6(世界は一冊の本)

 ある日のことだった。

 康平は飲み会の帰りで、少し時間が遅かった。映画研究会の撮影終了打ち上げで、十分ほどの自作ショートフィルムを見ながらボックスで酒を飲んでいた。

 作品はたいして面白くないはずなのだが、アルコールには批判能力を低下させる効能がある。「ひでーな」と言いながら、みんなでげらげら笑っていた。康平もつられるように笑っていた。ただ、そこまで酔ってはいない。冷蔵庫の二代目大吟醸のおかげかもしれない。

 適当に片づけが終わったあと、酔いつぶれた数人を残して電車に乗った。もう夜中でもずいぶん気温が上がって、放置されて風邪をひくほどではない。

 街を歩いていると、遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。どこかで事件でもあったのかもしれない。商店街のアーケードは暗く、砂漠の夜を思わせるくらいにひっそりとしていた。

 ――家の前まで帰ってきて、康平はふと足をとめる。

 珍しく、月釦書肆に電気が灯っていた。

 実質的にはあってないような営業時間だが、こんな時間まで明かりがついているのは珍しい。キヨコさんは早寝早起きが信条の人である。

 ガラス扉の向こうから、照明の明かりが漏れていた。

 いつものように本棚があって、その明かりは人間のためというより、眠ったままの本たちのためにあるようにも思える。

 康平はそっと、ガラス扉を開けた。

 カウンターのところでは、キヨコさんが眠っていた。組んだ腕に頭を乗せて、積もった雪のようにそっと目を閉じている。何となくそこには、一人だけ旅行に置いていかれた子供みたいな寂しさがあった。

 気配に気づいたのか、キヨコさんは静かに顔をあげる。体に覆いかぶさっていた質量のない何かをそっと滑りおとすような、そんな動きだった。

「今ね、夢を見てたんだ」

 キヨコさんはつぶやくように、ぽつりと言う。今にも切れそうな糸を、そっと手繰りよせるような声で。

「……どんな夢ですか?」

 康平が訊くと、彼女はどこか重さというもののない、不思議な声で言った。「――お父さんの夢」

「お父さん、ですか?」

「そう――」

 言ったきり、ぼんやりと店内を見つめている。その瞳に何が映っているのか、康平にはわからなかった。

「これ、話してないよね?」

「何の話かわからないですけど、たぶんそうですね」

 同意すると、キヨコさんは「――うむ」とうなずいた。

「うちの本屋って、わたしのお父さんがはじめたんだよね」

「はじめたって、開業したってことですか?」

「うん――」

 相変わらず、キヨコさんの視点は定まらない。

「何でも、お父さんのお父さん――つまり、わたしのお祖父さんにお金を出してもらって、店を開いたらしいんだよね。お祖父さんはけっこうなお金持ちだったみたい」

「そのお祖父さん、今はどうしてるんです?」

「だいぶ前に亡くなってる。まだわたしが生まれる前」

「店は、どうだったんですか? 儲かってたとか?」

 彼女は力なく首を振った。

「全然、だめだったみたい」

「今と同じで?」

「そう、今と同じで」

 キヨコさんは軽く笑った。聞きようによっては、かなり失礼な発言ではあったけれど。

「お父さんもわたしと同じで、好きな本しか店に置かなかったんだよね。それでも、今よりは多少、儲かってたみたいだけど。たまに本が売れると、よくお菓子とか買ってくれたな」

「生活はどうしてたんです?」

 収入がなければ、人が生活していくことなんてできはしない。とはいえ、キヨコさんを見るかぎり、食うや食わずの極貧生活を送っていたようには見えなかった。今だって、売れない本屋を続けているのだから。

「大体は、お祖父さんに頼ってたみたい。その辺はよくわからないけど、この本屋は完全な道楽だって言ってた。それをお祖父さんが許した、というところかな。お父さんはお祖父さんに可愛がられてたのかもしれない」

「道楽、ですか」

 それが今のキヨコさんにも続いている、というわけだった。

「そう……子供のわたしから見ても、変な人だったな。よくいっしょに散歩しててね、言うんだよ、『世界は一冊の本』だって」

「一冊の本?」

「この世界に本でないものはない。太陽の光も、蜂の羽音も、花の開く一瞬も、あの女の子の笑い声も、みんな一冊の本だって」

「へえ」

「まあ、これは長田弘の詩のものまねなんだけど」

 彼女はそう言って、くすくす笑う。盗用に気づいたときの、驚きとか呆れた気持ちを思い出しているのかもしれない。

「とにかく、その手の引用がやたらに好きな人だったんだな。で、子供だったわたしは、素直にそれに感心してるの。手品師のタネに気づかずに、びっくりするみたいに」

「いいお父さんだったんですね」

「たぶん、そうだと思う。わたしはどうやっても、あの人を恨むような気持ちにはなれないだろうな」

 やはり、キヨコさんはくすくす笑う。

「今、お父さんはどうしてるんですか?」

「……死んじゃった」

 康平はちょっと言葉に詰まった。

「一昨年のことなんだけどね。脳卒中。気づいたら死んでたって感じだった。体はどこも悪くなかったんだけど。人間て、本当にわからないよね」

「…………」

「お母さんのほうは、もうずっと前に死んでる。わたしが五歳くらいの時、だったかな? 黒い服を着た人がいっぱい集まって、正座してたことしか覚えてないな。今は、お父さんが同じ墓に入ってるけど」

「そう、ですか」

 康平が言葉に困っていると、キヨコさんは言った。

「モーツァルトの悲しさは疾走するんだよ」

「……は?」

 いきなり、意味がわからない。

「涙は追いつけないの。小林秀雄が言ってた」

 康平はため息をついた。

「キヨコさんは、確かにお父さんの子供みたいですね」

「わたしもそう思うよ」

 彼女は満足げににっこりした。

「ところで、月釦書肆って名前をつけたのも、実はお父さんなんだよね」

「月の、ボタン、ですよね?」

「そう――」

 うなずいて、キヨコさんは言う。

「中原中也の詩に、こんなのがあるんだ。月夜の晩、波打ち際にボタンが一つ落ちていた。それを拾って、それをどうにかしようと思ったわけじゃないけど、でも捨てられない。月夜の晩に拾ったボタンは、どうして捨てられようか、ってそんな詩」

「だから、月釦書肆ですか」

「うん」

 そう言って、彼女は少し疲れたようにうつむく。康平は訊いてみた。

「……お父さんがいなくなって、やっぱり寂しいですか?」

「まあね」

 逆らうこともなく、キヨコさんはうなずいた。そして誰にとでもいうふうではなく、そっとつぶやく。

「でもね、わたしは大丈夫。この場所があるから、わたしは大丈夫なんだ――」

 明るい光に包まれた店の外には、宇宙にぽっかり空いた大きな穴みたいな、底のない暗闇がはりついていた。

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