第37話 心を砕く




「う……あ……」


 呻きながら膝を地面についた。羽衣の膝が地面にぶつかったのは、手放された淡青が地面を打ち鳴らしたのとほぼ同時だった。

「ありがとうございます、いぶきさん」

 計都がそう呟くと、広間の照明が再点灯した。どこかでいぶきが操作していたようだ。つまり、もともとこういう作戦だった。暗闇で視界を奪った隙に、暗視の義眼アイリスを起動した計都が決定打を放ったのだ。

 今にも崩れ落ちそうな上半身をなんとか維持しながら、羽衣は残った左腕で右肩を押さえていた。傷口の大きさに比例せず、出血は少なかった。

「は、ははは……いやあ、本当にここまでするとは……」

 滴った血は血溜まりを作った。羽衣の足元で微かに揺らいでいる。しかし計都がみてきた血溜まりに比べればささやかだった。羽衣の機身が為せる技だ。現にもう出血は止まっている。

「羽衣……もうやめよう……」

「……やめる? いったい何を……? この仕組まれた悲劇を? それともウイルスに抗うことを? ぐぅっ……!」

 傷は傷だ。痛まない訳がない。常人だったらショックで気を失っている。羽衣がこうして話ができるのも、計都が落ち着いて言葉をかけられるのも、すべては失血の恐れがないゆえだ。

「とりあえずはこの争いを。そして次は、あなたがやってきた復讐を。あなたが言っていることが本当なら」

「何度も何度も考えましたよッ!」

「!」

「復讐なんてそれこそ悲劇だ! また新たな悲劇を産むだけだって、わかってる! そんな理屈はわかってるんですよ!」

 理屈はわかっている。

 ではわかっていないのは何か。

 感情だ。

 植え付けられた恨み、憎しみ、筋違いな憤り、手放した身体、捧げてきた時間、捧げたことで失ったかもしれない普通の生活……そういったものに対する怒り、未練、後悔、羨望—— 感情が、羽衣の体を突き動かす。

「断罪する……報いを受けさせる……そしてソユーズさんにはお釣りが来るくらいに幸せになってもらいます……それが、あの日犠牲になった人たちへの弔いで、手向けです……! それを成すまで、私は――」

「羽衣……!」

 ああ、ダメだ。

 彼女は止まらない。止まってくれない。

 いますぐ抱き締めても、きっとダメだろう。自分が泣きわめいたって、今の彼女には届かない。彼女は完全に憎しみに囚われている。ニルヴァーナ・ウイルスにまつわるしがらみを一身に受けて、もう自分ではどうしようもないのだ。

 悔やまれる。自分が彼女の隣にいられないことが。彼女の戦いに、自分も一緒に臨めなかったことが。あげくの果てに、自分が彼女と対峙しなければならないなんて。

「止まれないんです!」

 羽衣が取り出したのは、タブレット菓子のケースだった。

「!?」

 計都は羽衣がこれから何をしようとしているのかすぐにわかった。そして唖然とした。まさか、彼女もそれを持っているなんて。

 計都が衝撃を受けている間に、羽衣はタブレット菓子のケースを開く。床にぶちまけられたピンク色の錠剤—— ロータス・ラヴを、羽衣は一粒つまんで口にいれた。

「羽衣っ、それは……!」

 ごくんと飲み込む音がする。

「……曰く、ニルヴァーナ・ウイルスの先にあるくらやんだ、身を焼くようにほとばしる闇だと、ヤツらは嘯きました」

「ヤツら?」

「六光製薬。これを世間に流しているのもヤツらです」

 羽衣は地面に落ちていた腕を拾い上げる。そして切り口を自分の肩に押し付けた。

 まさかと思う。そんなバカなと。

 しかし、現実がそれを否定する。


 切断された右腕、その指先に力がこもる。


「!」

 羽衣の腕は完全に治癒していた。先程自分で切り裂いた手首の傷も治っていた。

 超高速再生。

 ロータス・ラヴが羽衣に与えた力だった。

「効力は認めます。さすが、ソユーズさんが開発しただけのことはある。そして、六光製薬はその成果をかすめ取っただけです。ニルヴァーナ・ウイルスの研究に役立てるならまだしも、違法に販売して暴利を貪っている」

 羽衣はすくっと立ち上がった。その拍子に右腕の袖が床に落ちて、色白な腕が露になる。治った腕と直らない袖の対比が、腕の治癒という現実を強調していた。

「この薬は政府も関心を持っています。違法に流している薬は、言ってみれば実験でしょう。どんな能力が発現するのか、どんな副作用があるのか、どれ程のデメリットがあるのか、そんなことを調べている。今も、昔も、あいつらは人を実験動物くらいにしか思ってないんですよ」

 羽衣は淡青を逆手に持ちかえる。

「……必ず裁いてやるんです。たとえ、この世に血の雨が降ろうとも」

 雨。

 そのワードが、計都の記憶のノックする。

 悲劇の雨。

 あのソユーズが恐れる世界の終わり。

 もしかしたら、待っているのだろうか。

 この場で彼女を止められなかった時、羽衣が突き進んだ先の未来に、その悲劇の雨が。全てが息絶え、嘆く者すらいなくなった世界が。

「ぐぅっ! ううぅッ!」

「!」

 目を疑う。

 羽衣は逆手に持った淡青を、自分の胸に突き立てていた。丸まった背中の向こう側で、刃の先端が飛び出している。

「っ、アアッ!!」

 刀身が勢いよく引き抜かれる。その拍子に血が飛び散り、さらに床を赤く染めた。しかし血はすぐに止まった。きっと傷も治っている。淡い青色をしていた刀身は、暗く湿った夜色に変わっていた。

 計都はすぐに、その夜色の危険性を理解した。

 あれは自転する血ロテート・ブラッドまみれた一振りだ。斬り裂かれたが最後、そのままロテート・ブラッドの侵入を許し、細胞レベルの激痛に襲われる。一太刀も浴びることはできない。

「さぁ」

 計都の心を砕くように、羽衣は床に散らばるロータス・ラヴを踏み砕く。計都は思わず、びくりと体を跳ねさせた。


「仕切り直しといきましょう」







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