第27話 容量オーバー


「逃げようとか思ったりしないの?」


 海上を行き交う船を横目に見ながら計都は尋ねる。

 ハーバーアイランドの北端に位置するこの公園は、臨海していて対岸に淀宮市街を望むことができた。夜になれば六光山からの夜景にも引けを取らない光の絵画を目にすることができる。

 少し視線を動かすと、淀宮市街地とハーバーアイランドを結ぶ、赤い塗装が印象的な巨大な鉄橋が目に映る。緩やかなアーチを描いた姿は水平線の丸みに似て、眺めていると遠近感が狂いそうだった。

「わたしが逃げるとしたら、あなたのところに行くためだから」

「そういうのいいから」

「本気なのに」

 ソユーズは両手を口元に寄せて、自分の吐息で暖をとった。指先からこぼれた吐息が白くなって風に消える。

「……どのみち、本当に逃げ出したいことからは逃げ出せないから」

「?」

 彼女は北に視線を投げた。六光山の向こうに、日本海の湿気を吸った暗い雲が浮かんでいた。

「悲劇の雨は追ってくる。どこまでも」

 あれは雨雲ではない。雪雲だ。もしあの雲がこちらに流れてくるとしたら、珍しくこの街にも雪が降ることになるだろう。今日は特別冷える気がする。

「……寒いね。コーヒーでも飲む?」

「お店とかあるの?」

「こっちのほうに移動販売が来てたりするの。あ、ほら」

 公園内の建物の影に移動販売車が駐車とまっていた。主力商品はピザのようだが、サイドメニューとしてドリンクも購入できるようだった。温かいコーヒーや紅茶がラインナップされている。車の近くに並べられたテーブル席では、何組かの客がアツアツのピザを堪能していた。

 各々ドリンクを買った二人は、店の用意したテーブルではなく、海を望めるベンチに並んで腰かけた。ベンチは氷のように冷たかったが、飲み物の温かさで何とか中和できる。

「詳しいのね」

 ソユーズがミルクティーをひと口含む。その視線はじっと、横目に計都を睨んでいた。


「ああ、うん。前に羽衣と来たことがあって」

「……」


「いつだったかなぁ。たぶん夏だったと思う。二人でかき氷食べたから」

「……ふーん」

「夜になるとね、ここからの夜景も綺麗なの。あのときは住んでるマンション見えるかなー? って探したんだけど、結局よくわからなくって」

「ふーーーーん」

「? え? なんで不機嫌になってるの?」

「別に、何でもない。他の女とのデートの話なんてどうでもいいから、何でもないわ」

 ため息が大きいように感じたのは、温かい飲みものを飲んだソユーズの吐息が暖かかったからだろうか。

「いっそ逃げ出してしまえば、あなたはわたしを追いかけてくれるのかしら」

「やめてよね。これ以上仕事増やさないで」

「じゃあわたしのこと捕まえておかないと」

 ベンチに置いてあった計都の手にソユーズの手が重なる。指と指の間に指を滑り込ませ、がっちり逃がさないスタイルだ。これではどちらが捕まっているのか分からない。

 彼女の指はほっそりとしている。手のひらもすべすべだ。刀を握っているせいで豆ができている自分のそれとは違う。柔らかな手だ。


「そういえば、そこの鉄橋を二人で歩いて渡ったこともあったなぁ」

「……」


「こんな感じで手をつないで。あの鉄橋を歩いて渡ろうとする人なんて他にいるとは思ってなかったんだけど、けっこうジョギングの人とかいるのよね」

「ふーん」

「前から来た人を避けようと思ったら、手をつないだままお互い左右反対に避けちゃって、逆に通せんぼしちゃって笑っちゃった」

「ふーーーーーん」

「え? ソユーズ何で爪立ててるの? ちょ、痛いって、いたたた」

 手を振り払った頃には、ソユーズは両頬をぷっくりと膨らませていた。フグみたいにまんまるだ。ずいぶんとご機嫌ナナメらしい。計都の手に刻まれた爪痕もけっこう深かった。

 彼女のそんな様子を見ていると、ふと昔のことを思い出す。


「あーそうだ……あの子も一度機嫌が悪くなると大変で、昔私が約束すっぽかしちゃったことがあって、3日くらい口きいてくれなくなって」

「……」


「何が気まずいって寝る時だったなぁ。ベッドは一緒なのに無視なんだもん」

「……」

「朝も朝ごはん作ってくれたと思ったら、自分だけ先に食べて先に出かけちゃうんだよ? 起こしてもくれなかったから学校遅刻しちゃったし。大変だったなぁ」

「……」


 計都が自分の所業にようやく気が付いたのは、ソユーズが体を震わせながら無言で涙を流し始めてしばらく経ってからのことだった。




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