第33話 嵐の前の
『これを持って行って』
ソユーズはタブレット菓子のケースを差し出した。
中身は確認するまでもない。あのピンク色の錠剤、忌々しきロータス・ラヴだ。
『何かの役に立つかもしれない』
彼女を頼った手前、無下に断ることもできなかった。しぶしぶケースを受け取り、計都はそれをコートのポケットにしまった。仮に役に立つ場面が来ても使わないだろうと期待して。
ソユーズが示した未来の見えない街。その範囲は広大だったが、何の手がかりもない中を闇雲に探すよりずっとマシだった。今は未来が見えないところにこそ、希望の光が射していた。
計都はソユーズの地図を眺めているうちに、それは2つのエリアに分けることができることに気が付いた。つまり、計都が普段行くところと、行かないところだ。
行くところは学校や保健署、封印病棟、食料品店など。逆に行かないところはと言えば――ビジネス街だった。
計都はビジネス街の俯瞰図を眺めているうちに、一つの名前に目を留めていた。
「……六光製薬」
淀宮駅から海へ伸びる道路を下り、淀宮港まであと一歩というところに、六光製薬の本社は鎮座していた。石造り5階建ての堅牢な社屋で、空から見ると真ん中がくりぬかれた三角形の構造になっている。くりぬかれた中央は中庭だ。建物の正面には象徴的な塔屋がそびえており、日中であれば、会社の順風を誇るかのように、塔屋の
計都は中庭からそんな塔屋を見上げる。
背景の空は暗い。もう夜になっていた。街明かりが近いせいか、星の姿は見えなかった。すぐ横には幹線道路も通っており、行き交う自動車のロードノイズすらも聞こえてくる。
振り返ると同じ建物に、煌々と明かりが灯る一角があった。神殿を思わせる外観の内部は広間になっており、中ではパーティーが開催中だ。
『暢気なものね。こんな時に創立記念パーティーなんて』
ため息がちないぶきの声が耳元で聞こえた。連日連夜の仕事で溜まった疲労がうかがえた。
『お偉いさんはこういうのが仕事だと思ってるからな。あー腹減った。いいなー、酒、メシ……』
気だるそうな声は火崎のものだ。彼女は眠気よりも食い気が勝っているらしい。
『あんな場所で食べても味しないでしょ。いいから集中して。いつ彼女が来るとも知れない』
『そう言うがなぁ。本当に来るのか?』
それは正直分からない。ただ、いままで六光製薬の関係者が狙われ続ける中、ソユーズの未来視にも表れなかった場所としてここが示されたのだ。2つの要素が重なった今、その可能性は十分に高いように感じられた。
『来ないなら来ないで良いでしょ』
『これだけ人員配置して何も無しなら無しで小言があんだよ。やりたい放題の極秘部署とは違うんだ』
『持てる者の義務、持たぬ者の免責よ。あなたたちは彼女を見つけたら知らせる。それだけでいい。あとは私たちが――』
火崎が「おい」と遮った。
『相手は子供だぞ。分かってるのか』
「わかってますよ」
答えたのは計都だった。その声音は、刃の描く曲線のように柔らかく、そして同じく刃のように冷たかった。
「警察は子供を撃てないですもんね」
『そうじゃねぇッ!』
大音量にイヤホンがびりびりと震える。耳が少しだけキンとした。それが落ち着いた頃に、いぶきの穏やかな声が滑り込んでくる。
『目には目を、歯には歯を。王道には王道を、そして外道には外道を。王者にできない戦い方だってあるでしょう、陽咲』
「火崎さんって、見た目はコワイけど優しいですよね。特に子供には優しい」
計都は優し気に笑う。しかし火崎は後日
『私はフツーだ。常識人だ。お前らがおかしいんだ』
『あなたが常識人なんて嘘でしょ? 今度鏡を買ってあげるわ、大きいヤツ』
『持ってるし。知ってんだろ。ていうか私ん家にこれ以上私物持ち込むんじゃねー』
『……』
「え、火崎さんといぶきさん……」
『あっ、ヤベ……こほん。定時連絡!』
「誤魔化した」
『誤魔化したわ』
『いぶきまでツッコむんじゃねーよ……』
それからしばらく音声は途切れた。敷地内外に配置されている警察官から火崎の元へ、定時連絡が行われているのだろう。
『おい9番、応答しろ』
そんな不穏なセリフで沈黙は途切れた。
『9番、応答しろ……寝てんのか? 今のうちなら許すから起きて返事しろ』
派手な舌打ちが聞こえる。計都はとっさに楽器ケースから新星を取り出していた。
『10番、9番の様子を見に行け……10番、返事をしろ』
しかし返事は無かった。異常事態。その四文字がよぎる。
「いぶきさん、10番ってどこですか」
『広報室前……何でこんなところで』
「行きます」
『待って。陽咲、どうなってるの? ……陽咲? 返事しなさい。陽咲?』
返事がない。だが無音ではなかった。なにやらガザゴソと音が聞こえてきている。衣擦れと音と足音、それからプラスチックが何かにぶつかる軽い音。誰かの呼吸。耳元で聞こえるそれは、いつか聞いたことがあるようで――。
『こんばんわ、ケイ』
「! ……羽衣!!」
『それから、お久しぶりです、いぶきさん』
『……』
イヤホンから流れてきたのは紛れもない。飛天羽衣の声だった。
『もしかしたらって思いましたが、やっぱりいますよねぇ』
『飛天さん。一応言ってあげる。今すぐ武器を捨てて自首しなさい。今ならまだ私が四方八方に頭を下げれば何とかできる。うやむやにできる』
『お気遣いは嬉しいです。ですがいぶきさん。私はもう止まれません』
『それはなぜ?』
『今あそこで楽しそうにしてるクソ共を、もっと楽しいらしい極楽に連れて行ってやりたいからですよ』
あそことは絶賛パーティー中の建物内の広間のことだ。六光製薬の関係者たちが、ほろ酔いで歓談している。
『あなたは分かっているの? あなたがやろうとしていることは、あなたが最も憎んでいた行為のはずよ』
『何の罪もない人たちの人生を奪うことと、罪と贅肉だらけのゴミの人生を叩き潰すことは違います』
『あの人たちに罪があるというの?』
『いぶきさんだって、薄々わかってるんでしょう?』
『何の話』
先ほどまでの喧騒が嘘のようだった。周囲は静まりかえり、風の音と広場の噴水の音だけが聞こえていた。排ガスの臭いもしなくなり、今は海の香りがしていた。
静けさと風、それから潮の香り。計都はそれらから一つの言葉を連想する。
『3年前のあれはバイオテロじゃない。事故だったってことです』
つまり、嵐の前の静けさと。
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