第10話 防疫課


 日々の苦痛に耐えかね、しかし死を選ぶこともできない者たちにとって、ニルヴァーナ・ウイルスはある種の最適解だった。


 死ぬわけではない。

 苦痛があるわけでもない。

 むしろ素晴らしい幸福と快楽が待っているらしい。


 残された者たちに膨大な負担を強い、また望まない者を巻き込む恐れを顧みなければ、魅力的な回答ソリューションに思えるのだろう。そんな側面が、このウイルスが取り巻く環境を一層難しいものにしていた。

 楽になる方法を求めて、どうにかしてウイルスに罹患しようとする者がいる。

 安楽死の代替手段として、希望者にはウイルスを提供しても良いのではないかと主張する者もいる。

 全人類がウイルスに罹患すれば世界平和が訪れるから、全人類はウイルスに身をゆだねるべきだと主張する者もいる。

 そして、そんな考えから意図的にウイルスを拡散しようとする過激派もまた存在していた。

「彼女はどこからウイルスを?」

「スマホの通信記録と近くの防犯カメラ映像をあらってる」

「分かったら教えてください。叩きますから」

「チっ……いぶき、お前の部下は血の気が多すぎるぞ。こんな子供なのにゾっとする」

「血の気が引いたかしら。短気なあなたにはちょうどいいんじゃない?」

「誤魔化すな。離々洲とか言ったな? いいか? この仕事は辞めろ。すぐにだ。辞表の書き方分かるか? 教えてやるぞ?」

「さすが高校時代にバイトをクビになりまくっただけのことはあるわね」

「こっちから辞めたんだ、こっちから!」

「はいはい」

「お前なんて高校生だって信じてもらえなくてバイトできなかったくせに!」

「失礼ね。どいつもこいつもセクハラ目的で雇おうとしていたのが見え透いていたから私から辞退したのよ」

「ハっ! お前みたいなお子様体型をセクハラ目的で雇うとかありえねー!」

「何ですって?」

「やんのかコラ!?」

「お二人は本当は仲が良いんですよね? そうなんですよね??」

 バチバチと火花を散らす二人に、計都は正直辟易していた。もっと普通に仲良くしてほしい。

「ところで陽咲。飛天さんの件は何か進展ない?」

「それらしい話は聞かねぇ。夜中にうろちょろしてるガキは全部声かけるよう頼んでるけどな」

「飛天さんとソユーズの釈放の因果関係は?」

「わかんねぇ。けど、ソユーズ釈放の件はどうもずっと上からの話みてーだな。検察の連中もボヤいてた」

「……」

 二人の会話を尻目に、計都はソユーズとの約束を思い出していた。


『取引をした。この国の政府とね』

『わたしの家に来てくれたら、教えてあげる。一緒にお茶しましょう?』


 こんな話をいぶきにすることはできない。まして警察官である火崎の前ではなおさらだった。信憑性が無さ過ぎだ。まずは自分で話を聞いて、本当だったら報告すればよし、戯言だったら口から出さなければいい。

「ありがと。何か分かったら教えて。無理はしなくていいから」

「お前のためにムリなんかしねーよ。キャリアが惜しいからな、うはは」

「……あ、そういえば」

 いぶきが車に戻って何かを持ってきた。

「あなたがよく行くスーパー銭湯のサービス券もらったんだけど、いる?」

「おーいるいる―― あ、これ2人で行くともっと割引かかるやつだ。おい、一緒に行こーぜ。何なら今から行こーぜ。こっちはカメラの解析結果待ちだし、お前はもう別のチームに任せりゃいいだろ」

「良いけど、人の頭をひじ掛けにするのはやめて」

 ごっ、といぶきが火崎のあばらに頭突きをかました。火崎はうははと笑った。連携すべきセクションの人間の仲が良いのは理想的だろう。

 正直スーパー銭湯は興味がなかったので、計都は「じゃあ私は帰りますので」とスクーターのカギを取り出した。

 その時だった。火崎のスマホが鳴動する。一瞬嫌そうな顔をした後、表情を引き締めて電話に出た。


「火崎です。はい、お疲れ様です…………は? カメラと通話履歴の解析終わった? ……んですか? ……ええ、ええ……はい…………はーい……」


 ピ。

「クソが! 有能かよ!」

「本当に有能なようね。ま、温泉に入ってる時に呼び戻されるよりはいいんじゃない?」

「そうだけどよぉ……そうだけどよぉ……」

 火崎はへなへなと道路に座り込んだ。一度休憩モードになった体が仕事モードになるのを拒んでいるのだろう。

 そんな彼女に影が落ちる。

 火崎が顔を上げた。新星を握った計都が、火崎のことを見下ろしていた。


「目標はどこですか」


 そう尋ねる眼差しは、とても血が通っているとは思えないほど冷たかった。

 この一件が片付いたあとのスーパー銭湯で、火崎はいぶきにそう語った。




「た、たっ、助けてくれ……! 体から、体から葉っぱが生えてくるんだよ……!」


 情けない声を上げる男。

 計都から逃げ回るあまり、売り物に自ら感染するという愚を犯していた。

 彼は地べたに座り込んで、体から生えてくる葉や蔓を必死に引きちぎる。まだ麻薬の効果が薄いのか、その顔は恐怖に歪んでいた。

「ひぃいっ! いやだ! いやだ! くそ! くそぉ!」

 全身をかきむしる。首筋に至っては出血していた。ジタバタともがく男を、計都は静かに見下ろしていた。その眼差しには一片の慈悲もなく、無色のガラスのように冷ややかだ。

「感染したのね」

 計都の左手には抜き身の新星が握られている。口元は防塵マスクで覆われており、声は少しくぐもって聞こえた。

「咲かれると感染者を増やす恐れがある。だからその前に【処分】するわ」

「な、なに言って……ぐぁっ!?」

 計都は男を蹴り倒して胸を踏みつける。そして新星を両手で持って、男の首にそっと添えた。

「おい、まさか……待 ――!」


 ざぐっ!


 腕に力を込めると同時、かひゅっ、と空気が抜ける音がした。計都の顔と衣服にビシャリと血が飛沫ひまつしたあと、地面に血だまりが広がっていった。血で濡れた新星の刀身は、夕闇を思わせる色合いに染まっていた。

「咲いたあなたの面倒を見るなんて、この国はお断りよ」

 それに、人にニルヴァーナ・ウイルスを売りつけるようなクズを、家族と同じ病棟に入れるなんて絶対にイヤだった。

 ウイルスの成長は止まったようだ。葉に覆われた、しかし花を持たない死体が、彼女の足元に横たわっていた。

「……終わりました」

『了解。あとは陽咲と除染・移送チームに任せるわ。戻って検査を受けて』

 いぶきとの通話を終えて、彼女は身をひるがえす。建物の出口に向かって歩き出した。

 ここは臨海部の廃倉庫を改造した隠しヤードだった。ニルヴァーナ・ウイルスの作り出す麻薬成分を、罹患者から抽出する設備がそろっていた。

 当然、ニルヴァーナ・ウイルス罹患者が違法に収容されていた。ニルヴァーナ・ウイルスに感染してここに収容―― 否、監禁されていた者の身元を調べれば、たいていは行方不明者として捜索願が出されている者たちだ。

 建物から出る道すがらに、何人かの人々が倒れていた。男も女もいた。いずれも、建物の照明を落とした後の暗闇にまぎれて、計都が一人一人意識を奪った者たちである。彼らはこの後、警察に捕らえられて事情を聞かれることになるだろう。



「お疲れさん」

「……お疲れ様です」

「そのコートは置いてけ。コレやるから」

 建物の外で待ち受けていた火崎は、自分のジャケットを脱いで計都に差し出す。丈の長いミリタリー調のジャケットだった。

「そんな血まみれのコートで帰るな。別の警官に職質されると面倒だ」

「いいえ。これはニルヴァーナ・ウイルスの花粉が付着している恐れがあります。保健署で確実に処分します」

「しかしだな」

「失礼します」

 計都は頭を下げてから、スクーターで走り去った。

 そんな彼女の後姿を眺めながら、火崎は大きなため息をついた。

「……何なんですか、あの子は」

 彼女の部下と思しき男性が尋ねると、火崎は思い切り彼を睨みつけた。が、すぐに諦めたようにまたため息を吐いた。

「【防疫課】だよ」

「防疫課?」

「ああ」

 3年前のバイオテロを経験した淀宮は、他の市町村には無い特異な行政機関があった。


 【淀宮市保健署】。


 淀宮市保健はその字の通り、他の市町村に存在する保健とは業務と権限について一線を画する。

 つまり、【署】の字を冠するところ、警察署や税務署などと同じように、彼らはニルヴァーナ・ウイルスをはじめとするバイオテロ、バイオハザード、麻薬犯罪といった事態において、極めて強い捜査権や逮捕権を有していた。


 さらに非公式ながら、バイオテロやバイオハザードを予防するために必要であるならば、殺人を含むあらゆる措置を取ることすらも容認されていた。


 保健署の中でその非公式の部分を受け持っており、まさに計都やいぶきが所属しているセクション―― それこそが防疫課だった。

「ニルヴァーナ・ウイルスはこの国にいくつかの怪物を生み出した。一つは巨大な麻薬マーケット、もう一つは機身を生み出した身体忌避論者たち、そしてもう一つが防疫課だ。ヤツらは地獄の果てまでウイルスを追いかけて、血飛沫でウイルスを洗い流す」

 防染服に身を包んだ一団が現れる。ヤードの中にいた罹患者たちを運び出すのだろう。火崎は彼らを眺めつつ、すっと目を細めた。


「3年前の事件の被害者ってのは、思ったよりも多いらしい」


 口外するなよ。

 火崎はそう言って部下の男性を追い払った。





 

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