第31話 滴り


『あなたにできる?』


 そう言われている気がした。

 彼女が差し出しているのは、手のひらに収まるほどのプラスチックのケースだ。タブレット菓子のそれに似ていた。

 しかし商品名やイラストがプリントされているわけでもない。潔白を主張するような白々しい白いケースだった。

 計都はその中身を知っている。

 ロータス・ラヴ。

 ニルヴァーナ・ウイルスが持つ力、その果てにあるくらやんだ、身を焼くようにほとばしる闇とソユーズはうそぶいた。そして今や、あの脅威と驚異を目にしては、彼女の言葉が大袈裟でないことがよくわかる。これがいったいどれほど世に出回っているのか、どうやって製造されているのか、想像しただけでも感情に黒い影が差す。

「……」

 普段の計都ならむしりとって投げ捨てていただろう。しかし疲れきった体が、脳が、直情的な行動にブレーキをかける。否、危険や脅威といったものに対する正常な反応を阻害していた。

 あれほどおぞましく感じていたのに、今はどうということはなかった。所詮はただの錠剤。飲み込まなければどうということはない、といった具合に。今なら中身が沸騰しているヤカンだって触れる気がした。

 ケースを受け取って中身を取り出す。右の手のひらの上にピンク色の錠剤が転がり出た。その無害そうな見た目を少し眺めたあと、手のひらをそっと口に押し付けた。錠剤が舌の上に載ったのがわかった。

「あ、やっぱりだめ」

「むぅ゛!?」

 口をこじ開けられたと思ったら、そのまま指を押し込まれた。錠剤を取り出すには不必要なほど奥に押し込まれた2本の指は、容赦なく口の中を探り、喉の奥の方に触れては計都に吐き気を覚えさせる。計都の目には思わず涙が浮かんだ。

「ん゛っ……ぅ……!」

「あった」

 ずるりと引き出された指の先端が、ピンク色の錠剤をつかんでいた。いままで計都の口の中にあった指は、当然彼女の唾液でべとべとに濡れている。ソユーズの指の先端から計都の唇に向かって、とろりとした糸が渡っていた。

「っ……! ゲホっ、ゲホッ!!」

「これを今に飲んでしまったら、計都を楽しむどころじゃなくなってしまうものね」

 ソユーズは錠剤をコタツの天板においたあと、濡れた人差し指と中指をじゅるりとねぶる。錠剤は唾液で少し溶けだしていた。

「ソ、ソユ――」

 言葉は続かない。唇は強引に奪われた。抵抗しようにもすでにソファに組み敷かれていて押し返せなかった。

 彼女の柔らかな身体の感触に、否応なく胸が高鳴っていく。強すぎる冬咲きの花の香りで頭がぼぅっとしておかしくなりそうだ。切なさに脚を閉じようとしたら、ヒザが滑り込んでそれを妨げる。ソユーズのふとももが、すぅっと内ももを撫でるその感触に、計都は背筋をぞくりと震わせた。

 口付けは続いている。何度も何度も、とめどなく、よどみなく。くちゅくちゅと、湿った音が乾燥した部屋に響いた。彼女の唇に溺れてしまいそうだ。しばらくして口づけから解放されるや、計都は息を切らして空気を吸った。

 そうしている間にもソユーズは着ていたパジャマを脱ぐ。ワンピースタイプのそれを床に投げ捨てると、薄明りに彼女の肢体が浮かび上がった。幼さを残しながらも均衡の取れたシルエット。控えめな胸元は、しかしたしかなふくらみがあった。彼女の体が動くのに合わせて微かに震えた。

 太陽の光すら知らぬ肌は雪のように白い。北の大陸、深きロシアの、凍土の森の奥に住む妖精を思わせる姿が、幻想的に浮かび上がる。こんなもの、見惚れるなという方が無理だ。

「見すぎ。えっち」

「だって――ひゃあっ」

 ソユーズの手がキャミソールの下に滑り込む。触れるか触れないかといった位置で指先が素肌を撫でた。こそばゆさに強張った計都の体を、ソユーズはぎゅっと抱きしめた。

 久しぶりの人のぬくもり。久しぶりの彼女のぬくもり。

 あの病棟で、互いのことを何も知らず、しかし体を重ねてきた時のことを、体は忘れていなかった。もう知っている。拒絶感など無い。もう受け入れたことがあるのだから、これは受け入れて良いものだ。抵抗するという選択肢なんてなかった。

 ソユーズの鼻先が首筋を這う。頬に口づけをされたかと思えば、すぐ上にある耳にかぷりと噛みつかれた。いや、これは唇でんだだけだ。そちらの方が性質が悪い。柔らかさと熱と吐息が耳に毒だ。

「……ケイト、好き」

「っ」

「好き。大好き。ずっとこうしていたい」

 耳元で囁かれる愛。飾りのないストレートな好意。あるいは欲望。気を抜けば自分の全てが奪い尽くされてしまいそうな怯えとは裏腹に、両腕はソユーズの体を抱いていた。心臓が重なって、互いの鼓動が伝わりそうだった。

 ソユーズが体を起こす。そして計都の頬に手を添え、じっとその瞳を眼差した。

「あなたと一つになれればいいのに」

 計都が何かを言う前に、また唇がふさがれた。体の上を再び滑るソユーズの手つきは慣れていた。もう知り尽くした道を歩くかのようだった。

 その後にあったのは、熱と湿り気、水音、とめどない快感、満ち足りた幸福感、それと、ほんのわずかに滴る不安だけだった。その不安すらも、期待と表裏一体だった。

 計都はおぼろげに思う。彼女は以前、こちらのことを麻薬のようだと言った。しかしと反論する。つまり、人のことを言えないではないか、と。




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