第12話 ロータス・ラヴ


「何から話せばいいかしら」


 ソユーズは耐熱ガラスのカップにハーブティーを静かに注ぐ。こぽこぽとした水音が耳にやさしかった。茶で満ちたカップからは湯気が立ち上ぼり、ハーブの豊かな香りが広がった。

「……綺麗な色」

 新緑の陽射しを絞り出したような、鮮やかで澄んだハーブティーの色に、計都は思わずこぼしていた。

「コツがあるの」

「コツ?」

「故郷ではお茶の時間は数少ない楽しみの一つだった。だから自然とお茶の入れ方にこだわるようになる」

 故郷。

 いまいちピンと来ない言葉だった。いやしかし、彼女にも故郷はあるに決まっている。想像もできないが、両親だっているのだ。

「たしか……レニンスク?」

「聞いていたのね」

「あれだけ隣の席で話されていればね」

「そう、レニンスク。それがわたしの故郷の名前。大河のほとり、肥沃なる大地に建つ科学の街」

 ソユーズは自分のカップにもハーブティーを注いだ。ポットや茶こしを扱う指先は細やかで、白く滑らかなそれは陶器に似ている。茶器と指、並べてみるとどちらが作り物か分からなくなる。

「だけどその名前は地図から消えた」

「え?」

 かの国とその周辺は、日本と比べれば政治的・経済的・地理的に厳しい環境にある場合が多い。冷戦の荒波の中で生まれては消えた都市や共同体がいくらでもあっただろう。レニンスクもそんな都市の一つだったのだろうか。あるいは――。

「名前、変わったから」

「帰っていい……?」

 痛みを覚えた額に計都は思わず手を当てていた。

「今のはちょっとした冗談」

「家に呼びつけたからには色々話してもらうから。冗談を聞いている暇はないの」

「分かっているわ。でもせっかくなんだから、ゆっくり他愛のないおしゃべりでもしたいとは伝えておくわ」

 ソユーズがカタリとカップを置く。そして窓の外を一瞥した後、水面を滑り出す船にように静かに語り出した。

「ニルヴァーナ・ウイルス。言わずと知れた、史上最悪と呼ばれる、至福のウイルスよ。人間に感染すると急速に進化して、体表に葉を茂らせて蓮の花ロータスを咲かせる。花からは感染性の花粉―― 蓮の花粉は、本来は風に舞ったりしないのに――が舞って、さらに感染者を増やしていく。人間という淀んだ水たまりは、ウイルスの苗床として最適だったわ。

 そして罹患した人間は、ウイルスが光合成と共に生成する麻薬物質を供給されて、極めて強い幸福感と快感を得続ける。栄養も供給されるものだから、死にもしない―― ろくに動きもしないから、生きているというよりは、死んでいないだけといった方が適切かしら。光と水があれば生きていられる独立存在よ……麻薬物質は、ニルヴァーナ麻薬と呼ばれているわ」

 それは教科書通りの内容だった。

「ニルヴァーナ麻薬は非感染性。だから麻薬として取引の対象となっている。とびきり効くけど希少だから、とても高値で取引されているわ。日本ではまだまだだけど、世界的なマーケットの規模は計り知れない――それこそ、水底の泥に伸び広がった根のように……」

 だからこそ計都たちのような組織があるし、彼らはなりふり構わずウイルスの根絶と麻薬の取り締まりに尽力するのだ。たとえ、自分の生身を捨てようとも。

「と、ここまでは誰でも知っていること」

 高速で走る車の前に、生身の人間が飛び出せば、その人間は車にぶつかって死ぬ。

 ソユーズがいま語ったことは、それと同じくらい常識で、当然で、自明なことだった。

「でも、ニルヴァーナ・ウイルスの悪夢はまだ終わらないわ」

「……」

「ねぇ、あなたは知ってる?」

「……何のこと」

「【Lotusロータス Loveラヴ】。この先にあるくらやんだ、身を焼くようにほとばしる闇の名よ」

「……」

 ソユーズは傍らにあった戸棚から、一つのプラスチックケースを取り出した。クレジットカードくらいのサイズで、厚みは5ミリくらい。タブレット菓子のパッケージに似ていた。

「手を」

 一瞬迷った後、計都はそっと右手を差し出す。

 ソユーズはわざわざその手を掴んでから、計都の手の上でプラスチックケースを振った。そこから転がり出たのはピンク色の錠剤だった。

「……? これは?」

「それがロータス・ラヴよ」

「これが何だというの」

「ニルヴァーナ麻薬から精製されているわ。ニルヴァーナ麻薬の、だいたい15倍くらいの価格で取引されているわね」

「! ! ! !」

 計都は思わず立ち上がる。手のひらに乗っていたロータス・ラヴは床に落とした。カン、コン、カカカン、と軽い音がして、錠剤はどこかに転がっていった。

「っ……麻薬取締法違反よ! 釈放中に何てことを……!」

 計都は立ち上がって楽器ケースを取り上げた。抜刀できないにしても、いざとなれば楽器ケースのままソユーズに殴りかかれば良い。

「まだ続きがあるわ」

 慌てる計都を見ても、ソユーズは微動だにしなかった。浮ついて、軽薄で、芝居がかったような普段の振る舞いが嘘のようだ。今は凪いだ瞳で、ただ静かに計都を見つめている。

 計都はその瞳に……彼方の銀河を見るような感覚を覚えた。それは穏やかで、薄明りで、しかし煌めいて、いつまでも眺めていられる、深くて、遠い、全てを包み込むような――。

「……っ」

 暴れる必要はない。少なくとも今はまだ。

 冷静になった頭でそう判断した彼女は、静かにソファに腰かけた。しかしソファに座っても楽器ケースを手放したりしなかった。それどころか中から新星を取り出した。もうハーブティーを飲む気にもならないらしい。

「続きを話して。それで判断する。あと、そのケースを渡して」

「ありがとう」

 礼を言いつつソユーズはプラスチックケースを差し出した。受け取ったケースを振ってみると、かしゃかしゃと音が鳴った。かなりの量がある。得体のしれないものに手を触れてしまった悪寒が、次々と押し寄せてきていた。

「ロータス・ラヴは、その服用によって、人間が持つ能力を最大限まで引き出すことができるわ。引き出される能力は人によって異なっていて、任意の能力を引き出すことは、今のところできていないけれど」

「……」

 ソユーズの話が本当だと仮定して。

 本当だと仮定すると。

 あくまでまだ信じていないという意地を内心張りながら。

「一体あなたは、この薬で何ができるというの……」

 恐る恐る。

 計都は尋ねていた。それは何が潜むか分からない、にごった水に手を突っ込むような感覚に似ていた。

 ソユーズはシンプルに答える。


「未来が見える。私はこの効果で政府と取引をした」



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