第38話 夜空を塗りつぶすのは


 何が仕切り直しだ。


 計都は内心吐き捨てる。

 こちらはもうボロボロだ。自傷した頬からの出血はまだ止まらない。彼女に殴られた後頭部がズキズキと痛む。体力だって余裕は無い。

「道を譲ってくれるのなら、私はもうケイを傷つけません」

 それはあくまで身体的な意味で。

 ここで羽衣を逃がしたら、計都は心へ傷を負う。そして新たな感染者が出るたびに、その傷は深くなっていく。癒えることもなく、際限なく広がっていき、常に計都をさいなむのだ。

「……」

「ダメみたいですね」

 黙って再び刀を構えた計都に、羽衣は小さくため息を吐く。一瞬だけ伏せられた視線が元に戻ったころには、彼女の眼光は鋭く研ぎ澄まされていた。その鋭い光に、計都は突きつけられた刃の幻覚を見る。

 ガギィン! と刃が交わった。

「ッ……!」

「……っ!」

 互いの呼吸、その狭間を突いたような一撃。トンっと両者は飛び出し、相方向から距離を縮めながら、やがて刃に火花を散らした。かつて呼吸を共にしていた者たちだからこそ起こったことだった


 カチン――パァン!

「ぅぐっ!」

 銃が火を噴く。計都は体をねじるようにして回避を試みた。しかし半瞬に合わず、弾丸が計都の二の腕の肉をえぐっていく。血液の飛沫が目の端に映ったのと同時、右腕から力が一瞬抜け落ちた。羽衣の淡青に力がこもり、そのまま上から押しつぶされる。

 背中が地面についた。羽衣が計都の体に覆いかぶさり、さらに体重をかけて淡青を押し込んでくる。

 刃の先端がジワジワと接近する。刀身は血濡れて湿った夜色だ。今にも血が滴りそうなほどに濡れている。その感想は誤りではなく、下向いた刃の先端に血が滑り落ちてきていた。

(ッ……目、だっ)

 羽衣の狙いがわかった。目だ。右眼のアイリス。暗闇を見通すそれは、羽衣にとっても脅威だった。実際、隙を突かれて右腕を斬り落とされたのだから。

 羽衣も当然知っている。計都の瞳は義眼だ。傷つけたところで新しいものに挿げ替えればいい。だから今は壊す。それに容赦は必要ない。

「く……ぅ!」

 抗い切れない。反射的にまぶたを降ろしそうになるが、理性で抑える。瞼は生身だ。傷つくと厄介なことになる。長い目で見れば、まだ義眼が壊れた方がいい。なにより、瞼を閉じたところで刃は防げない。しかしじりじりと迫る刃の先端、その光景を見続けることの恐怖は想像を絶した。

「ぁ……ああっ!!」


 パキ――バキン!!

「う、ぅ、ぐううう……っ」

 レンズに亀裂が走り、放射状に広がって砕けた。それと同時に右目の視野はほとんど消失する。万華鏡と呼ぶには無秩序すぎる光の乱反射を見たかと思えば、まもなくそれは闇の中に崩れ落ちていった。

 ロテートブラッドが義眼に浸透する。しかし破損した回路に生じた負荷が電熱を生み、ロテートブラッドを焼いていく。こびりついた血が決定的にアイリスを破壊した。

「くっ……ハァッ!」

 足を跳ね上げ、後転の要領で羽衣の体重を逃がす。期待通り羽衣の体は後方になげだされたが、彼女は難なく受け身を取って立ち上がる。計都も遅れず立ち上がった。

 壊れたアイリスがバチバチと漏電する。少し煙も上げていた。じわりとした熱を眼窩に感じた。視野は想像以上に狭く、なにより距離感が鈍っていた。。

「腕、止血した方がいいですよ」

「いまはそれどころじゃない」

「それどころでしょう。私なんかに構わないでください」

「なんか、じゃない。あなたは私の大事な人。命にも代えがたい」

「……ずいぶんと情熱的なことを言うようになりましたね」

「どこかの誰かさんのやりかたが移ったのかも」

 計都はうっすらと微笑む。それとは対照的に、羽衣の表情が少しだけ不機嫌そうに歪んだ。


 ダッ!

「!」

 淡青を順手に構えた羽衣は、姿勢を低くして駆け出してきた。銃を持っているというアドバンテージを捨て、計都の間合いに飛び込んできたのだ。

 左肩で背負ってからの振り下ろし。素直な太刀筋を見誤らずに新星を押し出す。鉄がぶつかり刃が擦れる。新星の刃の上を滑った淡青が側方に抜けたと思ったら、そのままフックパンチのような軌道で横から計都に突き刺さらんと迫る。が、これも落ち着いて叩き落とした。その拍子に羽衣の体が開いた。

 ここだ。

 計都は新星を素早く振り上げ、そのまま振り降ろした。

「ハァ!」

 布と肉を斬り裂く感触。血と脂の上を滑る刃の慣性。にわかに濃くなる生臭い鉄の臭い。それらが鮮烈に計都の感覚器を埋めていく。


 だが、それもわずかな間だけだった


 ドズッ!

「え」

 腹部に違和感。やがてそれは熱を帯びていく。下腹部から足にかけて、暖かい液体が滴るのがわかった。これは何だ?

 計都は視線を下げる。腹部に刺さっていた。小さな刀。それの名前を計都は知っている。淡青。その由来となった淡い青の刀身はいまは見えない。

 なぜ? 自分の腹部に突き刺さっているからだ。

「か、ふ……」

「まさに、肉を切らせて、というやつですかね」

 羽衣は涼しげに語る。とても日本刀で斬られたあととは思えない。だがそれも当然で、彼女が受けた傷はもう直っていた。切断された衣類の隙間から、白く柔らかそうな肌が覗いている。ロータスラヴの力で治癒したに違いなかった。

「それでは、骨を断ちましょう」

 淡青に刺されたところを中心に、途方もない激痛が計都を襲い始める。ついさきほどまで計都が覚えていた感覚は、全て痛みに塗りつぶされることとなった。


「ひっ、ぎ、あ……あアアアアアあああああアっッ!!!!」


 その少女の絶叫は、夜空にまで届くかのようだった。


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