第16話 心と涙を凍らせて
「ぅ……オええぇっ……」
大丈夫なものか。
計都は涙をぬぐいながら
いぶきには大丈夫そうに振る舞ってみたものの、そんなものは早く一人になるための
胃の洗浄を終えてから何も食べていない。吐くものはない。ただ胃液ばかりが逆流する。口の中には酸味がべったりと貼り付いていた。水分を吐き出し過ぎて脱水症状になってしまいそうだ。
自分の
けれど自分自身であるがゆえに、どこまで行っても逃げられず、嫌悪感ばかりが蓄積されていく。実体の無いものを吐き出すことはできないから、代わりの何かを吐き出すしかなかった。
しかし当然ながら、それで楽になることはなかった。ニルヴァーナ・ウイルスの苗床たる人体を
トイレの個室から出て洗面台で口を
病室に戻る。新星とその他の私物をまとめた。スタッフステーションに向かい、夜勤の看護師に帰宅する旨を伝え、会計は後日でOKなことを確認してエレベータに乗り込んだ。
一旦自宅に戻ってシャワーを浴びて、制服に着替えた頃には、もう街が動き始めていた。家を出て淀宮駅に向かってみると、昨日の出来事などまるで無かったかのような、いつも通りの光景が広がっていた。たとえ世界が終わっても、この駅はこのままのような気さえした。
計都は改札近くの壁に背中を預ける。スマホを取り出してぺしぺしといじってみるが、別に何を見ているわけでもない。彼女が見ているのは、改札に流れ込む人の波。その中に紛れ込んだ、しかしキラリと煌めいて見逃すことのない、白銀の髪を持つ少女だ。
計都は壁から背中を離して歩き出す。少女――ソユーズと同時にリーダーへ定期をかざし、改札を抜けるとそのまま横に並んだ。
「おはよう。電車が止まってなくて良かった」
「そう」
「あなたとここで会えるなら、べつに止まってても良かったかしら」
「……そんなことない」
2人は地下へ降りて同じ車両に乗り込んだ。
ラッシュ時の電車はいつだって満員だ。否が応でも近くの誰かと密着してしまう。たとえそれが、どんなに忌々しいと思っている相手でも。
「ちょっと、その……ドキドキするわ」
「やめて」
ソユーズが目の前で頬を赤らめている。向かい合う形で、計都とソユーズは密着していた。彼女の体の凹凸が、ふわふわとした柔らかな感触が、日差しに似たぬくもりが、冬咲きの花の香りが、計都の神経を刺激する。全身で彼女を感じさせられる。頭がくらくらした。いや、違う。これはきっと寝不足だ。
「昨日の件、一応お礼を言っておくわ……ありがと」
「……驚いた。明日は猛暑日かしら」
無礼な人間に思われていたなんて心外だった。抗議の意味を込めて睨んでみる。
しかし。
「……大丈夫?」
ソユーズからの言葉はそんなものだった。普段の彼女に似合わず不安そうだ。
「ひどい顔。何日も徹夜した後みたい」
ソユーズの背後の窓ガラスに、自分の顔がうっすら映る。おぼろげに映ったその像だけでも、目の下にクマがあるのが分かった。昨日いぶきたちが帰った後、結局一睡もできなかったせいだろう。
「気にしないで」
「そう言われても……」
照明の光が目に重い。こんなことまで忠実に再現する必要はないのにと、計都は義眼の性能に改めて驚かされる。
不意に心臓が
「――呼吸が浅い。脈も早いわ。とても疲労がたまっている証拠よ。家に帰って休んだ方がいい」
「そんなわけにはいかない……あなたを監視しなきゃいけない」
「じゃあわたしも一緒に休む。ね? 家に帰りましょう?」
「そんなこと言われる筋合い無い。ていうか離して」
「じゃあ抵抗してみて。できるものなら」
そんなことは容易い。計都は体に力を込めた。
込めたつもりだった。しかし自分の腕は、肩は、思い通りに動いてはくれなかった。
「ほら、できない」
ソユーズが体を離す。スマホを取り出して、学校の電話番号を調べているようだった。支えを失った体が重い。立っているのも正直辛い。
「体力の問題じゃない。気力の問題よ、ケイト」
電車がガタンとゆれた。その拍子に胃液が逆流しそうになる。口元を押さえると同時に、思わずソユーズにすがっていた。ソユーズは何てことないかのように受け止める。電車のドアが開いて、電車の中身が溢れ出る。その流れに乗って、計都はソユーズに手を引かれて外へ出た。学校の最寄り駅ではないどころか、淀宮駅からまだ1駅目だった。
「もしもし? 1年のソユーズ・シルダリヤといいます。あの、同じクラスの離々洲さんと会ったんですが、とても体調が悪そうなので、病院に連れていくか、家まで送るかしたいんですが……はい……はい、そうです。はい――」
整然とした言葉運び。こんな風に話せたのか。自分の前にいる時の彼女がいかに甘ったるい態度なのかを知る。
「はい、お願いします。失礼します」
通話が終了してから、ソユーズが再び手を握る。
「歩ける?」
いつの間にかホームにしゃがみ込んでいたらしい。目を開けると地面が近かった。顔を上げる。星空がこちらを覗きこんでいた。吐き気を一瞬忘れる程度には、その瞳は美しかった。
「来て」
もう自分で考える気力もない。ソユーズに言われるがまま、手を引かれるがまま、計都はホームを歩く。静かに歩く。普段は使わないエレベータを使って、2人はまもなく地上に出た。
「深呼吸して。大きく吸って、ゆっくり吐く」
ソユーズの指示のままに呼吸する。冷たい空気が肺に沁みる。
自分は弱い。もっと体を機械に挿げ替えれば、痛む心が無くなれば、あるいはもっと強くなれるのだろうか。何があっても挫けない自分を手に入れられるのだろうか。
嗚呼、北の山から吹き下ろす冷たい風よ。こんなにも苦しいのならいっそ、どうか私の心と涙を凍り付かせてください。
冷たい霜柱を思わせるソユーズの白銀の髪を眺めながら、計都はそう願っていた。
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