第32話 またのご利用お待ちしております



「泣き叫びたくなるの、時々ね」


 熱く湿ったベッドの上でソユーズはこぼした。

「ある人は未来が見えると怖れ、また別の人は未来が見えないと怖れる」

 計都の体に覆いかぶさり、彼女はジッと計都の体を見下ろしている。赤い跡だらけになった計都の、日焼けすることのない肌のどこかに、まだ跡を付けられる場所がないか探していた。ちょうど良いところを見つけると、彼女は唇を当ててまた愛を刻んだ。

「結局、本当の救いなんてどこにも無いのかもしれない。恐怖はひとときまぎれるかもしれないけれど、消え去ることはない……」

 ソユーズが計都に体を重ねる。ふわりとした感触のあとに、彼女の体重が下りてきた。心配になるくらいに軽かった。抱き締めたら雪のように解けて消えそうだ。

「……前に羽衣が言ってた」

 彼女の髪に触れてそっと撫でる。するとソユーズは、懐いた猫のように頭を揺らした。

「人の美しさを花に、花の美しさを人に例える時、本当の美しさはどこにあるんだろう、って」

 耳の下あたりに触れかけたであろう唇が止まる。頬に視線を強く感じた。

「その答えは出たの?」

 首を振る。

「分からない。ただ、何となく」

「何となく?」

 らしくもないことを言ったなと、自分でも思った。

「ずっと、どっちも綺麗だと思えると良いなって思った」

 彼女は一瞬呼吸を止めたあと、くふっと笑う。

「待ち遠しい未来があれば、未来を恐れずに済む」

 ソユーズが喋るたびに微かな振動が伝わってくる。彼女が体に染み込んでくるかのようだ。その振動はやがて心臓に達し、鼓動を少しだけ大きくしたように感じた。

「待ち遠しくなるような未来を、いつか夢見たいものね」

「……」

 彼女は常に怯えているのかもしれない。

 未来が見える彼女にとって、未来はきっと、過去と同じくらいに逃げられないものだ。普通であれば、あるともしれない未来のことは「心配し過ぎだ」と笑って逃げ出せる。

 しかし彼女はそうもいかない。確定した未来は、過去と何か違うのだろうか。

 考えたこともない命題に、意識が脳の内側に潜る。もっと深くに潜ろうとしたその時、ぎゅっと足を引っ張られる。

「でも、さしあたりは」

「?」

 背中に回された手に力がこもる。砂像を抱くような優しい抱擁に安堵を覚えた。

 しかし。

「あなたでこの不安を慰めさせてもらうわ」


 ガリッ!


「い゛!」

 肩甲骨の辺りに不協和音のような痛みが走る。彼女が爪を立ててひっかいたのだ。きっと血が出ていた。思わず体をのけ反らせる。

「な……んで……っ」

「あなたが他の女の話をするからよ」

 また唇が触れ合った。きっと抗議をさせないためだった。



 そんな話をしたのが昨日の夜。

 今はもう朝だ。彼女は隣で寝息を立てている。穏やか……いや、少し微笑んでいるようにすら見えた。

 寒くない朝は久しぶりだった。隣で誰かが眠っていると、こんなにも暖かかっただろうか。いつまでもベッドにもぐりこんで、この温もりと、この冬咲きの花の香りに埋もれていたい気分にさせられる。

 掛けふとんの中から枕元に手を伸ばし、スマホで時間を確認する。自分もずいぶん長く眠っていたようだった。そしていぶきからの着信がなかったあたり、きっと街も平穏だったのだろう。

 彼女を起こすかどうか少し迷う。だが迷いはすぐに消えた。彼女が目を覚ましたからだ。パチと目を開いたソユーズは、普段よりもっと眠たげな眼差しを浮かべ、計都を見つめる。そして深く息を吸って吐くと。

「もう死んでもいい……」

「約束でしょ。早く羽衣の場所を探して」

 風情がないわ。彼女はそうこぼして体を起こす。小ぶりな双丘がふるりと揺れた。

 それから目を反らしてベッドから抜け出す。タンスから下着を取り出して身に着けた。

 昨夜ひっかかれた背中が痛んだ。以前歯型をつけられた時のように、この傷が痛むたびに、きっと彼女のことを思い出してしまうのだろう。

「街の地図か何かあるかしら。あと羽衣さんのこと、もっと教えて。情報が多ければそれだけ精度が上がる。趣味とか好きな食べ物とか、どんな些細なことでもいい」

 地図はウェブからプリントアウトした。それから羽衣に関して話せる限りのことを話した。話を聞いたあと、彼女は自分の部屋に据えた戸棚からタブレットケースを取り出し、こちらを振り返った。

「朝ごはんの準備でもしていて。その間に見ておく」

「お願い」

「そうそう、この部屋の扉は閉めるけど」

「?」

「覗いちゃだめだから」

「……あなたみたいなツルを助けた覚えはなんだけど」

 よくツルの恩返しなんて知っていたものだ。ちょっとした冗談だが、穏やかな朝にはお似合いだったように思う。少しだけ上向いた気分を胸に、計都は台所へ歩み入った。そしてとりあえず手を洗おうと、水栓の取っ手に手を伸ばす。取っ手を持ち上げると、泡を含んだ水流が流れ出した。流れに手を差し込むとさすがに冷たかった。

「ねえケイト」

 そんな彼女に声がかかる。

 自室に入ったソユーズが、戸を閉めずに計都を見ていた。

「わたしは救われているわ」

 扉はパタンと閉じられた。



 そして数十分後。

 計都はすでに朝食の用意を終えていた。あとはもう盛り付けしか残っていない。調理器具の洗い物すら終わってしまった。学校へ行く時間も迫っていた。仕事で学校をすっぽかすのはしょっちゅうだが、できれば登校したいところだ。時計の秒針がカチカチと動く間隔が、いつもより長く感じられた。

「おまたせ」

 がらりと和室――ソユーズの部屋の戸が開いた。彼女は額に髪を貼り付け、冬だというのに肌に汗を浮かべていた。片手には街の地図が携えられている。

「役に立つと良いけれど」

 差し出された地図を少しだけ見下ろす。赤いペンで塗られたエリアは広大で、おそらくは羽衣が絶対に現れない場所だった。そして計都の目的のエリアは、ペンで塗られないことで示されていた。そこそこ広いが、この街全てを歩き回るよりはずっとマシだった。計都はその紙をシワにならないよう、しかし強く掴んだ。

「ありがとう」








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