第28話 天秤を傾ける
「数日ぶりですね。体調はいかがですか、ケイ」
「!?
どうしてここに。
そんなふうに思わず駆け寄りそうになって踏み止まる。
今の彼女はまともに話ができるか分からない。それになにより、自分の後ろにはソユーズがいた。羽衣が何をしでかすか分かったものではなかった。
「どうしてここに、って顔してますよ」
「だって!」
「ここは私たちの家です。別に私がここにいたって良いでしょう?」
羽衣と出くわしたのは他でもない。計都が暮らすマンションの1階のラウンジだった。外が暗くなった今、ラウンジの照明は煌々と灯り、空間はオレンジの光で満ちていた。買い物を終えて帰宅し、そのあたたかい光にほっと息を吐いたのもつかの間、弛緩した心身は一気に緊張状態に突き上げられた。
「ここにいるのが驚きとおっしゃるなら、それは私ではなくその
手のひらを差し伸べて示す先はソユーズだ。計都は思わず彼女を背中に隠した。
「いやぁ驚きました。私がいない間に、まさかケイと一緒に暮らしていたなんて」
「ち、違う!」
「違う? 一体何が?」
「こっ、これは仕事で……私も納得してるわけじゃないけど、彼女を狙うような連中を相手にするにはこうするのが一番いいと思って……! いぶきさんも……」
「一緒に住んでいるのは変わりないじゃないですか」
取り付く島もない受け答えに、計都の頭がカッと熱くなる。
「じゃあなんで黙っていなくなったの!」
鋭い叫びが反響する。ラウンジにあったガラステーブルが微かに震えた。ソユーズもびくりと身を縮めて、恐々と計都を見つめる。空気の波紋が静まったころ、羽衣は悲しいような安堵したような表情を浮かべる。
「その様子ではまだ何もご存知ではないようですね」
「?」
「正直私はまだ迷っている。私はどうするべきか、あなたを最も傷つけない方法はどんな方法か。あるいはどうすればよかったのか……彼女が予想通り賢明で安堵しています」
くるりと羽衣の瞳が動く。視線はソユーズに向けられていた。
「初めましてソユーズ。私は飛天羽衣。ケイの同居人です。今は離脱していますが、かつては保健署の防疫課の一員でした」
「飛天……あなたまさか」
「その話はまた今度で。それよりもお願いがあります」
羽衣は半歩身を乗り出して言った。
「どうか、私と一緒に来てください」
頭を殴られたような衝撃だった。意識が強制的にシャットダウンさせられそうなほどだった。
羽衣は今何と言った? 一緒に来てください? そういったのか? 自分にではなく、ソユーズへ? 私のことは置いて行ったのに?
計都は瞬きもできない。だが、愕然とする計都をよそに話は進む。
「あなたは天秤の中央にいる。あなたが動けばいかようにも変わるはずです」
「いいえ。そんなことはないわ」
「それこそノーです。あなたが一番わかっているはずだ」
「ええ、一番わかっているわ」
「じゃあ」
「天秤はもう水平じゃない」
羽衣が息をのむ。
「残念だけど、すでに滅びに傾いている」
「滅び……? あなたは一体何を……」
羽衣は知らない。ソユーズがこの世で最も恐れる、最果てに降るあの悲劇の雨のことを。
「私は天秤を反対側に押し下げたい。でもそれすらもできない、軽く、非力で、そして矮小な一人にすぎない。あなたが期待しているような人間じゃない」
「……あなたの望みが何か分かりません。ですがひとつだけ言えるのは、あの日の真実を語ることができるのはあなただけなのです。他の誰でもない、あの場にいたのはもはやあなただけだ!」
「ごめんなさい。契約上、それはできない」
「契約? まさかあいつらとの? そんなものを守って何になるというのです!」
「少なくとも今はケイトのそばにいられる。今はこの場所が、この形が、悲劇の雨から一番遠いところにある」
「ケイが何だというのです……っ」
苦虫を噛み潰したような表情を彼女は浮かべる。それを向けられた計都の心臓は、引き絞られるように悲鳴を上げた。羽衣の前に立っていることが恐ろしくてたまらなかった。
「……あなたが協力してくれないのなら、私は別の方法を取らなくてはなりません」
「具体的には?」
「力づくでご協力を願うことになります」
羽衣の手には、いつの間にか刃物と銃が握られていた。刃物は計都が持つ太刀・新星と対を成す一振りである小太刀【
「っ。羽衣、お願いもうやめて……!」
泣きそうになりながらも計都は新星を構える。
このあいだのような隙は晒すまい。羽衣が扱う機身・
おまけに今はソユーズもいる。彼女を守るためにここ数日を共に過ごしてきたのだ。今ここで守り切らなければ、この数日が無駄になるのも同然だった。
空気が張り詰める。ほとんど自宅みたいな場所で、こんな緊張感を味わいたくはなかった。羽衣から放たれているプレッシャーはかなりのもので、素肌を晒している部分ではひりひりと感じられるほどだった。
銃が使われることはないだろう。自分やソユーズをウイルスに感染させるほど、彼女は非情にはなっていないはずだ。だから計都の意識は淡青に向いていた。淡青は今はまだ血を吸わず、その名の通り淡い青色の刀身を静かに光らせていた。
パンパンパァンッ!!
「!?」
計都の予想は二重に外れた。
まず羽衣は淡青ではなく拳銃を使った。そして計都はウイルスへの感染を覚悟したが、しかしそれは免れていた。代わりに羽衣が放った弾丸は、ラウンジのいくつかの照明を破壊していた。破壊の衝撃で電気回路に異常が生じたせいか、ラウンジの照明は全て消えてしまった。漏電による停電だろう。
互いの姿も良く見えない中、計都が視野をアイリスに切り替える時間もなく、計都の横を誰かが通り過ぎていった。
「! 羽衣ぃ!」
そう呼ぶ声に追いつかれることすら拒むかのような速さで、羽衣はマンションを飛び出していった。
このあと数日にわたって、淀宮では悲劇が繰り広げられることとなる。
羽衣が立ち去るこの場面がこそが、その悲劇の始まりの光景だったと、のちにソユーズは回想した。
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