2(大学と下宿と釘)
大学受験に一浪で合格した高村康平は、母親の伝手を頼って下宿することにした。
下宿先は大学から電車で二駅ほどの、商店街の裏通り。母親が旅先で知りあったというだけのその人に会うのは、実のところ初めてだった。軽い荷物と菓子折りだけを持って、聞いたこともない駅で電車を降り、母親手描きのわかりづらい地図と住所の数字を頼りに、その人の家を探す。
駅前にあるアーケードの商店街は、昨今の事情を忠実に反映した、うらぶれたものだった。店の多くはシャッターを閉めて、人通りは少ない。歩いていると、そんな商店の数々といっしょに影に飲み込まれてしまいそうで、かなり怖い。
近所の魚屋で道を訊いて、それらしい場所にたどり着く。心の中でいくつかの言葉を用意してから、康平は玄関のチャイムを鳴らした。
商店街の裏通りだけあって、路地はかなり狭く、車一台がようやく通れるくらいの道幅しかない。見上げると、空が変に窮屈だった。物音の気配に視線を巡らすと、猫が平然とした顔で道を横切って歩いている。
「…………」
にしても、遅い――
チャイムを鳴らしてから、すでに五分は経過しているはずだった。康平はもう一度、今度は強めにボタンを押してみる。
途端に、がらがらと音を立てて扉が開いた。
康平が驚くひまもなく、怒鳴り声がそれと同時に降ってきた。扉が開くのとほぼ同時か、それよりも少し早いくらいに。
「わかってるっつうの! ピンポンピンポン、何度も押さなくていいわよ。今、忙しいんだっつうの!」
固まる康平の前で、その人は「ん?」というふうに康平の顔をのぞきこんだ。
「もしかして、君……」
銀色、というしかない
「高村康平くん?」
彼女は両手で康平の頬を挟みこんで、よく見ようというふうにじっくり観察した。そんなことをされなくとも、顔を動かす気にもなれなかっただろうけれど。
「……はひ、ふぁのたまひさんですか?」
康平は押し潰された口で、ようやくそれだけを言った。
「そうそう、たまひさんだよ。たまひさん。あんたのお母さんの知りあいのね」
にっこりしてそう言うと、彼女はようやく両手から解放してくれた。康平は歯を噛みしめて、頬をさする。入念に準備してきたはずの言葉は跡形もなく飛散し、もう何を言おうとしていたかも思い出せない。
それから、彼女はぎょっとするほど顔を近づけると、採集した昆虫でも観察するような露骨さで康平のことを眺めまわした。
「写真で見たとおりの男前じゃない。この前髪、格好いいね。自分で切ったりしてる? あ、寝癖ついてるわよ、ここ」
「あの、えと、母から話は聞いてますよね?」
濁流に逆らうような気持ちで、康平はようやくそれだけを口にする。
「もちろん聞いてますよ。今年からうちに、かわいい男の子が下宿するってことはね」
あまり嬉しい形容ではなかった。
「このたびは無理を聞いてもらって本当にすいません。ご厚意に感謝して、迷惑をかけないように……」
「あら、いいわよ、そんな堅苦しくしないでも」
ようやく思い出した言葉は、あっさりと却下された。
「それより、さっそく家の中を案内するわね。ちょっと今、立てこんでて」
「はぁ」
家の中に案内されると、「ここがあなたの部屋」と言って、二階の一室に通された。畳を敷かれた、電球以外には何もない部屋だった。それから台所や厠、風呂場などを一通り案内される。昭和初期といった感じの建物で、所々にべっとりと時間のしみのようなものがこびりついていた。
各部屋の検分が終わると、居間に戻ってきた。絶滅の危惧されそうな古きよき卓袱台と、使用の危ぶまれるレトロな風あいの電波受像機、それに何故か大量のスーツケースが置かれている。
「さて、これで大体のことはわかったわよね?」
「高校生がアボガドロ定数を理解する程度には」
康平の発言は、細部ごと完全に無視されたらしい。
「実は、一つ言っておかなくちゃならないことがあるんだよね」
と彼女は何故か、少し言いにくそうな口ぶりだった。
「何ですか?」
「私、これから一年間ほどこの家を留守にするから」
「……は?」
何を言われたのか、一瞬わからない。
「今がちょうどいい機会なんだわ、円相場的に。十年に一度、あるかないかだよ。だから悪いけど、あとのことはよろしくね」
手を合わせて合掌する彼女の前で、康平はきょとんとした。
けれどそんな康平とは関わりなく、家の前には車の停まる音がしている。外に出ると、タクシーが停車していた。急かされるままにタクシーの運転手といっしょになってスーツケースを運びだすと、康平一人を置いて、彼女はあっさりと行ってしまった。後部座席から、元気よく手が振られている。
玄関でチャイムを鳴らしてからこの間、十分にも満たない。来て早々、何かがすっかり持ち去られてしまったような気分だった。
「…………」
居間に戻ってみると、持ってきた菓子折りがピンク色の紙に包装されたまま残っていた。その四角い箱が、事態を理解しているようには見えない。あとで自分で食べるしかないだろうな、と康平はため息をついた。
これからの生活を世話してくれるはずの人間は、会って十分もしないうちにいなくなってしまった。誰の家だかもよくわからないこの場所で、たった一人残されたわけである。ロビンソン・クルーソーのようにとまでは言わないが、何とかやっていくしかないんだろう、と康平はやる気のない覚悟を決める。
去り際に、空にしていいからね、と言われた冷蔵庫には、壮麗な書体で名前の書かれた純米大吟醸と、しなびた人参が一本だけ残されていた。
よくわからないスタートを切った新生活でも、はじまったものは仕方がない。四十六億年かかろうと、一週間で済まそうと、世界は現にこうしてここにあるのだ。康平はさっさとこの一人下宿生活に慣れることにした。
物置に自転車を見つけると、軽く修理をしてから近所を一周してみる。公園があって、小学校があって、駅前にはコンビニやパン屋があった。帰る途中でスーパーも見つける。
商店街は相変わらず人出がなかったが、ほかの場所も似たりよったりである。幹線道路だけはひっきりなしに車が走っていたが、どれもこの街に用はないらしく、ただ素通りして別の場所に移動するだけのことだった。
どうやらここは、埋もれた恐竜なみに静かな街らしい。そういえば、山沿いの開けた公園には、無駄に大きな恐竜の模型が置かれていた。
そんなふうにこの街のアウトラインを決めていく一方で、近所の人間とは没交渉だった。
どうやらこの家の主人は旅行で出ずっぱりらしく、ほとんどいないものとして認識されているらしい。康平が暮らすようになっても、にわかには存在を認知されないようだった。長年の習慣が、無意識に行動を決定してしまうみたいに。誰の目にとまることもなく、康平はまるで透明人間にでもなったかのようだった。
そんな状況にも康平は肩をすくめるしかなく、どうすることもできはしない。康平の修得したスキルの中に、それほど立派な交渉術は存在しなかった。それに、現実的にたいして困るわけでもない。
大学がはじまるまでの短い期間、大概は街の散策や日常生活の確立に時間を費やされた。トイレットペーパーを買い、掃除機を引っぱりだし、たまにフライパンや鍋を叩き起こしてまずい飯を作った。醤油だけで味つけされた煮魚は、どこか致死性の病に冒された人間を思わせる、ということに康平は気づく。
入学式の前夜、まだ半分ほどしか整理されていないダンボールから、スーツその他の必要物を取りだした。ネクタイの結びかたにはまだ自信がなかったが、さっさと寝てしまうことにする。あれこれ心配しても仕方がない。脳みそのリソースは限られているのだ。
そう思って就寝した次の日、妙な物音で目が覚めた。妙というのは何だか、板に釘でも打ちつけているような――
すぐ近くの窓を開けると、いかにも下町的に密集した家々の屋根が見える。神様の失敗作、という取りとめのない連想が浮かんだ。音源を探るうち、それがすぐ近くの、隣の庭から聞こえてくることに気づく。
腰の曲がった老人にはちょうどよくても、遊びざかりの子供には狭すぎるであろう、そんな庭だった。その庭で、誰かが十センチ径ほどの角材に釘を打ち込んでいた。
もう一度、言う。
誰かが十センチ径ほどの角材に釘を打ち込んでいた。
康平はとりあえず、時計を確認した。七時少し過ぎ。三十分には、目覚ましが鳴るはずだった。眠れる森の美女も覚醒するほどの強力なやつだ。スイッチを切っておく。
あらためて隣の庭に視線を戻すと、誰かは相変わらず一心不乱に釘を打っていた。金槌を使って、最初にとんとんとん、次にがんがんがん。
見たところ、その人物が何故釘を打ちつけているのかはわからない。康平の狭く浅い見聞によれば、釘とは木材と木材をつなぎあわせるために存在するものだった。決して、角材に意味もなくめりこませるためのものではない。
庭の誰かは一釘打ち終わると、すぐ次の釘にとりかかった。寡聞にしてまだ見たことはないけれど、それが伝説の釘バットを作るため、というなら康平にもまだわかる。それはそれで厄介な別の問題が生じるが、とにかくその行為はどこかへは向かっていることになる。
けれどその誰かが専心しているのは、そんなことではない。
十センチ径ほどの角材に釘を打ち込んでいる。
ただ、それだけだ。
あるいはそれは、何かのアート作品なのかもしれない。〝角材に打ち込まれた釘のコンポジション№4〟――この作品は象徴としての角材に、仮象を意味する釘を打ち込んだ、価値転換的作品である。
「……何のこっちゃ」
思わずつぶやいてからもしばらくのあいだ、康平はその釘打ちパフォーマンスだか、アート作品だかを眺めていた。
少し距離があってわかりづらいが、シルエットからして女性だろう。背中しか見えないが、髪形からもそうらしいとわかる。歳は若そうだ。釘はもう、何本打ち込まれているんだかわからないくらいである。
康平は次第に、それがひどく重要な、何らかの儀式に思えてきた。世界を支える一本の柱を補強するための、非現実的な儀式。
そう思うと、目に見える宙空に釘がささっているような、妙な気分になった。うっかりその釘に触れてしまうと、世界がばらばらに壊れてしまいそうに思える。
それから腹が減っていることに気づいて、康平は朝食をとるために一階に降りた。
ぼんやりするうちに時間が過ぎて、着替えを済ませて支度をする。ネクタイは何とか形だけ整えることができた。首が絞まる。縊死するには便利そうだ。
戸締りをして家を出ると、狭いながらも青空が見えた。四月の空気はまだ少し冷たい。軽く腕をさする。
駅まで向かう途中、隣の庭があったとおぼしき場所を確認してみた。コンクリート塀にそって歩いていくと、アーケードに出て看板がかかっていることに気づく。
「月釦書肆」
読みかたはわからない。
店構えからも、何の業種なのかは見当がつかなかった。ガラス扉には「準備中」の札がかけられ、カーテンが下ろされている。康平はあとで気づくのだが、書肆というのは書店のことだった。月釦は、つまるところ店名。
かといって、それがわかったからといって、その店の印象が変わったとは思えない。まだ営業前とはいえ、少なくともその店は本屋には見えなかった。
じゃあ何に見えるのかと言われると、少し困ってしまう。あえて言うと、せいぜいが小さな喫茶店というところだ。喫茶店にしても少し無理はあるが、それに近い何か、だ。実際、月釦書肆は康平にとって本屋に近い喫茶店だった。
――が、そうなるのはずっとあとのことだ。
この時の康平はただ、首を傾げるだけでその前を素通りした。あの庭で、まだ角材に釘が打ち込まれているかどうかはわからない。何となく、そんな気配だけは伝わってきた。
駅に到着すると、改札で切符を買い、人の少ない電車に揺られて大学に向かう。慣れないスーツ姿のせいで、ひどく落ち着かなかった。自分のことが自分らしく感じられない。
入学式とそれが終わってからの時間、康平は何だかぼんやりしていた。例の角材と釘のことが、何故か頭から離れなかった。あの光景が、思考回路の一つか二つを取りはずしてしまったのかもしれない。
構内をぶらぶらしていると、いつのまにか映画研究会のボックスにいて、昼飯を食いにいくことになっていた。おなじようなスーツ姿の学生が、ほかに二人ほど。勧誘の雨あられを避けるために、一番無難そうなところについていったのかもしれない。
映画に興味があるわけではなかったが、先輩は誰もそんなことは気にせず、気前よく昼飯をおごってくれた。
「好きな映画は?」
と訊かれ、「プレイス・イン・ザ・ハート」と答えると、煙草をすいながら先輩に、何だそりゃ、という顔をされる。〝マトリックス〟とか〝羊たちの沈黙〟とか、そいういう答えを期待されていたらしい。
ただ、クラブの雰囲気はよさそうだし、映画を見て遊んでいるだけみたいだったので、そこに入ることにした。あるいはそれも、脳みその配線がおかしくなっていたせいかもしれない。
――そういえば、どこかで空中の釘に触れたような気が、康平はした。
大学の初日が終わって家に戻ると、何もしていないのにぐったり疲れて横になった。
念のために窓の外を見ると、隣の庭には誰の姿もなく、もちろん釘のささった角材が転がっていることもない。
口笛でうろおぼえの曲を吹いてから、康平は少しだけ眠った。
大学生活がはじまって、康平が単位計算やら受講届けやらを、びっこを引いた犬のような不器用さで何とかこなしていくと、いつのまにか講義がはじまっていた。
板書をただ書き写すだけだった高校の授業と違って最初は戸惑ったが、じきに慣れてくる。掲示板の見方や、休講届けの確認も、すぐに要領を飲み込んだ。百人とは言わないが、友達も何人かできた。
構内をふらふらしていると、ここでは時間の流れが少し違うことに気づく。スケジュールの違う人間が集まって、それが全体の流れを決定している。時間はあっちこっちに引っぱりまわされ、てんでばらばらな使われかたをする。
休憩時間に中庭でぼんやりしていると、きれぎれになった時間の切れはしがそこここに浮かんでいるような気がした。それは小さくなった分、軽くなって、消えやすくなっている。
なし崩し的に入った映画研究会の活動にも、わりと簡単に馴じんだ。
入会の時に説明されたとおり、それはただ映画を見るだけの集まりだった。たまに、放射性元素の半減期なみの気まぐれさで映画撮影を計画することがあって、そんな時には康平も機材運びやらエキストラとして参加することがある。
とはいえ実質は、部室であるボックスでのんべんだらりんとしているのが常だった。たまに飲み会を開くこともあって、康平は何度か酒を飲んだこともあった(まだ二十歳前だったが)。冷蔵庫の大吟醸のおかげか、今のところ飲みすぎで吐くようなことはない。べろべろに酔った友人の世話をしたことならある。
そんなふうに、毎日ぼんやりと電車に乗って通う大学生活は、どうにか軌道に乗りはじめていた。いろいろ問題はあったが、何とか地球まで戻ってきたアポロ13号みたいに。
――ところが、それは幻想だったらしい。
ある日、康平がいつも通りに電車に揺られているときのことだった。
吊り革につかまって、半分眠るように窓の外を眺めていると、河川敷のあたりで見覚えのある人影に気づいた。
その人影は一人で、どういうわけか河原のごみを拾い集めているらしい。ビニール袋を片手に持って、空き缶や汚れた菓子袋をひょいひょいとその中に放りこんでいる。
ボランティア活動だろうか?
平日の昼間に、たった一人で……?
ピクニックにでも出かけるような気軽さで、その人影はごみ拾いをしているように見えた。今日は天気がいいから、ごみ拾いをしよう、と。
しかしそんな理由で、人はごみ拾いをするだろうか?
その人影は相変わらず康平からは背中しか見えなくて、どんな人物なのかはさっぱりわからなかった。顔があるのかどうかさえ、はっきりしない。
電車が川の上を通りすぎてからも、康平は惰性的に窓の外を眺めていた。
宙空のどこかに、釘がささっているような気がした。
それからまたしばらくのあいだは、釘のない日々が続いた。
いろいろなことを習慣的に、自動的に行えるようになってきたある日、康平が一般教養でとっていた文学でレポート課題が出された。指定された本を読んで、感想文を書いてこいというもの。
読書感想文なんていつ以来だろう、と康平は思ったが、ともかくは指定図書を読まなくてはならない。
さっそく、大学の図書館に行ってみると、その本はすでに借りられていた。
仕方ないので購入しようかと思ったとき、ふと例の本屋のことが頭に浮かんだ。書肆というからには、本が置いてあるのだろう。本が置いてあるなら、そこで買えばいい。
講義が終わって電車に乗ると、家のすぐ隣にあるその本屋に立ちよった。
大きな木の看板に、古風な書体で「月釦書肆」と書かれている。ただ、康平はいまだにこの店に人が出入しているところを見たことがなかった。本当に本屋なのかどうかさえ、怪しいところである。
それに、例の釘の女性がここで働いているのかどうかも。
店の正面に窓はなく、中の様子をうかがうことはできなかった。康平は「営業中」のプレートがひどくおざなりに感じられるガラス扉を押すと、思いきって店内に足を入れる。
まず目に入ったのは、当然とはいえ本棚だった。地獄でも異世界でもなく、とりあえずは本屋らしいことにほっとする。それに、内装は意外にきれいだった。古めかしい木の床に、真ん中に二列と、両方の壁に一つずつ本棚が設置されている。照明は明るく、床には塵一つなく、本棚の間隔は狭すぎない。
「――いらっしゃい」
と、不意に声をかけられた。
見ると、右手のほうにカウンターがあって、そこに店主らしい人物が立っている。ぐるっと見渡してみても、ほかに人影らしいものは見えない。康平はもう一度店内を確認してから、その店主らしい人物のところへ向かった。
たぶん、彼女で間違いないだろう。一応、後ろ姿からの印象とは一致する。エプロンをつけて、それまではイスに座って本を読んでいたらしい。もちろん、そばには角材も釘も金槌もない。
その時の康平の印象では、彼女は自分とそう歳が違わないように見えた。けれどあとで知ったところによると、実際には五つほど年上であるらしい。ある種の金属や宝石のように、彼女には時の流れが手を出しかねているようなところがあった。
カウンターの彼女は、どうがんばっても人なつっこいとは言えないながら、失礼にならない程度の自然な笑顔で康平の言葉を待っている。その笑顔は、どこかの小さな箱の中にそっとしまっておきたくなるような種類のものだった。
「えっと、本を探してるんですけど」
康平はできるだけ丁寧に、壊れやすい何かを大切に扱うみたいに訊ねた。どうしてそんな態度になったのかは、自分でもよくわからない。
「どんな本かな?」
訊かれて、康平が本の題名を告げると、「それなら、そこの棚にあるよ」と指さしてくれた。案内するつもりはないらしい。彼女にはサービス業における基本的精神が欠けているようだった。
指定された棚から、少し手間どって目的の本を見つける。ぱらぱらとめくってみた。たいしてページ数のあるものではない。ちなみに、ちゃんと新品だった。
康平はその本を手に持って、カウンターに向かう。
「これ、いい本だよ」
彼女は何か、愛しいものでも眺めるような顔でそうつぶやく。
「新訳のほうだけど、すごくいい本だった」
それから彼女は、その本がいかによい本であるかを滔々と語りだした。語り部である主人公が、いかにして少年と出会い、そして別れていったかを。そこにある悲しみや愛しさを、順序よく教えてくれる。懐中時計を分解して、その一つ一つの部品を説明するような具合に。
彼女はそれだけのことを滞りなくしゃべってしまうと、何事もなかったかのようにレジを動かして言った。博物館にでも収めるか、粗大ごみとして回収してもらったほうがよさそうな、年代物のレジスターだった。
「ちょうど四百円だね」
ちなみに、その本はサン=テグジュペリの『星の王子さま』である。
康平はうなずくと、その本を買って帰った。カバーは断わって。
課題のレポートは、彼女から言われたことを思い出しながら、それをベースにして書きすすめていった。いくつかのことを調べ、本を何度も読み返す。世界で一番、美しくて悲しい風景を眺めながら。
しばらくして戻ってきたレポートには、「A」の評価がつけられていた。
翌日、そのことを告げるために月釦書肆に足を運ぶと、相変わらず客の姿はなく、気配もなく、彼女一人がカウンターの向こうに座っていた。
彼女は康平のことを覚えていた。客が少ないせいだろう。
康平がことの経緯を説明すると、彼女は別に怒りもせず、「それはよかったね」というふうな笑顔を浮かべた。お役に立ててよかった、という程度の。
「実は俺、隣に住んでるんです」
と、康平は言ってみた。
「隣?」
怪訝そうな顔の彼女に、康平は大体の事情をかいつまんで説明する。それは部分的には、少々厄介ではあったが。
「ふうん、お隣さんだったんだ。ごめんね、知らなくて」
「俺、高村と言います」
「光太郎?」
「……いえ、康平ですけど」
「〝こう〟まではあってたね。あ、『智恵子抄』なら、そこにあるよ。佐藤春夫とセットでどう?」
「いや、遠慮しときます……」
「死んだときは、やっぱりレモンを供えて欲しいよね」
「?」
彼女はにっこり笑って言った。大体において、あまり人の話を聞くタイプではないらしい。
「わたしは禾原、禾原熹世子です。この月釦書肆の経営者。よろしくね、康平くん」
「よろしくです、キヨコさん」
概ねそのようにして、康平とキヨコさんのつきあいは始まった。
――最後のついでに康平が、
「そういえば、いつか角材に釘を打ちつけてましたよね。あれって、何なんですか?」
と訊くと、
「ストレス解消」
というのがキヨコさんの答えだった。いつか河原でごみ拾いをしていたのも、同じ理由だという。
どこかの王子さまなら、大人は確かに変わっていると言うんだろうかと、康平はふとそんなことを思ったりしてみた。
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