第17話 袋を破る錐



 匂いで目が覚めた。


 ここはどこだろう。すぐに思い出せない。重い瞼で視界が明滅する。映像はピントが波打っていた。見覚えのあるローテーブルや小物のおかげで、ここが自宅なのだと理解した。おかしい。たしか学校へ出かけたはずなのに。

 少し体を起こす。毛布がぱさりと床に落ちた。暖房が効いているせいか、体感温度は変わらなかった。どうやらソファで寝てしまったらしい。

 物音につられて顔を上げる。キッチンに明かりが灯っていた。コトコトと何かを煮込む音がしていた。キッチンで誰かが料理をしている? 視野がぼやけていてよくわからない。でも、自分以外でこの家のキッチンに立つとしたら一人だけだ。まだ覚醒し切らない頭から、名前がひとつこぼれ落ちる。

「羽衣……?」

 誰かが顔上げてこちらを見た。シルエットで何となく女の子だろうと分かった。

「目が覚めた? 悪いけど勝手にキッチン使わせてもらってるわ」

「……?」

 悪いけど? なぜ羽衣がそんなことをいうのだろう?

「?」

「大丈夫? まだ気分が悪い?」

 シルエットが近づいてくる。セーラー服の上にエプロンを身に着けているようだった。エプロンは計都わたしのだ。羽衣じぶんのを使えばいいのに。

 額に手が伸びてくる。細く柔らかい手だった。洗い物でもしていたのか、少し湿っていて冷たかった。

「熱は無いわね? 吐き気は?」

「……え? なんでそんなこと……」

 と、そこで計都の意識は一気に覚醒した。

 瞬時に視界が澄み渡り、目の前にいるのはソユーズだと認識した。

「っ!? きゃあああああ!?」

 驚きのあまりソファの背もたれの向こう側に転げ落ちた。慌てて身を引いてしまったせいだ。

「な、な、なんであなたがここに!?」

「何でって言われても」

「どうして私の家が分かったの!?」

「免許証を見させてもらっただけだけど……」

「いつの間に!? 盗んだの!?」

「ケイト、落ち着いて」

「落ち着いていられないわ!」

 あたりを見回して新星を探す。部屋の隅に新星の入った楽器ケースが立てかけてあった。計都はそれに駆け寄り、新星を居合に構える。

「一体どうやって……ハッ、まさかロータス・ラヴを使って!? 私に関することは見えないって言っていたのは嘘だったのね!?」

「なんだか混乱してるみたいだけれど……あ、ちょっと待って」

 ソユーズは計都に背を向けてキッチンへ向かう。鍋が噴きこぼれて、ジュワアアアアアと音を立てていた。コンロのあたりから湯気が立ち上ると同時に、コンソメに似た豊かな香りが部屋にただよい出す。

「……え? 何してるの?」

「スープを作ってみたの」

「スープ」

「食べやすいものがいいかと思って。体調が悪くて何も食べれてないみたいだし」

「体調?」

「学校には連絡しておいたから」

「学校……?」

「えーと、電車には乗ったけど、すぐに降りたの、覚えてる?」

「……」

「……」

 そして、計都は何もかも思い出した。

「あ゛」



 気まずい。

 非常に気まずい。

「お口に合うかしら」

「あ、はい、おいしいです……」

「本当はビーツとサワークリームを入れてボルシチにしたかったんだけど、材料が足りなくてポトフになってしまったわ」

「こ、今度買っておきます……」

 思わず敬語になってしまっていた。

「良いマンションね。エントランスの自動ドアは電気錠式だし、エレベータも自分の部屋のある階にしか行けない。部屋の玄関は二重鍵。いたるところに防犯カメラもある。1階のラウンジは24時間空調が効いてて、掃除も行き届いてる。管理費が高そう」

 計都は食事の手を止めて頭を下げた。

「あの……ごめんなさい……ここまで送ってくれたのに……」

「まぁ、弱ったところに付け込んであなたの家に上がり込んだということは否定しないわ」

 ソユーズは片手を差し出して食事を続けるよう促す。たっぷりと野菜の入ったポトフは塩気が抑えられていて、具材も柔らかく、今の計都にも食べやすかった。ついで野菜の味が染み出ていて、お世辞でなく良い味だ。

「ただ、来なければ良かったとも思っているわ」

「?」

 ソユーズは頬杖をつきながら言った。

「あなたが他のひとと暮らしていたなんて。嫉妬で狂って死にそう」

「ゲッホゴッホ!!」

 むせた。

「べ、別にいまどき珍しくないでしょ……」

「ウイって人? さっきそう言ってたわよね」

「……」

 羽衣。

 その名前を聞くたびに、胸に空いた穴のことを思い出す。暗くて深いそれは、一度覗き込むとしばらく離れられなくなる。穴の中を手で探れば、彼女との思い出がいくつも出てくるだろう。しかしそれは泥で出来ていて、手にした瞬間に崩れ落ちる。

「……ねぇ」

「?」

 あなたの力で羽衣を探せない?

 そんな言葉が喉元まで上がってくる。今にもあふれ出てきそうだ。

 しかしそれは薬物の力を借りるということだ。あの憎くてたまらない、この世の全ての悲劇の根源のようにも思える、忌々しいウイルスから作り出された薬物の。

 そして何より、彼女の力を借りるということだ。自分から全てを奪い去った元凶から力を借りるということだ。

「……ううん、やっぱりなんでもない」

 計都はポトフを口に運んだ。よく噛んだ後、こぼれかけた言葉と一緒に飲み込んだ。



 食後の――食事をしたのは計都だけだったが――コーヒーは計都が用意した。用意したといってもインスタントコーヒーだから大した手間ではなかった。

「おかげでだいぶ気分が良くなった……その……あ、ありがと」

「どういたしまして」

 ソユーズはカップを両手で包み、大事そうにコーヒーを口に運んでいる。まるで超高級な豆で淹れたコーヒーでも飲んでいるかのようだった。

「はぁー……ケイトが淹れてくれたコーヒーを飲めるなんて……このコーヒーのカフェインならどんな麻薬よりもハイになれそうだわ……」

「バカなこと言ってないで飲んで。冷めるわよ」

 しかし結局ソユーズは、コーヒーが冷めてしまうギリギリまで、惜しむようにゆっくりとそれを味わっていた。

「帰り、送っていくから」

「別にいいわ。それほど遠くないし」

「ダメ。あなたを狙っている人は、あなたが思っている以上に多いわ」

「それに、今日はトラブルが起きる未来は見ていない」

「う゛……それでも一応念のため!」

「タクシー使うつもりだし……」

 と、そこで彼女は言葉を切った。少し考えるそぶりを見せた後、何かを閃いたように表情を明るくした。

「分かった。じゃあ一つお願いがあるわ」

「?」

 ソユーズは玄関の方を指さした。


「あなたの後ろに乗りたい」


 計都は2つ思い出した。

 1つは玄関にヘルメットを置いてあったこと。

 そしてもう1つは、免許証を彼女に見られていて、自分が中型二輪オートバイの免許を持っていることを知られてしまったということだ。

 


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