第40話 妻の長い告白

 「思い出すわね。あの日のことを、今でもよく覚えている。深夜の池袋の新文芸坐。私は大好きな押井守のオールナイトを観に行った。もちろん、一人。だって、周りには押井守好きな人なんていないもの。みんな、宮崎駿は好きなのにね。あ、私はあなたと違って、宮崎駿も好きだけれど。押井守を好きだなんて言っても、「ああ、『時をかける少女』の人ね」なんて言われてね。それは細田守だっつうのってね。まあ、ツッコむのも面倒だからしないんだけど。そういえば、日本のアニメーションの巨匠って、漢字三文字の人、多いわよね。高畑勲とか新海誠とか。まあ、富野由悠季は5文字だし、片淵須直は4文字か(笑)。まあ、そんなことはともかく、私は一人静かに映画を楽しみたかったの。あの日は、押井守の代表作『パトレイバー2』、『ゴースト・イン・ザ・シェル』、『イノセンス』の三本だてだったわね。ちなみに、私が一番好きなのは、『パトレイバー2』。作中のセリフはほとんど覚えているわ。高校生の時に、ドはまりして、ノートにセリフを書いて、暗唱したの。そういう記憶力って、どうして、受験とか他の勉強にはいかせないのかしらね。いかせてたら、私、絶対に東京大学に入れると思うわ。まあ、こんな話、あなたには何度も話したから分かっているとは思うけれど。そう、そして、あなたが隣に来たのよね。私に全く気がつかずに。私、思ったわ。あー。なんで、私の楽しみを邪魔するのって。こんなところで知り合いになんて絶対に会いたくないのにって。でも、あなた私にまったく気がつかなかった。いつまでたっても。私、不思議で、咳払いとか腕を伸ばしたりとか、色々やってみたのに、あなたはまるっきり無反応。私、その時、ああ、この人、私のこと認識してないんだって思ったの。一緒の大学、一緒の学部、一緒のサークルで、私の方しか認識してないって、なんだか癪じゃない。はっきり言って、イラついたわ。それで、カマかけてやったの。あなたまんまと引っかかって、面白かったわ。私のこと「田中」なんて呼んで。本当は佐々木なのに。でも、映画が始まるとあなたは真剣に映画に夢中になって、それこそ私のことなんて全くきにしてなかった。私はそれも腹立たしかった。だって、私は、あなたがいることで、多少ともあなたに意識が向いていたのに。あなたは、映画にだけ向きあえていたの。本当にこの人は映画が好きなんだなって思った。そして、なぜだか、私にも興味を持ってほしいと思ってしまったの。映画に夢中になるように、ね。その後、喫茶店でバカみたいに朝まで映画の話をしたわね。ていうか、その後は、ずっと映画の話ばかりしていたわね。あなたはアニメの話ばかりで、私はフランス映画の話ばかりしていた気がするけど。そんな風に好きなことを好きなように話し合えるのが楽しかった。それに、あなたと一緒の時、私は自然体でいられたの。誰かと話す時、どうしても、その誰かに合わせなきゃいけないでしょ。話し方も話す内容も、接し方も。目に見えない空気を読んで、慎重に、相手の気分を害さないように、気をつかった会話。それを悪いことだとは言わないけれど、とても窮屈だった。けれど、あなたに対しての私は、そんなことを考える必要がなかった。それは、あなたが優しかったおかげだけど、もっと言えば、あなたの持っている空気(というかオーラ?)がとても心地いいものだったからね。ずっと、一緒にいても、まったく苦にならない、むしろいい気持ちになる人。そんな人は私の人生であなたが初めてだった。だから、私はあなたに告白された時、本当に嬉しかった。この人となら、一生一緒に添い遂げることができるって本気で信じていた。そして、私たちは大学を卒業して、一緒に生活を始めた。私もあなたも昼は働いて、夜はどちらか早く帰ってきたご飯を作ったり、洗濯したり。何の不満もなかった。このまま、自然に子どもができれば、それもいいし、できなかったらできなかったで、二人で仲良く暮らしていけばいい。そんな風に思っていた。でも、ね。ある日、「これで本当にいいの?」っていう声が聞こえ始めたの。それは、何かきっかけがあったとか、そういうことじゃないの。もちろん、子どもが産めない身体だって、分かったときはショックだった。でも、さっき言ったように、それならそれで、あなたと二人、仲良くおじいさん、おばあさんになっていけばいいし。それが幸せだと思っていた。けれど、どこかで私は、「本当にいいの?」っていう質問に自信を持って「イエス」って答えられなかった。それは、決してあなたが悪いわけじゃないの。完全に私自身の問題だった。私が本当にしたいことってこれだったのかしら?そんなことを考え始めたらとまらなくなった。夜もちゃんと眠れなくなって。不安で。あなたに相談しようと何度も思った。でも、そんなことを言えば、あなたはきっと傷つく、と思うとどうしても言えなかった。親とも不仲だし、心から信頼できる友だちもいなかった私は誰にも相談できずに、自分を追い詰めてしまったの。そして、その不安とかいろいろなものがついに決壊して、私は家を出て行こうと思った。何か考えがあったわけじゃないの。ただ、ただ、どこか遠くに行かなきゃいけない。そう思ったの。それで、離婚届とあの書置きだけを残した。それが、私のできるやっとのことだった。あなたには、本当に申し訳ないことをしたわ。少しでも、あなたに、この不安を分かち合ってもらおうと努力していれば、こんな風にはなっていなかったかもしれない。その後、知り合いのつてでハワイに渡り、今の仕事についたの。それからは忙しくて、そんな不安もあまり考えないで生きていけるようになったわ。でも、あなたのことは、ずっと心配だった。これは、本当よ。ふらっと、あの家に戻ってしまいたいと思ったことも何度もあった。でも、それだけは絶対にしちゃいけないって、そう自分に言い聞かせた。だって、あんな酷い裏切りして、どの面下げて、あなたと向き合えばいいのって。だから、今日、あなたが、ここに来てくれて……。本当に驚いたけど。でも、嬉しかった。あなたにもう一度会えたことが。もちろん、梓ちゃんのことは、ちょっと妬けるけど。でも、祝福する。あなたが、幸せになってくれることが、私の幸せなの。……そんなこと言われてもって思うだろうけど。だから、本当に言いたいことは、たくさんあるだろうけれど。私は、今は元気よ。だから、あなたは私のことなんて忘れて、あなたの人生を幸せに生きてほしい」

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