第40話 雨の降らない所



「な、にが……ぅっ!?」


 羽衣は胸を押さえる。

「心、臓……?」

 強烈な違和感が彼女の心臓を襲っている。だがその違和感は、やがて心臓から全身に伝播していくことになる。最初にその症状が現れたのは、手先だった。

「え」

 かゆいような、くすぐったいような感覚。彼女は自分の手元を見つめる。

 爪。マニキュアもつけていない素朴な指先だった。なんの変哲もない。

「……?」

 だが、爪はこんなに長かっただろうか。そんなはずはない。爪は努めて短く整えている。だからこんな、5ミリも10ミリも爪が指先から伸び出ているのは異常だ。

「な、何が」

 指先が泡立つ。左手の中指。文字通りブクブクと血の泡が漏れ出し、そして膨れた。固まったと思ったら、ぶよぶよとした赤い肉の塊のようになった。

 おぞましさからとっさに塊を剥がし取る。ジクリとした痛みが肩まで走った。だがその塊が綺麗に剥がれることはなく、粘土のようにべたりと指先に張り付いたままだった。それどころか、剥がしたところからさらに泡が立ち、塊……いや、肉塊が膨れ上がっていく。出来上がった肉塊は先ほどよりも大きくなった。

「何ですか、これ……っ」

 はたと気が付く。肉の塊が右手の指先にもあった。小指、薬指、人差し指。隣り合う薬指と小指は赤い肉がくっついて1つになりそうだった。

「まさか……うあっ!」

 皮膚の下を虫が這うような感じ。

 ぞくりという悪寒が全身を襲い、羽衣は自分の体を両腕で抱きながら床に崩れた。それと同時に別の感覚が床から這い上がってくる。痒いような、熱いような、しかしそれはやがてひりひりとしたものに変わっていった。

「私の胃に、直接ロータスラヴを……あぁ、あああっ」

 全身をかきむしりたくなる不快感、今すぐ全身に水を浴びて洗い流したくなるような灼熱感、水がないなら血で洗いたいとすら思えるうずき……それらはロータスラヴの過剰摂取が引き起こしたの予兆だと、羽衣はおぼろげに理解した。指先にできた肉塊は、ささくれが過剰に治癒したものだった。

「どうなる……のかな……」

 計都は羽衣が取り落とした淡青を拾い上げる。そして湿った夜色をした刀身にじっと視線を澄ました。

「け、ケイ……!」

 羽衣の顔に内出血のように濃い血色が浮き始める。首から這い上がるように、葉脈状に侵食が始まっていた。服の下はもっとひどいことになっているだろう。皮膚の下で細胞が異常に分裂しているのだ。

「過剰に再生した部分は……ガン細胞と同じ……」

 計都の視線が羽衣に移る。羽衣の両目はすでに焦点が合っていなかった。体の痙攣も始まっている。

「切除……する」

 彼女の身体に急速に広がった過剰再生の波は、すでに全身に及んでいた。彼女の肌の見える部分……手や顔は泡立つように膨れ上がり、赤黒く変色している。健康的だった頃の様子はもはや無く、肉体が変形しているといっても過言ではなかった。

「ごめんね、羽衣……痛いだろうけど……」

 切除し、再生を待つ。

 正常に再生しなかったら、また傷つける。。そしてまた再生を待つ。ロータスラヴの効果が切れるまで繰り返す。

「必ず助けるから」

 羽衣にはきっと大変な苦痛を強いる。しかしそれしか方法がない。

 出血はロテートブラッドが抑えてくれるし、死に直結する副作用である心停止も、ロテートブラッドが心臓の動きとは関係なく自転してくれるお陰で何とかなる。酸素の供給だけはケアが必要だが、人工呼吸でもなんでもすれば良い。あとは、羽衣の体力次第だ。

 あとは自分が……彼女を傷つけ続けることはできるだろうか。いや、やるしかない。

 左目のミュオニスに意識を集中する。羽衣をじっと見据えると、少しだけ透視の精度が向上する。人体に本来あるべきもの、無いべきものが見えてくる。

「羽衣……」

 羽衣は肉に埋もれている。赤いぶよぶよとした塊が、ピクピクと痙攣しているだけだ。もはや呻き声を上げることすらない。違う、上げることもできないのか。

「一緒に帰ろう」

 人の形を失いつつある羽衣に、計都は淡青の刃を突き立てた。



「はぁ……はぁ……はぁ……」

 夢中で羽衣を切り裂き続けた。辺りは切除した肉片や得体の知れないブヨブヨした白い塊、ロテートブラッドでも抑え切れずにこぼれ落ちた血液でドロドロだった。計都の手はもちろん、血で滑る淡青の刀身を何度もぬぐった制服も血まみれだ。

 羽衣は人の形を取り戻していた。不要な箇所を切除したり、異常が見られる箇所を傷つけたりした過程で、彼女の衣類はズタズタになってしまっていた。ほぼ裸も同然だった。最初はひどい有り様だったが、今はもう何事もなかったかのようななめらかな肌に血が通っている。

 口元に手をかざして呼吸を確認する。呼吸している。首元に手を当てて脈を確認する。トクン、トクンと確かな鼓動が伝わってきた。

「グ……ごほっ、ゴホッ……!」

「!」

 羽衣が咳き込む。そしてうっすらと目蓋をあげた。しばらくぼぅと天井を眺めたあと、彼女はポツリとこぼした。

「……生きてる」

 自らの生存を確かめるような一言。生きていることに喜びも悲しみもないような、ニュートラルな台詞だった。

「よかった、羽衣……」

「ケイ……」

 計都から思わず笑みがこぼれる。それから涙も。その柔らかな輝きは彼女の頬を伝い、ポタポタと床に滴った。

「……私は、どうすれば良かったんでしょうか」

 沢山の人を傷つけ、多くの悲しみを呼んだ自覚はあった。例えそれがかつての報いを受けさせることが目的であっても、無関係な人々を巻き込み、迷惑をかけたことには代わりない。

「わからない」

 計都は答えた。

 どうするべきだったか。

 何が正しかったのか。

 それは正直、計都にもわからない。あるいは、未来が見えるソユーズであればわかったのかもしれない。しかし彼女も嘯いたように、未来なんて普通は見えはしないのだから。

「でもね、私、思うんだ」

「?」


「誰かを、何かを憎むことは、誰かへの愛の証明なんかじゃない」


「!」

 愛する家族を奪った物と、ウイルスを憎悪すること。憎悪し続けること。その憎悪する感情がより大きいこと。

 それこそが愛する者達への愛の証明。

 そんな風に、計都だって思っていた。

 けれど。

「愛は、ただそれだけでいいんだよ」

 あの子が教えてくれた。

 きっとあの子も、何かの理由でニルヴァーナウイルスに執着していた。きっと恨んでもいる。だけど、それを表立って過ごしているわけではなかった。むしろ彼女は、努めて何かを、誰かを愛し、慈しむように生活しているようだった……とても穏やかな日々に見えた。

「そう、なんでしょうか」

「そうだよ」

「……」

 羽衣はしばらく口を閉ざした。天井を見つめ、頭の中で計都の言葉を噛み砕いているようだった。

「ケイが言うなら、信じてみます。でもその前にやることがあります」

「?」

「罪を償わなくては」

「……そうだね」

「待っていてくれますか」

「んー……あ、じゃあ、終身刑で手を打つっていうのはどう? 」

「はい?」

「だから、終身刑。私とずっと一緒にいるの」

「……私は真面目な話をしてるんですよ」

「私も真剣だよ?」

「……」

「……」

 数瞬の沈黙の後、ぷ、と二人は吹き出した。

「ふっ、あははっ、何ですかこれ、あはははっ」

「ふふふ、でも半分は本気だよ」

「ホントに半分だけですかぁ?」

「もうっ、これ以上は野暮だよ」

「わかってますよ。でも、それにしても……く、あははっ、あ、痛たた」

「あんまり笑わないの。体に刃をいれたことにはかわりないんだから」

「あー可笑しい。愉快です。あははは」

 痛みからか笑みからか、羽衣の目には涙が浮いていた。血とは異なる、透き通った、晴れやかな色合いだった。

「はいはい。じゃあ帰るよ。いぶきさんにお説教してもらーー」

 取り出したスマートフォンを床に落とした。それとほぼ同時に、視野の高さが床と同じ高さになった。体が倒れたらしい。

「ケイ?」

 羽衣が怪訝そうな声を出す。

 大丈夫、大丈夫。

 そう言おうとして声が出ない。

「ケイ!」

 腹部の痛みが戻ってくる。

 そうだ。ロテートブラッドを排出しようとして、自分で斬り裂いたんだった。そんなことをぼんやり思い出す。その間にも大量に血が流れて出ていた。床からじわりと服に染み込む湿り気は、きっと半分くらいが自分の血液によるものだ。

「しっかりしてください! ケイ!」

 羽衣の声が遠くなる。

 暗くなる視界の中、体を無理矢理起こして、必死にこちらに手を伸ばす羽衣の影が見える。その光景だけで、計都はもう満足だった。

 冷たさを感じる。しかし恐ろしくはなかった。静かな水底へ、失われる浮力に任せるまま沈むような感覚だった。

 そしてふと思い当たる。

 ロータスたちが好む水の中。そこに雨は降ったりしない。だとしたら、悲劇の雨も降らないのだろうか。

 ああ、なんだ、こんなに近くにあったのか。あとでソユーズに教えてあげなくては。彼女には今や借りがあるから。良い手土産ができた。

 そう満足して、計都はそっと、意識を手放した。

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