介した覚えはない。最後に姿を見たのは三週間ほど前だけれど、会話はなかった。
なのにそのさくらちゃんが彼を連れてきたというのは、一体どういうことなんだろう。
今度は身を乗り出すような姿勢になって、ママを見上げた。
「さくらちゃんに連れてこられたって、本当なんですか? 彼はもともと、ここのお客さんじゃなかったんですか?」
さらに尋ねてみた。楠葉さんがこちらへ目と耳を傾けているのを肌で感じる。
「入店時から二人連れ立ってたわよ。あなたの言う彼は初めて見る顔だったから、さくちゃんがこの店に呼んでくれたんでしょうね」
アタシ、人の顔を覚えるのは得意なのよ、とママは続けた。私たちがこの店に足を踏み入れた時も新顔だと断じたぐらいだから、相当に自信がある特技なのだろう。
「二人はここで、どんな会話を?」
これは楠葉さんだった。とりあえず本題を進めることにしたらしい。私の中で引っかかっているものは残ったままだけれど、ここは引き下がるしかなくなってしまった。
尋ねられたママは頬に手を添えて、何かを思い出そうとしている。
少しして、赤紫のルージュが引かれた、ママの艶やかな唇が動いた。
「そうねぇ……まず、二人は話し込んでる様子だったわ。アタシが会話に入れそうなタイミングなんてほとんどないぐらいに」
「何をそこまで真剣に話し合ってたのでしょう?」
「アタシも他のお客さんの相手をしてたからはっきりしたことは言えないけど、弟がどうこう、っていうのは聞こえてきたかしら」
楠葉さんの目が細められたように見えた。
さくらちゃんは一人っ子である。そして私の恋人である彼からも、弟がいるなんて話は聞いたことがなかった。もちろん私にもいない。警察である楠葉さんなら被害者である彼の家族構成ぐらいは知っているだろうし、彼女はもしかするとさくらちゃんのことだと思っているかもしれない。このことは後で教えておいた方がいいだろうか。
「一度、さくらさん本人に当たった方がいいかしら」
楠葉さんがママに聞こえるか聞こえないかぐらいの声量でこぼした。一番手っ取り早い手段はやっぱり、当人に確認することだろう。
「本日はお忙しい中、ありがとうございました」
立ち上がる楠葉さんにママが目を丸めている。
「これだけでいいの?」
「場合によっては、またお伺いするかもしれません。この件に関して何か思い出したことがあれば、ぜひまたお聞かせ下さい」
「ねえ、その人、何かしたの?」
「守秘義務に反しますので、申し訳ありません」
赤紫の唇から、甲高く「けち!」と飛び出した。
私も楠葉さんに倣ってスツールから滑り降りた。スカートが大きくめくれ上がる。慌てて裾を正した。
「それから、もし、今後さくらさんが来店するようなことがあれば、私に直接教えて欲しいんです」
手帳からページを破り取る音がした。そこには見覚えのある番号が書かれている。恐らく私が渡されたものと同じ、彼女の個人番号。しかしそれだけでは体裁が悪いと思ったのか、管轄であるS県警の電話番号も小さく添えられていた。
「もしかして非公式な捜査だったりするの?」
妙に察しのいいママからそんなことを聞かれる。楠葉さんは適当にやり過ごした。「よりスピーディーな対応ができるように」とかなんとか、もっともらしいことを言って。
ママは終始、柔らかな態度を崩さないまま受け答えを続けてくれた。ところが最後に楠葉さんから名前を聞かれたところで表情を歪めた。
「剛田玄造よ」
赤紫の唇から、非常に男らしい名前が飛び出す。
楠葉さんはその名前を、特にリアクションを見せることなく手帳に書き付けた。
キャメリンを出てビルを下りるなり、楠葉さんからさくらちゃんのフルネームと住所を聞かれた。その後すぐに、今度は高田さんに電話をかけ始める。
「こういう時は使える高田を使わないと」
とかなんとか言っていたが、それって私と楠葉さんが協力関係にあることがばれる可能性を高めないだろうかと、さっきの懸念がよみがえった。聡明そうな楠葉さんのことだから、無茶な真似はしないと思うけれど。いや、それを言うなら私と手を組むこと自体が無茶になる訳だけれど。
彼女は電話の向こうの高田さんに事情聴取の手配を頼んでいた。対象はもちろん、さくらちゃんである。
「それで、私たちはこれからどうするんですか?」
電話を切った楠葉さんに尋ねる。
「現状、高田のリアクションを待つしかないわね。不服?」
「いえ、そういう訳じゃないんですけど」
何もやることがない状態というのは、じれったいものだった。こと私に関してはまだ自発的な行動を起こせる状況にないから、余計に無力感を覚えている。
「……待つことも大事、なのかな」
そんな風にこぼすしかない。自分に向けた言葉だったけれど、楠葉さんは自身へと向けられたものと捉えたのか、頷きを返してきた。
「そうよ。私たちがセッティングしてもいいんだけど、どのみちさくらさんと知り合いのあゆむちゃんには同席して貰えない。だったらほぼ同時進行で高田に任せた方がいい。私たちはその間、マンション周辺を張り込みましょう。あと、今後さくらさんと会っても普段通りに接して欲しいの」
「わかりました。あの!」
私はその場に立ち止まったまま、歩き出そうとした楠葉さんを呼び止めていた。
「楠葉さんは、ほんとに私のことを信じてくれるんですね」
思わずそう口にしていた。彼女は驚いたようなリアクションを見せた。
「なぁに、藪から棒に」
「だって、ほんとに捜査に参加させてくれるなんて……」
正直にいうと半信半疑だった。こんなに都合のいい話が転がり込んでくる訳がないと思っていたのだ。
彼女の口元にうっすらと笑みが浮かんだ。
「私も、自分の勘を信用することにしてるの。あゆむちゃんは信用できる、って勘。刑事としての経験は浅いけど、ヒトとしては二十五年やってきてる訳だから」
「それって経験豊富な方なんですかね?」
「二十五歳にしちゃ豊富な方だとは思ってるけどね」
確かに。何せ楠葉さんの場合、捜査一課の刑事さんなんだから。それもキャリアの。そこら辺の二十五歳とは、比べるのも失礼だろう。
私たちはビルの斜め向かいにある駐車場へと足を進めた。楠葉さんのマーチが見えている。
車に乗り込んだというのに、エンジンはなかなかかからない。不審に思って隣を見ると、俯きがちな楠葉さんの姿が目に入る。心なしか気恥ずかしそうだった。
「まー……これで彼氏の一人でもいれば、もっと格好が付いたのかもしれないけどね」
「おや、今はフリーですか」
綺麗な人なのに。ちょっと化粧は濃いけれど。
でも、別に意外とは思わなかった。刑事さんって忙しそうだし、それにデキる女ってなんとなく近寄りがたい雰囲気があるから。楠葉さんだってそこは例外じゃない。
「今は、っていうか、ねぇ」
彼女は言葉を濁してエンジンをかけることで、この話題を強制終了させた。車内に心地よい温度の空気が流れ始める。
えっ……本当に? 仕事優先の人なのだろうか。楠葉さん、クールそうだし。それとも単に理想が高いだけだったり?
なんだかちょっと、彼女の意外な一面を見た気分だった。
しばらくしてから、楠葉さんは「今日の捜査はここまでかしらね」と口にした。自宅までは彼女に送って貰うことになった。
そういえば。ふと今日のことを思い出す。
彼は、さくらちゃんに連れられただけで、自発的にオカマバーに行った訳ではないのだ。そのことがわかって、本当によかった、と思う。
ただ、どんな理由からさくらちゃんと二人でいたのか。今度はそれが気がかりだった。
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