第41話 白
「……生きてる」
そんな言葉は、真っ白な天井にぶつかって跳ね返ってきた。ものが少ない部屋なのか、少しだけ音が反響しやすいようだった。
なぜ私はここで目を覚ましたのだろう。記憶が曖昧だ。家の天井はこんな感じではなかったし、寝心地も全く違う。最近はソユーズと一緒に暮らし始めたけれど、天井まで変えただろうか。いや、そもそもここはどこなのか。
そこまで考えて、思い出した。
「羽衣! あ痛ぁ!?」
思わず起き上がろうとしたところで、腹部に強烈な痛みが走った。
「痛たたた……っ」
そうだ。羽衣を止めようとして、ケガをしていたんだった。計都はそのことを思い出して、痛みを逃がすかのように必死に呼吸を繰り返した。一瞬辛うじて持ち上がった頭が、ボフンと枕に落ちて埋もれた。そしてここが病室なのだろうということに思い当たる。
「無理しない方がいいわ」
左手からの声。聞き覚えがあった。眠たげにたゆたうアメジストの瞳は、下まぶたが微かに腫れているようだった。
「ソユーズ……」
「無事でよかった」
「……これは無事とは言わないと思うんだけど」
「治るようなケガだっただけマシよ」
「……それもそうね」
彼女はレースカーテンでやわらいだ、優しげな陽光を背負って微笑んだ。降り注ぐ光に照らされて、彼女の白銀の髪が輝く。その光景は、とても、綺麗で。
「……天使みたい」
「え」
「あっ、いやっ、な、なんでもなーー痛っ!」
またしても腹部に激痛が走った。体を起こすことすらままならないだろう。これはしばらく何もできそうになった。しかし痛みのお陰で、いまの発言はなかったことにできるだろう。
「ふふ、天使って。それは褒めてるってことでいいのかしら」
誤魔化せてなかった。
「て、天使じゃなくて死神の間違いだったかも」
「はいはい」
「ああああ……夢なら覚めて」
羞恥心という苦悩に悶える計都を見て、そユーウは口元を隠してくすくすと笑った。
「おまえはやっぱり外道だ、いぶき」
「あなただって今回は協力したじゃない。あなたも外道という道に立っていたのよ、陽咲」
ノックも無しに病室へ入ってきたのはいぶきと火崎だった。
「ガキに殺し合いさせてる間に企業のデータベース漁って情報盗んでくるヤツとは一緒にしてほしくねぇな」
相変わらず火崎はメンチを切っていたが、やはりいぶきは平然と無視していた。
「だいたいコイツだっていつ目が覚めるか分からないんだろ? 労災ってレベルじゃーーって、起きてるじゃねーか!?」
目が覚めたからといって労災であることには変わらない。しかしそんなツッコミを忘れる程度には、火崎の反応は愉快なものだった。計都にとっては、笑ってしまって腹部の傷が痛む程度には。
「目が覚めて安心したわ」
「あの、いぶきさん、羽衣は……?」
「飛天さんはあなたの処置のお陰であなたよりは軽傷よ。ロータスラブを過剰摂取したから、その影響がどの程度か注意が必要だけど……いまは監視付きで家で謹慎させてる」
「そうですか……はぁ、よかった」
「あなたは自分の心配をするべきね。まあ、しばらくゆっくりしていなさい。専属で看病してくれる医師もいるみたいだし」
いぶきはカバンから取り出したタブレットの角でソユーズのことを示した。ソユーズは笑みを浮かべながら満足げにうなずいている。
「薔薇色の入院生活を約束するわ」
「ひぃ……き、期待しとく」
薔薇色の入院生活とはどんなものだろうか。想像もつかなかった。
「それでいぶきさん、そのタブレットは……?」
さきほどちらりと聞こえた、情報を盗んだとはどういうことか。一体何を盗んだというのか。
「百聞は、というやつだから、とりあえず見て。ソユーズさん、不快にさせたらごめんなさい」
「平気です」
「そう」
「?」
ソユーズはもう、それが何かわかっているらしかった。そして、タブレットの上で映像が動き始めた時点で、計都はその意味を悟った。
防犯カメラの映像。どこかの病院に設置されたもののようだった。映像の片隅に表示されている日付は、3年前の冬を示している。
「……」
もう何が起こるのかわかった。
これから上映されるのは悲劇だ。自分や、羽衣や、ソユーズにとっての悪夢だ。
16分割された映像の中段のマス、エレベータホールを撮したカメラがあった。エレベータの扉が開いたと思ったら、男女2人の職員がケースや試験管などが満載されたカートを1台、押しながら出てきた。
そして時を同じくして、エレベータホールへ足早に向かう人影があった。シルバーのハードケースを携えたスーツ姿の男で、営業マンか何かに見える。男はカートに近づくや、試験管をするりと抜き取りそのまま走り出そうとした。
「!」
男性職員は男を引き留めようと手を掴む。そして揉み合いになった瞬間、2人の体が衝突してカートは倒れた。満載されていた試験管やケースはその拍子に壊れ、中身の液体や粉末が床に散らばった。
ニルヴァーナ・ウイルス流出の瞬間だった。
男性職員は女性の職員に何かの指示を出すと、自分は男を追いかけた。そして女性職員はというと、どこかに向かって走り出した。
彼女が向かったのはーーセキュリティールームだった。
茶色がかった長い黒髪をした彼女は、息を切らしながら操作盤を見つめる。そして一瞬だけ躊躇う仕草を見せたあと、意を決したように、バイオハザードマークの描かれたボタンを叩いた。
その後、防犯カメラに映し出された映像は、逃げ場を失った人々が次々と、空調を通じて伝播するニルヴァーナウイルスに感染して発症していく、極楽の蓮池の似姿をした地獄のような光景だった。セキュリティールームにも防犯カメラのモニタがあるのか、駆け込んだ女性は次第に泣き崩れていった。
「……」
映像に動きがなくなってしばらくした頃、防染服を着た人々が病院に踏み込んできた。無事な者がいないか探し回り、ついにセキュリティールームにたどり着いた。
セキュリティールームにいた女性は無事で、人の形を保っている。
しかし、ついさきほどまで茶色がかった黒色をしていた長い髪は、真っ白に脱色されてしまっていた。
はっとして計都はソユーズを見る。彼女のハの字になった眉と、力ない微笑みが痛々しかった。
「これがあの日の真実」
病院を閉鎖しなければ、あるいは病院内の犠牲者はもう少し減ったのかもしれない。ウイルスが流出した場合の手順に従い病院を封鎖したソユーズは、まさにそれを実行した人物として、傷害か何かの罪に問われうるのが法治国家だ。
「ウイルスの奪取を試みたのは、恐らくどこぞのジャンキーでしょうね。そいつも結局病院内で感染して収容されてる」
問題は、その手順を定め、承認した者たちが何の責任も負わず、その罪の全てをソユーズ、ひいては病院とその職員に押し付けたことだ。羽衣が怒り狂っていたのはこのことだった。
「よくこんな映像が残ってたな」
「六光製薬も一枚岩ではないということね」
「反主流派が切り札として持ってたのか」
「おそらく」
いぶきはタブレットの画面の電源を切った。
「これは違法な手段で得た証拠だから、ヤツらを正面から裁くのには使えない。ちゃんと手順を踏んで、正しい方法で改めて手にいれる……まぁ、あとは表の連中にやってもらうわ」
「いぶきさん、私たちが戦ってる時に姿が無いと思ってたら、そんなことしてたんですね」
「部下が殺し合いするまで仲違いさせられて、タダで起き上がれるわけないでしょ」
「!」
「騒ぎでもぬけの空になるなんて、これ以上無い機会だったわ。だから陽咲にも協力してもらった」
「ま、あたしらは飛天に抵抗できなかっただけだがな」
「陽咲」
「あ?」
「ありがと」
「なっ」
互いにまっすぐ眼差した、ストレートな感謝。火崎はボムっと音が聞こえそうなほど、分かりやすく赤面していた。
「ば、ばばばバカやろ! キャラにないことすんなよな! ああもう、調子狂うから帰る! おい離々洲とやら! 早くこの仕事はやめろよな! じゃあな!」
そう言い捨てると、火崎はバタバタと病室を出ていった。
「ふふ、優しいですよねぇ」
「ほんとね。素直じゃないんだから」
「あ、いや、そうではなく」
「?」
「あはは、なんでもないです」
やっぱり、いぶきさんは外道じゃなんかないですよ。
同意を求めるべき相手がいなくなった病室で、計都は内心、火崎に語りかけていた。
だからわかってるっつーの。
そんな答えが聞こえた気がした。
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