第25話 対価


「ソユーズ……?」


 薄暗いリビング。光源はローテーブルの上のノートパソコンだ。

 そして同じローテーブルにうつぶせるソユーズは、明らかに悪さをしている様子ではなかった。というよりも悪そうなのは体調だった。

 彼女が纏うのはワンピースタイプの白いパジャマだ。そこから伸びる彼女の手足は、やはりいろじろくはあった。ただそれは健康的なものではなく、ひどく病的な、ろうを彷彿とされる無機質なものだった。まるでマネキンのようだ。

 しかし一方で、ゆっくり大きく上下する肩と全身からふき出す汗が、彼女が生命体であると物語る。体表に血の気が見られないあたり、汗は冷や汗の類だ。

「ロータス・ラヴを飲んだの?」

 ソユーズが計都の声に気が付き、微かに体を起こす。そしてこちらを振り向いた。

「!」

 顔つきがいつもと違った。

 部屋の暗さを勘案したとしても、両目の瞳孔どうこうは異様に散大さんだいしている。こちらを見ているが、こちらのことが見えているかは怪しかった。首筋から頬のあたりにかけて、それからこめかみのあたりに、網目あみめのように血管が浮き上がっている。他の体の部位と同様に、顔にはびっしりと汗が張り付いていた。

「ケイト……? ごめんなさい、起こしてしまった?」

「いや……それはいいんだけど、それ……もしかして副作用が……」

「え? ああ……」

 ソユーズは手の甲で汗をぬぐってからローテーブルに向き直った。

「ロータス・ラヴを使うとこうなるの」

「こうって」

「ロータス・ラヴはわたしの脳を激しく活性化させる。その副作用として、わたしの交感神経も同時に活性化させるわ……うっ……だから瞳孔の散大も、血圧の上昇も、血流の増加もすべてそのせい……う……ぐ」

 交感神経の活性化といっても、通常のそれとはレベルが違う負荷がかかっている。ソユーズの様子はそれを如実に示していた。胸元を押さえているのは、心筋の強烈な収縮により苦痛を覚えているからだ。

「ぐ、ぅ……ごめんなさい、すこし、待って」

 ソユーズはパソコンに向き直る。そしてカタカタとテキストを打ち込んでいく。

「もしかして、いま未来視を?」

「見ているという表現は……正直適切じゃない。これは脳に焼き付く天啓てんけいに近いわ……大量の情報が、一気に脳に流れ込む……」

 近寄ってテキストを覗き込む。ニュースで聞いたような政治経済犯罪に関する今後の見通し―― 否、予定が次々と書き込まれていく。その傍らには、政府から預かったであろう資料が別ウインドで表示されていた。最近この国の立ち回りが上手いように思えるのは彼女のおかげなのかもしれない。

 一通りテキストを打ち込むと、ソユーズは強くエンターキーを叩いた。そしてその瞬間、彼女の体はぐらりと崩れた。自然、計都はソユーズの体を受け止める。彼女の華奢さについ驚く。

「……」

 舐めていたといわざるを得ない。

 薬物乱用など、ろくな対価も払わず結果だけを得るような不健全で違法な営みだ。だが彼女の未来視はどうだろう。とても対価を払っていないとは言い難いような気がした――もちろん、彼女の行為が違法であることはゆるぎないが。

 心身を使い果たすほどの高い負荷を受けてまで、この行為を続ける価値があるかと問われると、はなはだ疑問だ。この国は、こんな女の子の力を借りなければ成り立たないほどに脆弱なのだろうか? あるいは、底なし沼のように貪欲な何かがそうさせているのだろうか。いずれにせよ、おぞましい営みには変わりない。

「大丈夫なの?」

「これくらいは、いつも通り」

 大丈夫だとは言っていない。

「どうしてもこれをやらなきゃダメなの?」

「それが契約だから」

「外にいるための?」

「外にいるための」

「外にいて何をするの? 研究は内側でもできたんでしょう?」

 目を閉じて呼吸を整えていたソユーズがまぶたを上げる。瞳孔の散大は収まっていた。

「……いつも最後に見えるの。悲劇の雨、世界の終わり、その風景が」

「そんな未来がいずれ来るの? 本当に?」

「実績はそう言っている」

 実績というと、これまでの未来視の的中率のことだろう。

「わたしは、あの雨を止ませたい。それが内側にいてはダメだった」

「何をしてもダメかもしれない。現に今も見たんでしょう?」

「止める方法は知ってる」

 ソユーズがゆっくりと体に力を込める。左手を床について体を支え、計都の頬に手を這わせる。

「あなたが必要」

「……!」

 そうだった。彼女はいつかそんなことを言っていた。

 数日前の自分だったら、ここでソユーズの手をはたき落としていただろう。

 しかし今は違う。ロータス・ラヴの異常な効果も目の当たりにしてきたし、彼女は証拠を示してきた。これ以上頑なに否定するのは、今度はこちらが何らかの根拠を示さなくてはならないように感じた。

「あなたの未来視は、少しは信じてもいい。でも……」

 彼女の手を取り、そっと自分の頬から引き離す。

「私にそんな力があるとは思えない」 

 仮にそんな力があるのだとしたら、それはむしろソユーズの方だろう。彼女は想像以上の天才のようだ。そして、世界のレベルを少しずつ引き上げてきたのは、いつだって最先端にいる一人の天才だった。

「ただそばにいてくれればいい。そういうことって、あると思わない?」

「……」

 思い浮かんだのは羽衣の顔だった。

 たしかにそういうことはある。ただそばにいてくれれば、どれほど救われるだろうか。彼女さえいてくれればと、何度そう思っただろうか。きっと数えきれないほどだ。

「……あなたの気持ち、少しわかった気がする」

「じゃあ」

 ソユーズが身を乗り出して顔を寄せる。しかし計都は手を上げてそれを制した。

「それとこれとは話が別」

「ケチだわ。減るものじゃないのに」

「そういう問題じゃない。ていうか汗だくじゃない。おふろ入り直したら?」

 この家の湯船は驚くほど保温性が高い。きっとまだいい湯加減だろう。

「一緒に入――」

「らない」

「ケチ」

 ソユーズは不満そうに肩を落としたあとに立ち上がった。計都がいるにもかかわらず、その場でパジャマをストンと脱ぎ落す。下着姿が露わになる。計都はとっさに視線を反らした。いくら同性同士でも唐突すぎて罪悪感があった。初めて見るわけでもないし、その先も知っているのに。

「明日、楽しみにしてる。買い物」

「ああ……そうね」

「わたし、とても楽しいわ。ねぇ」

「何」

「これからよろしく」

「せいぜい努力することね。さぁ、早くおふろに入って寝て。そうすれば明日も早く来る」

「ふふ、そうね。そうするわ」

 すっかり顔色が戻ったソユーズは、微笑を浮かべながら脱衣所に向かって行っていった。上着も着ない寝間着姿のせいで冷えた体を、そのとき計都はようやく思い出し、いそいそとベッドにもぐりこんだ。

(誰かと出かける予定があるなんていつぶりだろう……)

 意識が遠のく前、計都の胸中は、久々の穏やかさを抱いていた。







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