第30話 取引
「はぁ……はぁ……っ!」
赤い。
黒い。
白い。
それ以外の色はよくわからない。
血だまりでてらてらと微光が揺らぐ。光と影。キツ過ぎるコントラストがジクジクと網膜を刺激した。ここには血の匂いが充満しているはずだが、計都にはもはや分からなかった。
計都はいぶきに電話をして一言だけ伝えた。
「処理しました」
検疫から逃げ出した男性が足元で倒れていた。スーツの袖口からは植物の葉が見て取れる。計都から逃げている間に発症していた。今週はこれで何人目だろうか。もう数えていない。
「ごめん、なさい」
この人にも会いたい人がいたのだろう。それが家族だったのか、恋人だったのか、あるいはペットなのかは分からない。しかしここで
そんな言葉を頭の中で繰り返す。そうしないと正気を保っていられない。
「……ふふっ……」
自分がまだ正気だと思っている。そう自然に考えていたことが可笑しかった。こんなにあっさり人を殺していて、正気を名乗って良いものか。こんな光景は狂気に決まっているのに。
住宅と小規模オフィスが混在するエリアは、時間帯に似合いの静けさだ。人通りも無いに等しいし、仮に人がいたとしても、その関心は罹患者が出たこの近くの別の現場に集まっている。これなら除染部隊が来るまでなんとかなりそうだ。
夜空を見上げる。張り巡らされた電線の向こうには、星一つ見えない、暗い曇天が広がっていた。
離れていても、同じ空の下でつながっている。
ドラマや映画でよく聞くセリフ。だが、そんなのは嘘だ。現にそれほど大きくない街なのに、女の子一人、どこにいるのかすらわからない。
「あっ、とっ」
足元がふらつく。寝不足が極まっていて、空を見上げただけでバランスを崩してしまった。とっさに近くの家の石塀に手をついた。やはり氷のように冷たかった。
羽衣が隣にいてくれたら。
きっと百万回くらい願ったこと。寄りかかる壁の冷たさがひどく惨めだった。
「……うぅ」
ダメだ。挫けそうだ。涙があふれる。血濡れた頬が涙で洗われた。いや、これは汚れたのだろうか。もうわからない。
新星が重い。この刃を向けるべきは誰だったのだろうか? 感染者か? 罹患者か? ソユーズか? 羽衣か? いや、ほかの誰でもない自分だったのではないか?
鯉口を切ってみる。血濡れて夕闇色になった新星が覗いた。
吸い込まれそうな色合いだった。
刃を思わず顔に近づける。もっと近くで見たい。もっと美しく、もっと鮮やかで、もっと眩い――。
ヴー、ヴー。
「!」
メッセージだ。差出人はいぶきだった。打合せしたいから事務所に戻れという指示だった。除染部隊の到着時刻を確認したあと、計都はスクーターにまたがった。
「……ただいま」
そっと玄関を開ける。時刻はもう深夜だ。中にいるであろう彼女もさすがに眠っているはずだ。廊下を通ってリビングに向かう。リビングに続く扉も慎重に開けた。
リビングの真ん中、こたつの中から、白銀の髪の束が顔を出していた。さっそくコタツに毒され眠ってしまったらしい。
血濡れた制服を脱いで床に捨てる。スカートもだ。暖房も効いているのでショーツとキャミソールだけでも平気だった。ただ少し乾燥しているような気がした。
コタツの天板にはパソコンとグラスに入った水、それからロータス・ラブが置いてある。違法薬物がこんなぞんざいな扱いをされていることが本当に現実感がない。ビタミン剤か何かのようだ。
コタツのそばにあるソファに座ったとたん、力が抜けた。体がクッションに沈んでいく。このまま眠ってしまおうか、しかしそれではさすがに風邪をひく。計都は何とか姿勢を持ち直した。だがその拍子に――ガタン。
「!」
ソファの背もたれに立てかけてあった新星が倒れた。床にぶつかって大きな音を立てる。
「ん……んんぅ……?」
コタツの中からくぐもった声が聞こえる。ソユーズを起こしてしまったらしい。コタツの中からもぞもぞとソユーズが顔を出す。
「ケイト……?」
ソユーズの寝ぼけ
「ケイト……ジャンキーみたいな顔をしているわ」
不思議と納得した。たぶんそんな顔をしているだろうと容易に想像がついた。
「今にも壊れてしまいそう」
自分は壊れているのか、それとも壊れていないのか。少なくともソユーズの目には、計都は壊れていないように見えるらしい。
計都の力無い眼差しに、ソユーズは寒気を覚えたようだ。コタツの布団を胸元に引き上げる。
「……ソユーズ」
「?」
「……」
言葉が詰まる。
次の言葉を言ってしまったら、きっともう後戻りはできない。地獄へ続く扉が開く。
しかしと思う。
いまだって十分に地獄のようではないか、と。
意を決し、計都は口を開いた。
「羽衣を探してほしい。あなたの力で」
ソユーズにとっても予想外の言葉だったようだ。
しばし彼女はフリーズしていた。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、計都の無表情な表情から必死に何かを探ろうとしていた。
「……前にも言った。ケイトにかかわる未来は見えない。ケイトがその羽衣という人に会う未来は予測できない」
「この前は見えてたじゃない」
「いつのことか分からないけど、それはきっと羽衣さんを中心に見ていなかったか、そもそも彼女の存在を知らなかったから、別の形で予測できただけ」
「じゃあ、見えるところを全部教えて」
「全部?」
「この街全てを見通して。それで見通せないところにあの子はいる。そこで会える」
計都はソファから降り、ソユーズに這い寄る。そして彼女の手を取った。両手で強く握る。
「なんでもする。私のこと、好きにしてくれていい」
思ってもみない提案に、ソユーズは驚きと戸惑いを隠せない。しかししばらくするといつものあの眠たげな眼差しに戻って、静かに計都を見つめ返した。
「本当に? 本当に好きにしていいの?」
「いい」
「全部奪っても? 無茶苦茶にしても? とてもひどいことをするかも」
「今の状況が続くよりマシよ」
「……」
ソユーズの表情が歪む。泣き出しそうだった。計都にはそれがなぜなのか分からなかった。だが、その答えはすぐに本人から示された。
「羽衣さんのためなら、ケイトは全部投げ出せるのね……うらやましい」
彼女は少し俯いた後に顔を上げた。いつも通りの彼女に戻っていた。ソユーズは机の上のロータス・ラブに手を伸ばして取り上げたあと、計都の方へ差し出した。
「飲ませて。口移しで」
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