3(引力を測る)

 月釦書肆は変わった本屋だ。

 まず、客が来ない。

 正確に言うと、客は来ない。とはいえその差は、太陽と比較したときの地球と火星の大きさくらいの、ごく微量なものでしかない。

 店内にはカウンターの近くに、読書スペースとしてテーブルとイスが置いてあって、康平はよくそこに座っていたが、ごくたまに近所の人が来るほかは、客の姿を見たことがなかった。近所の人が来るのは、大抵は本とは関係のない別の用事である。そんなのは、客とは呼べない。

 要するに、ここには本を買う人間は来ないのだ。本屋であるにもかかわらず。

 それにもう一つ、ここが変わっているのは雑誌の類が置かれていないことだった。

 より正確には、雑誌だけでなく、キヨコさんの選んだ本以外は置かれていない。普通、書店というのは取次からパッケージングして配送されてきた書籍を並べるのだが、ここではそれをしていない。本の入荷は、キヨコさん個人が直接行っている。

 おかげで、この本屋には新刊書が並ぶことはなく、普通の書店で見かけるように人気の本が平積みにされることもなく、出版元から提供された宣伝用のポップが飾られることもない。

 あるのはただ、キヨコさんが実際に読んで、本棚に並べたいと思ったものだけだった。

 極端なことを言うと、ここではキヨコさんの書棚そのものが売られているのである。とはいえ、

「ここ、趣味が偏ってますよね……」

 と康平は言わざるをえない。本棚を眺めていると、見たことのない本から、見たことしかない本まで、どれもひどく無秩序に並んでいた。普通の本屋で見かける棚とは、だいぶ印象が違う。

「え、そう?」

 キヨコさんはカウンターで読んでいた本から顔を上げ、訊き返した。より正確には、入荷すべき本の選定作業から、というべきなのかもしれない。

「そりゃそうですよ」

 書棚の前に立って、背表紙を目で追いながら康平は答える。

「だって、マンガがないじゃないですか」

「ライトノベルならあるよ」

「書店で一番利益があがるのって、やっぱりマンガじゃないんですか?」

「うちは本屋だから」

 それで説明は十分だというような、キヨコさんの口調だった。

「けど、それじゃ経営が……」

 反論しようとすると、

「わたしはわたしの置きたいものを、ここに並べてる」

 異論をさしはさませないような、そんな口調だった。

「それ以外のものは、ここには必要ない」

 ……これで、客の来るはずがない。

 康平は何か言おうとしたが、結局やめておいた。この店は、彼女のものだ。そこで何をどうしようと、それは彼女の勝手だった。部外者が口出しすべきことじゃない。

 それに何を言ったところで、キヨコさんがそれを聞くとは思えなかった。流れ星の軌道を変えようとするくらい、それは無益な行為でしかない。


 ある日、康平が大学帰りによってみると、店内には珍しく人の姿があった。

 その誰かは壁際の読書スペースに座って、テーブルに置かれたコーヒーを飲んでいる。かなりの年配で、初老、というところだろう。テーブルの向かい側にはキヨコさんが座って、二人で何か話でもしているようだった。

 康平が入ってくると、初老の男はキヨコさんに軽く頭を下げて立ちあがる。すれ違うとき、康平にも軽く会釈をしていった。

 客かと思ったが、どうも違うらしい。取引先の相手か何かだろうか、と康平は思う。

「今の人、誰ですか?」

 テーブルのコーヒーを片づけるキヨコさんに向かって、康平は訊いてみた。

「わたしの叔父さん」

 と、彼女は短く答える。やはり、この店に普通の客が来ることはないらしい。

「何か用事だったんですか?」

「まあ、そんなとこ」

 キヨコさんは曖昧だった。

 コーヒーカップを運んでいく途中で、彼女は不意に言った。

「昔ね、地球の重さを量ろうとした人がいたんだって。正確には、その比重を」

「地球の、ですか?」

 康平は訊き返す。急に規模の大きな話になった。

「そう――」

 地球の大きさを推定した人間が古代ギリシャにいたことなら知っているが、地球の重さ? 第一、そんなものどうやって量るんだろう。

「十八世紀かな、キャヴェンディッシュって人がいてね。この人のことは、『銀の匙』の中勘助が詩に書いたりもしてるんだよ」

 彼女はいったんカウンターにコーヒーカップを置いた。カップの中身はほぼ空になっている。

「その人は何でもかんでも正確じゃないと気のすまない人だったの。そういうことに関しては妥協しない人だった。いろんな物理定数を正しい実験で求めたりしてね」

「へえ」

 康平としては、そんなものは覚えるだけで手一杯ではある。

「そんな人だけに、まわりの人とはあんまりうまくいかなかったみたい。決まった時間に散歩したり食事したりしないと、落ち着かない人だったらしくて。近所の村人は、それを時計代わりにしてたんだってさ」

「難儀な性格ですね」

 何となく、状況が想像できた。

「で、彼がどうやって地球の重さを量ったかというと、引力の強さを測定したの」

「引力っていうと、あれですか例のリンゴの」

「まあ、あれは妹の作り話らしいけど」

「そうなんですか?」

「引力の正しい数値がわかると、ニュートンの方程式から地球の重さを割りだせるらしいんだな。まあその辺はわたしもよくわかんないんだけど。要するに、重さのわかってるものの引力がわかれば、そこから地球の重さを逆算できる、ということかな」

 地球がリンゴを引っぱるように、リンゴも地球を引っぱっている。そしてニュートンに齧られるリンゴどうしも、やはり引っぱりあっている。

 ごくごく、弱い力ながら。

「そんなの、測れるんですか?」

「測れるらしいんだな、これが」

 何故か、してやったりというふうな笑顔を浮かべるキヨコさん。

「できるだけ外部の影響を減らして、正しく動く装置を作るの。それこそ気の遠くなるくらいうんざりする要因の一つ一つを考慮してね。風や熱は言うにおよばず、自分の引力の影響があるかもしれないって、遠くから実験装置を観察できるようにしたりして」

「几帳面にもほどがありますね……」

「でもそうやって、彼は結局地球の重さを量った。それも、ほぼ正しい数値でね」

 キヨコさんはあまり一般的とは言えないその科学者よりも、よほど得意そうな顔で嬉しそうに言った。

「ちょっとすごいと思わないかな、これ?」

「思いますね、かなり」

「ちなみに、その本はそこの棚にあるから」

 キヨコさんはそう言って、本棚の一つを指さす。

 ――どうやら今のは、長い宣伝文句だったらしい。

「買ったら、そこで読んでもいいからね」

 キヨコさんは澄ました笑顔でにこりとしてから、カップを片づけに店の奥へと消えていった。

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