9(……)
神様の持っているダイヤルが狂ったような、涼しい日が続いていた。本格的な夏まではまだ一足ほどは早かったが、それでも世界が不治の病に冒されてしまったみたいでもある。もっとも、大抵の人はそれを歓迎してはいたが。
その日、康平はいつものように月釦書肆の読書スペースで本を読んでいた。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。相変わらず、客はいない。空白の質が高くて、本を読むには最適の静けさだった。テーブルにはサービスのコーヒーが乗っている。
カウンターでは、キヨコさんが収支表に光熱費や水道代、食費、その他の雑費について書きこんでいた。ぱちぱちと電卓を叩く音が聞こえる。
カンパネルラがいなくなって、ジョバンニが鉄砲玉のように立ちあがったところで、康平は本を閉じた。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
と、康平は声だけでキヨコさんに質問した。
「いいよ」
「叔父さんを殺したのは、俺が課題の再提出を言いに来たときのことですか?」
キヨコさんは電卓を叩く手をとめる。
「……何のこと?」
「だから、キヨコさんが叔父さんを殺したときのことです」
キヨコさんは康平を見た。康平は軽くコーヒーに口をつけて、わざとなのかそちらを見ようとはしない。
「よくわからないけど、君、わりとめちゃくちゃなこと言ってるよ」
「俺もそう思います。でも、事実でしょ?」
キヨコさんは首を振った。
「わからないな、何でいきなりそんな話になったのか」
「例のパトカー、ええと、キヨコさんが夢を見てて、俺にいろいろ話してくれたあの日の夜、街を走ってたパトカーのことです」
「そのパトカーが、どうかした?」
「最近、事件があったらしいですね。で、ちょっと調べてみました。この辺で、禾原
「その人がわたしの叔父さんだという根拠は?」
「残念ながら、名前しかありません。でも調べれば、それはすぐわかることですよね。ここでは、その人がキヨコさんの叔父さんという前提で話をすすめます」
ご自由に、という顔をキヨコさんはする。ずいぶん、落ち着いていた。
「とりあえず、俺が禾原信治さんを見かけたのは二回。最初は、店内でコーヒーを飲んでたとき。二度目は、アーケードですれ違ったときのことです。どっちもコーヒーを飲んでましたね」
「そうだね。叔父さんはコーヒーが好きだから、いつも出すようにしてる」
「で、本来なら俺は、もう一度その人に会ってるはずでした。それが、課題の再提出を言いに来た日のことです。本当なら俺はもう一度、その人に会ってたはずなんです」
「…………」
「あの日、このテーブルにはやっぱりコーヒーが出てました。半分だけ残って、まだ熱いようでした。そのコーヒーを飲んでた人は、直前までここにいたんでしょうね。ところが、俺は店の中でも外でも、その人には会っていないんです」
普通なら、それは気にしなくてもいいはずのことだった。それくらいの偶然なんて、いくらでもある。
だがこの状況下では、それで片づけるわけにはいかないことだった。
「君の言っていることは、いくらかおかしいよ」
キヨコさんは動揺した様子もなく、冷静に指摘した。
「まず、その時店に来ていたのがわたしの叔父さんだとはかぎらない点。それから、必ずしも君が顔をあわせるとはかぎらない点。そもそも、そのコーヒーを飲んでいたのはわたしだったかもしれない」
「この店にお客さんが来ないことは、確認するまでもないことですよね? 近所の人が時々来ますけど、コーヒーを出しているところを見たことはありません。従って、その時店にいたのはキヨコさんの叔父さんで間違いなかった、と俺は思います。少なくとも、そのほうが蓋然性は高い」
「二つめの点は?」
「コーヒーは明らかに飲みかけでした。急用ができたにしては、タイミング的に俺が見かけなかったというのはおかしい。現に、俺は一度すれ違っています。帰り道がいっしょなら、同じ状況が生まれてたはずです」
「別の道で帰ったのかも」
「可能性はありますけど、ここでは不問にしておきます。どっちにしろ、この辺のことはたいした問題じゃありません。三点目については、あえて反証するまでもないですよね?」
「まあ、そうかな」
キヨコさん自身はコーヒーを飲まない。
「ここからの状況は、全部俺の想像になります」
康平は手を組んで、コーヒーだけを見ながらしゃべり続けた。
「あの時、キヨコさんの叔父さんがこの店に来ていた。キヨコさんは何らかの方法でその人を気絶させるか、殺害した。現場に争ったあとがないのは、何か薬物を使ったのかも。コーヒーに入れて。だから半分しか減っていなかったのかもしれませんね」
反論はなく、康平は話を進めた。
「キヨコさんはいったん、彼の死体を店の奥に隠した。俺が来たのは、この時点でしょうね。キヨコさんは、どうしようか考えていたときかもしれません。でも結局、俺は異変には気づかず、そのまま帰っていった。
――次にキヨコさんがやったのは、死体の隠蔽です。人に見つからないように、それを処理してしまうこと。まあ、当然ですよね。そしてキヨコさんが思いついたのは、ばらばらにして山に埋めてしまうことだった。そうですよね?」
「どうかな」
「俺がそう思うのは、もちろん例のストレス解消法のことです。バケツに詰めこまれた石の下に何があったのか、俺は確認してません。手伝おうとしたら、触らせてももらえなかった。それにあの時、キヨコさんは香水をつけてましたよね」
「…………」
「普段、キヨコさんは香水はしない人です。それがあの時だけは、していた。ばらばらにした死体はビニール袋か何かに入れてたんでしょうけど、臭いがするかもしれない。それをごまかすために、香水をつけた」
「ずいぶん細かいところまで覚えてるんだね」
キヨコさんの口調に変化はない。
「……何故、殺したんですか?」
康平はようやく、彼女のほうを向いた。
「埋めた大体の場所はわかってます。警察に言えば、調べてくれるでしょうね。それで謎なんて一つもなく、事実は明らかになります」
「…………」
「どうして、殺すなんて」
――まるで何かの蓋をそっと開けるみたいに、彼女は言った。
「うちの本屋って、借金があったんだ」
淡々と、独り言でもつぶやくみたいな口調で言う。
「母親が病気をしたときに、いろいろ費用がかかったんだって。それが払えなくて、お父さんは叔父さんにお金を借りたの。そのお金の担保に当てられたのが、この本屋なんだよね」
キヨコさんはまるで、他人事みたいに話を続ける。
「叔父さんは地元の政治家の後援会をやってて、選挙事務所か何かでこの店を使いたかったみたい。借金もなくなるうえに、十分なお金も払うからって。わたしにはお店をやめろって言うの。わたしは嫌だって断わったんだけど、権利書自体は叔父さんが持ってるから、最終的なところではどうしようもなかった」
「だから、ですか?」
この店を守るために、殺した。
「……たぶん、そういうことになるんだと思う」
キヨコさんは否定しなかった。康平はどんな顔をしていいいかわからないまま、それでも言う。
「でも、何も殺すだなんてしなくても、もっと別の方法があったんじゃ――」
「――違う、わたしにはそうするしかなかったの!」
キヨコさんは激しく首を振った。子供がいなやをするみたいに。
「あの人はね、こんな店あってもなくてもいっしょだって言うの。お客さんは来ないし、本も売れないから。ただそこにあるだけで、何の意味もないって。――〝わからない〟って言うんだ。この店が何のためにあるのか、わからないって。こんな店、後生大事に守っていく必要なんてないって」
「…………」
叔父さんはおそらく、親切心から本心を口にしたのだろう。キヨコさんを、親の衣鉢を守ろうとする健気な娘か何かと想像して。
確かに、普通に考えればこの本屋は特殊だった。特殊すぎて、そもそも本屋と呼べるかどうかすら怪しい。誰かのために存在しているとはいえないし、なくなっても誰も困らない。少なくとも、商売をしているとはいえない。
けれど、そこには――
「わたしはだから、どうしようもないって思った。叔父さんには、本当にわからないんだって。ここがどれだけ大切で、大事な場所かわからないんだって。でもそれが、普通なんだと思う。そのほうが正しいし、まともなんだと思う。でもね――」
キヨコさんは無理に笑おうとして、でもそれができない顔で康平のことを見た。
「ここは、わたしのすべてなんだ。わたしはここが好きで、世界でここくらいしか好きな場所がない。ここがなくなったら、わたしはどこに行けばいいの? どこにいればいいの? ――でも、それがわからないって言うんだよ。そんなの無意味だって言うんだよ。わたしは、どうしたらよかったのかな?」
表情を歪ませて、彼女は言った。どこか知らない遠くの街で、迷子になった子供みたいに。
「ねえ、康平くん。わたし、どうしたらよかったのかな――?」
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