お姉ちゃんはいつも優しい
いかろす
お姉ちゃんはいつも優しい
遠くから聞こえるセミの声は、わたしを起こすにはちょっと足りない。
「もう起きる時間だよ、すなおちゃん」
優しいその声が耳に届くと、どんなに気持ちいい眠りでもフッと覚めてしまう。いつからだろう、枕元からかかる声がないと、起きられなくなってしまったのは。
起き抜けのぼやけた世界が少しづつハッキリしていく。すると、木の天井に出来た不思議な模様が、金色の髪の毛だったことが見えてくる。まっしろな肌と、大きな目と──それが誰の顔なのか、わたしにはもうお見通し。
「……おぁよう、お姉ちゃん」
かすかすの声が出た。起きたばっかりで喉が渇いたな……と思った瞬間、まもりお姉ちゃんの手がすっと伸びてくる。その手には、麦茶の注がれたコップが握られている。
寝っ転がったまま飲んだらビシャァってなること間違いなしなので、上体を起こす──すると、頭にクラリといつものアレが来る。朝起きたときはいつもそうだ。なんだかわからないけれど、クラクラする。
でも、大丈夫だ。わたしがこうなった時は、いつもお姉ちゃんがそばに居てくれる。なにせ、起きてすぐの時と、夜中トイレに行きたくなったときくらいしかこれはやって来ない。
「おはよう、すなおちゃん」
「ん、おはょ……」
渡された麦茶を飲み干して一息。でも、それだけで落ち着いてはくれない。わたしもお姉ちゃんもそれをわかっているから、お姉ちゃんはまだそばに居る。
きゅっ、とわたしを包み込む、お姉ちゃんの柔らかな肌。ぎゅっ、じゃない。きゅっ、だ。この抱き加減を、お姉ちゃんはいつでも完璧に再現することが出来る。
わたしの朝は、クラクラして、それが治まるまでお姉ちゃんにきゅっ、と抱きしめられるところから始まる。それ以外で始まったことは……あったっけ。あったと思う。
雲に包まれたらこんな感じかもしれない。お姉ちゃん。この心地よさにいつまでも、いつまでも、いつまでも──浸っていられたら。でも、そう言ったら、お姉ちゃんのことだから一生わたしのことを放してくれないかもしれない。
こういうのをなんて言うか、本で読んだことがある。わたしが起きるたび、毎日繰り返されること──目覚めの儀式。
夏のジメッとした空気が、部屋の中に流れている。今何時だかわからないけれど、もう夏の暑さは十分家の中にまで入ってきているみたいだ。
「……あったかい」
お姉ちゃんに包まれている間は、その暑さも忘れられる。
「濡れてる」
わたしの背中を撫でて、呟いた。背中にひんやりした感覚が、お姉ちゃんの手の形に伝わってくる。わたしの寝汗だ。
「夢、見た」
「夢……また?」
「そう。また、同じ夢」
この話をすると、お姉ちゃんは悲しそうに顔を歪めてしまう。今日もそうだ。
「大丈夫。お姉ちゃんは居なくならないよ」
「絶対に?」
「うん。私は、嘘つかないから」
これを聞くと、安心できる。お姉ちゃんは本当に嘘をつかないから。でも、これを聞くために、毎回お姉ちゃんを悲しくさせてしまう。
「……もう少しだけ」
「うん。すなおちゃんの好きなだけ」
そう言ってお姉ちゃんは、わたしの額に口をつけた。ひんやりとした、唇。
わたしの家にはクーラーがない。でも、木造で暑さ対策がしっかりされた家だから、過ごしていても意外と気にならない。ひさしがお陽様の光をさえぎるし、障子や襖を開ければ風が抜けていく。それだけで、ジメっとした空気も意外と気にならない。扇風機だけはあるけれど、必要になることが滅多にないからホコリまみれで押入れの奥に眠ったまんまになっている。
お姉ちゃんにお布団をたたむのは任せて、わたしは縁側を通って顔を洗いに行く。家の周りは木々で囲まれていて、家庭菜園なんかも揃っているから自然がたっぷりだ。なので、風が吹くたび家には自然の香りが運ばれてくる。
けれど、今日の匂いは少し違った。顔を洗ってトイレを済ませて戻ると、自然とはかけ離れた香ばしい匂いが漂ってくる。匂いの元は居間の方だ。
襖は開いていたので、そのまま居間に入る。小ぶりなテーブルの上には、色とりどりの具材とこんがり焼けたマフィンの乗った皿たちが並んでいた。
「お姉ちゃんもしかして」
「そう、そのもしかして」
昨日テレビで見た優雅な朝食。なんとなく憧れて見ていたのを、お姉ちゃんは見抜いていたようだ。わたしの好きなトマトは多めに並んでいる。
お姉ちゃんはいつもそうだ。わたしがしたいと思ったことはすぐに見抜くし、お家の中で出来ることはなんでもやってくれる。
「飲み物はなににする?」
「コーヒー牛乳!」
「わかった。食べてていいよ」
ダイニングから、カラカラン、と氷がグラスに入る涼しげな音が聞こえてくる。お姉ちゃんのことなので、ちゃんとお砂糖の入ったコーヒーでミルク多めに作ったコーヒー牛乳が出てくるに違いない。
それを待ちつつ、既にバターの塗られたマフィンにレタスとトマトとチーズを挟む。ハムもあったのでついでに挟んでいただきます。
「今日はなにかしたいことある?」
言いつつ、お姉ちゃんは自分の分のコーヒーと、わたしのコーヒー牛乳を置く。一口飲むと、甘すぎなくてまろやかなわたし好みの味だった。冷たさが喉を通って体の中へ落ちていくのがわかる。
「お姉ちゃんは?」
「私はすなおちゃんのしたいことがしたいかな」
「えー、そうだな……」
プールは一昨日入ったし、ゲームは昨日もやった。そうこう悩んでいる内に、一個目のマフィンを食べ終わる。二つ目のマフィンはケチャップも挟んで、少しピザっぽい味にしてみたり。
わたしが食べているところを、お姉ちゃんはじっと見つめてくる。お姉ちゃんはひどく少食で、一緒に食べてくれることはとっても少ない。
「食べないの?」
「もう食べちゃった。ごめんね」
「ううん、いいけど」
という感じになる。
食べてるのを見られるのはあんまり好きじゃないけれど、お姉ちゃんの料理は美味しい。お姉ちゃんは食べてるのを見るのが好き。こういうの、ウィンウィンの関係って言うらしい。テレビで見た。
しょっぱいものを食べていると、甘いものが欲しくなってくる。しかし、手元のコーヒー牛乳を飲み干してしまった。それに気づいたお姉ちゃんがすぐにコップを取り、新しいのを入れてくれる。
「……お菓子、作りたい」
甘いもの。そう考えたとき、パッと浮かんだのはケーキだった。
したいことを言うと、笑顔のお姉ちゃんがダイニングから戻ってくる。持ってきたコーヒー牛乳はやはりわたし好みの味だ。
「なにケーキがいい?」
コーヒーを飲みつつ、お姉ちゃんが聞いてくる。ちょっとした飲む動作もお姉ちゃんはすごく綺麗で、わたしもこういう大人になりたいなあなんて思ったり。
「うーん、ガトーショコラ、とか」
ガトーショコラ。普通にチョコレートケーキって言うよりも響きがカッコイイ。でも、チョコケーキとなにが違うのかはまったく知らない。
「ガトーショコラかあ。それだと……ラム酒があった方が美味しいし。あとチョコ系の材料も足りないかなあ」
なにも見ずに必要なものを言っていく。レシピを暗記している証拠だ。流石はお姉ちゃん。
「ないなら違うのでいいよ、ショートケーキとかでも」
「大丈夫、買ってくるから」
「じゃあわたしも」
「だーめ」
わたしの額を、お姉ちゃんのしなやかな人差し指が小突く。
「私もすなおちゃんと外に出たいけど、それだとすなおちゃんに悪いから」
これをされると、ダメだ。お姉ちゃんはどこまでも私を想って言ってくれているから、逆らうなんてもってのほか。
「……わかった。待ってる」
「ごめんね」
「お姉ちゃんが謝ることじゃないよ。ありがとう」
「うん。じゃあちゃっちゃと行ってきちゃうね。食べ終わったらお皿はあっちに置いといて」
寝癖頭をくしゃくしゃ撫でながら立ち上がったお姉ちゃんは、外出の準備を始める。わたしは一人だけの居間で、残ったマフィンを食べ進める。食べ終わってみると、テーブルにあったのはちょうどお腹いっぱいになるくらいの量だった。
「……夏、はやく終わらないかなあ」
今年の夏は、すごく長い。そう感じるだけかもしれないけれど。
外はとても暑いから、体の弱いわたしは外に出られない。出てもお庭くらいだ。買い出しなんかは全部まもりお姉ちゃんがやってくれているから問題はないけど、はっきり言って、退屈だ。家の中で出来ることはたくさんあるし、お姉ちゃんがずっとそばに居てくれるけど、退屈だけは変わらない。
車があれば外にも出られそうだけど、お姉ちゃんは車の免許を持ってない。お父さんとお母さんは車を持ってるし運転も出来るけれど、わたしを置いて都会に戻ってしまった。
夏が嫌いだ。長い夏が嫌いだ。でも、お姉ちゃんは好き。お姉ちゃんとずっと一緒に居られる今が好き。弱くてしょうがないわたしが嫌い。でも、お姉ちゃんはこんなわたしを認めてくれる。お姉ちゃんが好きなわたしは、少しだけ、好きになれそう。
一人になるとぐるぐる考えてしまう。よくわからないし、答えも見つかりそうにないのに。
「暑いなあ」
今年の夏は、やっぱり長い。
「ただいま~」
重そうな荷物を両手に抱えて、お姉ちゃんが帰ってきた。せっかく暑いなか外に出たからと、色々お買い物を済ませてきたらしい。汗で濡れた首に、きらびやかな金の髪がくっついている。
「すなおちゃんの好きなもの、いっぱい買ってきたよ!」
すけすけの袋の中には、たしかにわたしの好きなもの──トマトとか、トマトソースとか──が入っている。チョコとかそういう夏だとマズイものは、クーラーバッグの中に詰まっていた。開けると冷気がブワッと出てきて気持ちいい。
「ありがと!」
「どういたしまして」
わたしが笑うと、お姉ちゃんも嬉しそうに笑ってくれる。重そうな荷物を一緒に持とうとするより、家事のお手伝いをするより、お姉ちゃんはわたしの笑顔を見ることを喜んでくれる。
これが、わたしに出来るお姉ちゃんへの精一杯だ。でも、もっと色んなことをして、お姉ちゃんの隣に立てるようになりたいな……。
「早く大人になりたい」
お姉ちゃんがきっちり計った分の材料が入ったボウルをかき混ぜながら、なんとなく呟いてみた。色とりどりの材料たちは、かき混ぜていくと茶色に変わっていく。
「……どうして?」
「そうすれば、お姉ちゃんのお手伝いができるもん」
「今だってそれ混ぜてるでしょ?」
「そうだけどー。もっとさ、色んなことがしてみたいの。うーん……お洗濯とか」
「お洗濯なら今でも出来るんじゃない? じゃあ明日は手伝ってもらおっかな」
今のわたしに出来るなら、それでいい。でも、今のままが嫌なんだ。
「……お父さんもお母さんもお仕事してるし、車の運転もできる。わたしみたいに体も弱くないし、家のこともたくさんやってた。それに、お姉ちゃんは、なんでもこなしちゃう」
お絵かき。折り紙。ボードゲーム。じゃんけん。その他いろいろ。お姉ちゃんはなにをやってもすごかった。いつだって、お姉ちゃんはわたしの憧れなんだ。
「お姉ちゃんみたいに、じゃない。お姉ちゃんより強くなりたい。それで、お姉ちゃんを守ってあげたい」
とか言って、ちょっと恥ずかしくなってきて、わたしの頬が熱くなる。
「すなおちゃん──」
お姉ちゃんの瞳が潤んで、一筋の涙がこぼれていた。ぽかーんと口を開けたまま泣いているお姉ちゃんは、今まで見た中でも一番……なんというか、弱そうな姿で。
「お、お姉ちゃん! なに、どうしたの。わたし変なこと言った?」
「変じゃない」
その一言で、空気がピシッと張る感じがした。なぜだか背筋が伸びてしまう。
「ねえ、すなおちゃん。なにからわたしを守ってくれる?」
「えっ、なんだろ。警察とか?」
「……ぷはっ。け、警察って。すなおちゃん、それじゃ私が犯罪者みたいじゃない」
とにかく変なことを言ってしまったけど、お姉ちゃんは楽しそうに笑っている。
「でも、心強い。嬉しいよ、すなおちゃんからそんな言葉が聞けて。そっか」
わたしを見つめる、お姉ちゃんの二つの目。でも、どこか遠くを見つめているようにも感じて、少しだけ、寂しいような。
「強くなるんだよね、すなおちゃんも」
「そりゃ、育ち盛りですから」
「そうだよね。じゃ、育ち盛りさんにはいっぱい食べてもらわないと」
「うん。はいこれ、混ぜ終わったよ」
「うーん、まだダマが残ってるかな。あとはわたしがやっちゃうね」
強くなるための道のりはまだまだ遠そうだ。
ガトーショコラを作っておやつに一切れ食べ、晩ごはんを食べた後にもう一切れ食べた。お菓子作りは分量が大事ってお姉ちゃんは言っていた。たしかに、きっちり計って作ったガトーショコラはとっても美味しかった。
お姉ちゃんと一緒にお風呂に入ってしばらくすると、うとうと眠くなってくる。あとちょっと起きていたいといつも思うけど、眠気には勝てない。これに勝つためにも、早く大人になりたいと思う。
わたしが眠るときには、お姉ちゃんが枕元についてくれる。お布団を敷いた後、お姉ちゃんがわたしを抱きしめる。そのあったかさに包まれていると、どんどん眠くなってくる。
「疲れちゃった?」
「うん……」
この頃には、頭はふわふわして、体は少しフラッとする。眠気もてっぺんまで来ているから、お布団に入ったらすぐにぐっすりだ。お姉ちゃんがわたしを抱き上げてお布団に寝かされて、わたしの一日は終わる。
「やっと見つけた」
終わる、はずだったけれど。次の瞬間、わたしはお布団に投げ出されていた。冷たい光がヒュッ、と頭の上を流れていく。流れ星みたいに見えたけど、家の中で見られるわけがない。
ヒュッ、ヒュッ。お姉ちゃんと同じくらいの大きさをした人影。動くたびに風が鳴って、光が流れる。まっぷたつになった障子戸がゴトン、と落ちた。
縁側に立つお姉ちゃんは、見たこともないような怖い顔で睨んでいる。わたしのそばに立つ、まっしろい姿のお兄さんを。
「っ、子供を巻き込むなんてッ!」
「巻き込んでるのはそっちっしょ」
お兄さんは、金髪だった。お姉ちゃんの鮮やかな色と比べれば、少しくすんで見える。メガネをかけた顔には、悪そうな笑みが。豪華な着物みたいな服を着ていて、その手には日本刀が握られていた。腰には、お札みたいなものをグルグル巻きつけた鞘を差している。
「ふ、不審者……」
なんとなく知っていた言葉を呟くと、お兄さんはその怖い笑みをわたしに向けてきた。
「そうだぜお嬢ちゃん。でも俺はな、いい不審者なんだ」
お兄さんが言うと同時、外から青い光が差し込んだ。
◇
その頃、木造家屋周辺に五台の軽トラックが殺到していた。それぞれのトラックは散開し、家屋を中心として五角形を描く頂点に停止する。均一に計られた定位置に停止すると、座席と荷台より狩衣──陰陽師が纏ったとされる衣装──を身に着けた人間たちが続々と降車した。
荷台には簡易的な護摩壇が設置されている。狩衣の男が懐からライターを取り出し、着火剤を置いた後に着火。たちまち力強い炎が燃え盛る。篝火の完成である。
五角形の中で、最も上に位置する頂点に立つ、長髪の美男子。彼もまた狩衣に身を包み、鋭い目を夜闇に包まれた木造家屋へと向ける。視線は外さぬまま、懐からスマホを取り出しラインを起動。「B」グループにグループ通話をかける。
「準備はいいか」
完了の旨がスマホの奥より響く。男は軽く頷いた後、スマホを足元に置いた。そして、連れてきた狩衣の者たちをトラックの前に並べる。
「適宜タイミングは合わせよ。開始する」
狩衣たちは揃って手を前に出し、大独股印を結ぶ。
「オン・キリクシュチリビキリ・タダノウウン・サラバシャトロダシャヤ・サタンバヤサタンバヤ・ソハタソハタソワカ──オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ──」
朗々と唱え上げられていく真言。瞬間、家屋を中心として、地面に青く発光する五芒星が描き出された。五角形の頂点同士を結び合わせれば五芒星が成る。軽トラックが描き出していたのは、呪文を唱えるための陣であった。
大威徳明王の力で以て怨敵を調伏する修法「大威徳法」。頂点に立つ者たちの呪力は地に描かれた五芒星へと流れ、そこから溢れ出す輝きは怨敵を弱体化、ないしは破壊し、善なる者を守護する。
──頼んだぞ、弟よ。
誰より明朗かつ繊細な声音で真言を唱えながら、長髪の男は邸内の弟へと思いを馳せる。
穏やかな夏の夜は終わりを告げ、陰陽師たちによる「狩り」の時間が始まろうとしていた。
◇
床下から青い光が出たと思ったら、お姉ちゃんが苦しそうな叫び声を上げた。今まで二本の足で立っていたお姉ちゃんは今や膝を床について──よく見ると、足の色が変わり始めている。
「お姉ちゃん」
わたしは立ち上がってお姉ちゃんの元に向かおうとする。けれど、目の前に日本刀が突き出される。これが本物なのは、なんとなくだけど、わかる。
「危ないぜ」
「だ、誰なの!」
「そりゃこっちが聞きたいぜ。おい姉ちゃん! あんた、なに?」
その問いかけに答える代わりに、お姉ちゃんは立ち上がった。まるで重たいものを背中に背負っているみたいに、苦しげに、ゆっくりと。
「うっは! 立つのかよ、こりゃ怖え」
日本刀を片手に構えて、金髪のお兄さんはもう片方の手に不思議な形を作り始める。チョキの形で、中指を人差し指に乗せるみたいな感じだ。
「ノウマク・サンマンダ・ボダナン・インドラヤ・ソワカ──ノウマク・サンマンダ・ボダナン・インドラヤ・ソワカ──ノウマク・サンマンダ・ボダナン・インドラヤ・ソワカ──」
ブツブツ呟きながら、お兄さんはジリジリとお姉ちゃんの方へ近づいていく。
「……おねえ、ちゃん?」
少し目を離している間に、お姉ちゃんは、わたしの知っているお姉ちゃんではなくなっていた。
◇
家屋の様子を、真言を唱えながらじっと見守っていた長髪の男──兄は、驚愕に目を見張った。金髪の男──弟が、吹っ飛んで外に転がり出てきたのだ。右手には日本刀、左手には帝釈天印を結んでいる。
読唇の心得がある兄は、弟が唱える真言が何であるのか察知していた。正式な手順を踏んで供養することで勝負事には必ず勝つとされる、帝釈天系の真言である。ただ唱えれば願掛け程度だろうが、大威徳法により力が満ちたこの地の霊力をもってすれば効果はあるはずだ。
「兄ちゃん! こいつやべえよ!」
泣き言を言うな弟よ。視線でそう伝えると、弟も苛立たしげながら相手に目線を戻す。
家屋内よりまず現れ出たのは、五円玉のような金色の脚であった。それは実際に五円玉を形作る素材、真鍮で出来た脚である。
もう一方の脚は、人間と同じものであった。だが、つま先からは不気味なほど大きな鉤爪が張り出している。あの足で蹴られようものなら、打撲より先に大きな切創を負わされる。
足と同じような鉤爪を両の手に据え、背には夜を溶かしこんだような漆黒の翼がはためく。それでも体と顔は、美しき人間の女のままだ。
──データ通りか。
彼ら陰陽師は、現代の闇に潜み生きる怪異を退治して回る特務集団である。それに類する組織は
今回の任務は、古来よりギリシャに伝わる吸血怪異「エンプーサ」が西欧より逃亡を計り、日本にて反応が消失したという一件の後始末であった。
──弟よ、やれ。
標的の正体が判明した。ならば、取るべき方法は一つ。アイコンタクトでそれを伝える。
「あいよ! つってもどうすっかな~」
弟がわずかに目を反らした、瞬間。エンプーサは弾丸のごとく滑空し、弟に迫った。
兄は込める霊力を高め、大威徳法のさらなる収斂に取り掛かるが、エンプーサの力が衰える気配はない。高速で振るわれた鋭い鉤爪を弟がなんとか受け止め、弾く。
「あーもう、なんなんだっつの……アホ! バカ! クソッタレウンコタレ! どうだおら、ブス! ゲテモノ! ロリコン!」
刀と鉤爪が激しい火花を散らす中、弟の口より子供じみた悪口が怒涛の勢いで吐き出される。正しいとわかっていても、兄はこの馬鹿らしい光景に眉をひそめざるを得ない。
エンプーサの両腕と足を使った鉤爪攻撃の乱打が、弟の罵倒を境にスピードが緩んだ。ここぞとばかりに弟が果敢に斬りかかる。すると、エンプーサの腕に一条の切創が走った。弟の攻撃がついに通ったのだ。
あまりに馬鹿らしい弟の言動に怯んだように見えるが、その実そうではない。古来よりの言い伝えとして、エンプーサは悪口に弱いとされている。彼女の動きが鈍ったのは、伝統ある対処法が効いた証拠である。
だが、今の遅れを取り戻すかのごとく、エンプーサは即座に構え直す。そして、今日一番早い一撃──アッパーカットを放つ。弟は寸前で後ろに下がって避けたが、鉤爪の先がわずかにメガネに引っかかった。メガネは外れ、地に落ち、踏み潰される。
「あれ、見えね……クソッ! どこだクソ女! ロリコン! ペドフィリア!」
弟は闇雲に刀を振るう。しかし、彼の間合いにもうエンプーサは居ない。後ろに回り込み、弟によるめちゃくちゃな剣の舞を見物している。
「後ろだ! 逃げろ!」
兄が真言を中断してまで声を荒げるが、その時には、エンプーサの回し蹴りが弟の腰を激しく打ち付けている。なすすべなく吹っ飛び、地に倒れた。
弟は祓魔の才能に恵まれなかった。しかし、兄の手伝いをしたいばかりに、霊力による改造を施した呪具で祓魔に望んでいたのだ。怪異を見通すメガネ。霊力を込めて呪符による増強も施した刀。兄の霊力を編み込んで作り上げた狩衣。
「私が出る」
兄が、前に出た。なにも手にしていなかった手に、どこから途もなく大量の呪符が現れる。その喉は、幼少より幾度となく呪を唱え続けてきた。その手は、幾度となく印を結び続けてきた。誇り高き陰陽師の血を受け継ぎし家系の長男として、今、前線へと踏み出す。
その時、地面に描き出されていた五芒星が消えた。
「何事か!」
兄が振り向くと、軽トラック上の篝火が消えている。それどころか、護摩壇自体が倒され、破壊されていた。
傍らには、まだ小学生にしか見えない少女が立つ。必死の形相を浮かべ、兄たちを睨んでいた。
◇
お姉ちゃんの体がおかしくなり始めると、わたしの頭に何かが流れ込んできた。車の中に居るわたし。前の席に居るお父さんとお母さん。目の前に突っ込んできた車。衝撃。体中の激しい痛み。そして、お姉ちゃん?
なにか起きている。それしかわからない。お姉ちゃんは苦しそうだったけれど、わたしは動ける。それどころか、いつもよりは動けている。
おかしなことはたくさんあった。青い光が出たと思ったら、お家の中が急に暑くなった。夜だからそこまで不快ではないけれど、寝苦しくはなりそうな暑さだった。それに、家が少しだけボロくなったようにも見える。
家中を歩き回ってみると、どこもかしこもが古くなっている。わたしとお姉ちゃんが住んでいたピカピカの木造の家が嘘みたいだ。でも、今日作ったガトーショコラや、お姉ちゃんが買ってきてくれた覚えがあるもの、遊び道具なんかは、そのままだった。
外でお姉ちゃんが戦っている。それなら、わたしはお姉ちゃんを守るだけだ。たとえお姉ちゃんが、どんな姿をしていても。話は、それからすればいい。
家を囲んでいる人達と、その後ろにある大きな火。あれがなにかを起こしているのはすぐにわかった。でも、わたしじゃ人の方はどうにもならない。
火を消す時は、大きな布を被せてバタバタすればいい。前にテレビで見た。いつもお姉ちゃんが出し入れしているお布団を押し入れから引っ張り出す。思っていたよりかさばるけれど、持てないことはない。今日はわたしが、全部やらなきゃいけない。
家をこっそり抜け出して、車の後ろに回り込む。意外と見つからずにすんなり行けた。そして、お姉ちゃんが気を引いている間に、火を焚いている壇に布団を覆い被せて蹴りつけた。布団は燃えてしまったけれど、壇は壊すことができた。
目一杯息を吸い込んで、声を張り上げる。
「お姉ちゃんをいじめるな!」
この場に居る全員が、わたしに目を向けてきた。遠くに居る人達もこっちを向いている。緊張で手が震える。でも、わたしが言いたいことは、一つだけだ。ハッキリしているから、戸惑うことなんてない。
「お姉ちゃんをっ! いじめるなっ!」
すると、髪の長いお兄さんが歩いてきた。初めて見るような怖い目──いや、初めてじゃない。これは、お父さんの顔? 記憶の中のお父さんが、わたしを怒っている。それを、お母さんが止めようとして。
次の瞬間にわたしが見たのは、長髪のお兄さんを追い抜いて飛び込んでくるお姉ちゃんの姿だった。黒い羽を羽ばたかせて飛び、わたしを抱き上げて夜の空へと一直線に向かう。わたしたちの住む家が遠のいて、木々が、そしてわたしの知らない町が、どんどん遠い景色に変わる。空の上は妙に涼しくて、薄着のわたしでは寒いくらいだ。
「ごめんね」
空の上で、お姉ちゃんはまずわたしに謝った。なにを謝っているんだろう。
「……嘘、ついてたの?」
「ごめんね」
「それ以外言えないの」
「……」
「嘘つかないって言ったのに……お姉ちゃんのこと、嫌いになるよ」
それでも、お姉ちゃんは苦しそうに顔をそらして、何も語ろうとしない。
「……お姉ちゃんなんて、だいっきらい!」
わたしが叫ぶと、お姉ちゃんはもっと大きくて、苦しそうな叫びを上げて──わたしを、手放した。同時に、お姉ちゃんの姿は夜空に消えていった。
「えっ……うひゃあああああぁぁぁぁああああっ!」
スカイダイビング。ただし、パラシュートもなにもなし。すさまじい風が吹き付けて、地面がどんどん近づいてくる。このまま落ちたらどうなるか。考えることも出来ない。目をつぶってしまう。痛いのは嫌だ。痛いのは嫌だ。
「お姉ちゃん──」
ふわりと、なにかに包まれた。落ちていく感覚も消えていく。もう落ちていないかな、と目を開くと、わたしの顔にお兄さんの髪がかかる。長い髪のお兄さんが、わたしを受け止めてくれたみたいだ。
「あ、ありが」
「弟が、命をかけて戦っていた」
「へっ?」
わたしを地面に下ろしてから、お兄さんはゆっくりと喋り始める。
「あの後、万一あの爪で刺されていれば、弟は一溜まりもなかったろう。それを、貴様は」
震える声で、お兄さんは言う。この人が怒っていることは、わたしにもわかる。
「え、えと……」
「兄ちゃん、過ぎたことはいいだろ。それに、子供だ」
金髪のお兄さんが寄ってきた。日本刀は鞘に収まっていて、新しいメガネをかけている。
「子供だから殺人を許すのか」
「そういう、倫理? みてーな話はよそでやってくれ。でも、俺は今生きてる。とりあえず、それでチャラにしてやんねえか、兄ちゃん」
困ったように眉をハの字にしている金髪のお兄さん。いい不審者。なるほど、意外といい人なのかもしれない。わたしの方に歩いてきて、しゃがみ込んだ。頭の高さが同じになって、目線が合う。
「悪いねお嬢ちゃん、騒がしちまって。けど、俺たちが困ってるように、君も困ってる。そうだろ?」
お兄さんの言う通りだ。あれこれやってはみたけど、わたしには何が何だかわかってもいないし、どうすればいいかもわからないまま。
「わかる範囲でいい。なにがあったか、教えてくんねえか」
とにかく喋れることを喋ってみることにした。お姉ちゃんと二人で暮らしていたこと。両親はわたしを置いていったこと。二人ぐらしが、楽しかったこと。そして、今日のこと。
「……たぶん、わたしのお父さんとお母さんは、交通事故で、もう居ない。わたしも、事故に巻き込まれて、そこに、お姉ちゃんが来て。これが本当のことなのかは、わかんない。でも、お姉ちゃんが変になったとき、思い出したみたいになったの」
「幻術だな」
髪の長いお兄さんが喋りだした。この人が喋り出すと、ちょっとビクっとしてしまう。
「正体を見せた途端に変化した家。元に戻った記憶。エンプーサは幻術を使う。おそらくこの娘に都合の良い幻術をかけて縛り付け、養分となる血を摂っていたのだろう。データ通りなら、度々悪夢にもうなされた筈だ」
「落ち着いたかい、兄ちゃん」
「ああ。だが、手間が増えたのは事実だ」
流し目で睨んでくる長髪のお兄さん。なにも、言えない。
──ごめんね。
その時、声が聞こえた。木々の隙間。その奥に、身を縮めてこっちを見つめるお姉ちゃんが居た。わたしと目が合うと、すぐに背を向けて去ろうとする。
「待ってお姉ちゃんっ!」
お姉ちゃんはわたしから離れようと歩いていく。でも、その足取りはゆっくりだ。走れば追いつける。体が弱くて、ずっと走ったりしてこなかった。苦しい。木々の間を走っていたら、木の根につまづいて転んでしまう。
すると、お姉ちゃんは振り向いた。心配そうに、こちらを見下ろしている。
「……わたしは、大丈夫だから」
膝や腕をすりむいてしまった。顔もぶつけてしまって、鼻から血が垂れてくる。痛い。
でも、立ち上がらなきゃ、お姉ちゃんは追いかけられない。
結局お姉ちゃんは体までこっちに向けて、わたしを手伝おうと寄ってくる。でも、わたしは、一人で立ち上がって、お姉ちゃんに飛びかかった。
お姉ちゃんは手に生えた鋭い爪をどこかにしまい込んで、わたしをきゅっと抱きしめてくれる。この抱きしめ方は、やっぱりお姉ちゃんだ。
「どうして、嘘ついたの」
そう問いかけると、お姉ちゃんはわたしを手放して、背を向けた。目を合わせたくないようだ。
「……退魔師に追われて、私はこの国に逃げてきた。そこで、事故にあったあなたを偶然見つけてしまったの。あなたはまだ若い。親を失ってしまったら、きっと絶望してしまう。もしかしたら、立ち直れないかもしれない。
それに……私と同じだと、思ったの。生きているだけで害される怪異。なにも罪がないのに事故に巻き込まれたあなた。こんな理不尽な世界が、嫌になった。だったら、私たちだけの世界があればいい。そう思った。私があなたの欠落を、あなたが私の欠落を埋める。それだけで成立する世界を。だから、警察が来る前に、すなおちゃんをさらうことにした」
正直、わたしには、お姉ちゃんの言っていることは全部わからなかった。
「でも、この姿のままじゃいられない。だから、人間の女性の姿を取った」
「どうして?」
「だって、純粋なあなたの美しさを見ていたら、この継ぎ接ぎだらけのような醜い体が嫌になった。こんなんじゃ家事もままならないし、一緒にお風呂だって入れない。そんなのは、すなおちゃんだって嫌でしょう?」
たしかに、それは嫌だ。でも、わたしが聞きたいのは、そうじゃない。
「わたしとお姉ちゃんが過ごした時間も、全部嘘なの?」
「違う!」
わたしに対してお姉ちゃんが声を張り上げたのは、これが初めてだった。
「違う、嘘じゃない。あなたとの日々は大切だった。でも、私は悪口や罵倒が苦手。信頼してる人からのそれほど、私を害する……きっとすなおちゃんに言われたら、すべての幻術が解けてしまう。それはなにより避けなきゃいけないことだから、必要以上にあなたのことを甘やかしてきた。それは、認める。ああ……そういう意味では、偽物だったのかも──」
「……本物だよ」
お姉ちゃんが、少しだけ顔を振り向かせた。行かせちゃいけない。張り上げた声がお姉ちゃんを振り向かせるなら、わたしは、想いのたけを叫ぶしかない。
「たしかに、色んなものが偽物だったかもしれない。でも、一緒に作ったガトーショコラは残ってた。一緒に片付けたお皿は棚にあったし、一緒に使ったお風呂の道具はそのままだった。他にも、他にも……とにかく! わたしとお姉ちゃんが過ごした時間は本物だよ!」
「すなおちゃん……」
「それを偽物なんて言うなら、それがたとえお姉ちゃんでも、許さない!」
言い過ぎだ。そうとわかっていて、あえて言った。お姉ちゃんの体からするすると力が抜けて、へたりこんでしまう。わたしと、目線が合う。
「綺麗だよ、お姉ちゃんは」
金色に輝く脚。つやめく鉤爪。鮮やかな黒の翼。どれも、わたしの知っているお姉ちゃんらしくはないかもしれない。でも、一つ一つは綺麗で、綺麗なお姉ちゃんと合わされば、とても綺麗に映る。
「みにくいなんて、言っちゃやだよ」
「……ありがとう」
お姉ちゃんの瞳から、涙がひとしずく。それを、指でぬぐい取る。すると、お姉ちゃんの手がわたしの頬に伸びてきて、わたしの涙を拭っていた。
「ねえ、お姉ちゃん──もう一度、飛びたいな」
「うん、一緒に。今度は、離さない」
わたしをきゅっと抱き上げて、お姉ちゃんは、月の輝く空へと舞い上がった。
◇
「理解できん」
空を舞う、怪異と少女。その光景を見つめながら、兄は呟いた。兄弟の周囲で、部下の陰陽師たちが今後の対応を求める視線を彼らに浴びせている。
「兄ちゃんは頑固だなあ。伝統がなんだか知らんけど、この髪も切りゃいいのに」
兄の長い髪をくるくるいじくりながら、弟がけたけた笑う。
「うるさい、それだけは譲れん」
「そうかいそうかい。俺は、ちょっぴりだけわかるよ。あの二人のこと」
弟はメガネを外し、空を見やる。彼の視界では、少女が一人で空を飛んでいるように見えている。
「俺はこんなんだから、兄ちゃんがいなくなったら困るし……嫌だ。それだけは、わかる」
「なるほど、な」
異形の怪異と、年端も行かない少女。あり得てはならない組み合わせ。それが世界のルールであり、あれを失くすことが、機関により取り決められた彼らの使命。
「……魔を退治するだけが、退魔ではないのかもしれんな」
幸せそうに笑みを交わし合う二人に、怪異や魔という概念をあてがうことは、兄にも出来そうになかった。
〈おわり〉
お姉ちゃんはいつも優しい いかろす @ikarosu000
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