第9話 右眼のアイリス
割られたガラス窓から校舎に侵入した。
目標を探して辿り着いたのは、校舎の最上階に据えられた体育館だった。最上階に体育館があるのは、都市部で敷地の確保ができず、かつ臨海部で地下の水気が多い土地柄ゆえの苦肉の策なのだろうか。
体育館への扉は開いている。
計都の左眼―― 透視の義眼・ミュオニスは、中にいる目標のシルエットを捉えていた。体育館の中央でうずくまっていることは分かるが、ミュオニスの精度では咲いているかどうかまでは判別できなかった。
近づいて確かめるしかない。
計都はミュオニスをオフにする。レントゲン写真が崩れていき、やがて視界が闇に覆われた。ミュオニスのおかげで、暗闇でも人や移動の障害になるような物は把握できるので、ここまで照明は使用していなかったのだ。
そして体育館内の照明も点いていない。できれば明かりを点けずに、かつ静かに接近したいところだが、ただの人間には難しいだろう。
しかし計都には、それを可能にする手段があった。
暗視の義眼【アイリス】。
彼女の右眼窩に埋め込まれた機身の名前だった。
ある時は闇に隠れる目標を見つけ出し、またある時は闇に潜んで目標に迫ることを支援する機身だ。
彼女はアイリスをオンにする。
闇からグリーンの光がにじみ出て、体育館の壁や床、そこに貼られたコートのラインテープなどが浮かび上がる。アイリスが見せる視野だった。
原理は既存の暗視スコープと同じだ。赤外線を利用し、暗闇の中を可視化する。
OFFになっている時は通常の視野を提供できること、そして2種類の機能が詰め込まれたものが極めて小型化されていること以外は、それほど特筆するべきものではない。
問題なのは、他の手段で比較的容易に代替できるにもかかわらずそれを開発し、またアイリスを装備するためだけに生身の眼球を捨てたことである。
機身は、ニルヴァーナ・ウイルスの苗床たりえる人体すら忌避し始めた者たちの狂気・脅迫・闘争・逃走の果てに生まれた科学の粋だ。
自ら生身を捨て、体を機身と挿げ替える行為は、それ自体がニルヴァーナ・ウイルスへの途方もない憎悪の証明の1つだった――まだ若く健康な肉体を持つ少女である計都ならなおさらに。
計都はいったん目を閉じ、防塵マスクの装着を再確認してから呼吸を整える。新星を引き抜き、刀身を右後方に流して構えた。そして闇の中、体育館の中心へむかってゆっくりと距離を詰めていった。
やがて―― 花が一輪、闇の奥からクビを出した。
「くっ……」
計都は思わず目を閉じ
間に合わなかった。
またしても犠牲者が増えてしまったのだ。
3年前のあの頃より、自分にはできることは増えたはずなのに、この有様だ。自分の非力さを呪った。
しかしそれでも仕事を完遂しなくてはならない。計都は新星を鞘に納め、スマホでいぶきに連絡した。
「除染と移送の用意をお願いします……」
一言で用は足りた。
計都は再びぎゅっと目を閉じて、胸の痛みが収まるのをじっと待った。処分せずに済んだではないか。そう自分に言い聞かせて。
さらに花に接近すると、ふと窓から蒼い光が射しこんだ。雲が流れ、月が顔を出したらしい。不要になったアイリスをオフにすると、光に照らされた蓮の花が、色合い鮮やかに浮かび上がった。罹患者の顔は葉が茂って見えないが、葉の隙間から覗く服装を見る限り、女子生徒のようだった。
「誰か……いるんですか……」
「!」
心臓が止まるかと思った。
まさかまだ意識があるとは思っていなかったからだ。
「……驚いた。まだ意識があるなんて」
「はい……でも、きっと、すぐに消えます……ああ、だけど、聞いていたとおり。本当にすごい……こんなに幸せな気持ちになれたのは初めて……」
ウイルスの供給する麻薬の中毒症状だ。一度味わったら、もう二度と抜け出すことはできない。その依存性は極めて高い。
「あなたのこえも、とても美しく聞こえます、あし音も……まるで讃美歌と、天使のかなでるハープみたい……」
「そんなものは幻覚よ……虚構に過ぎない」
「いい、です……現実なんて、つらいだけだった」
すでに過去形で語られる言葉が痛々しい。自分がもう戻れないことを平然と受け入れているのだ。
「このウイルスはやさしい……だって、こんなわたしに花を
「ッ……」
あまりに悲痛な言葉に声が出ない。視界が歪むのを抑えられなかった。
彼女がこんな風になってしまう前に、なんとか手を差し伸べることができなかったのか。そう思わずにはいられない。
「これは……復讐でも……あるん……です」
「復讐……?」
「そう、ふく讐……これデしばらく……たいいく館は使えなイ……」
ぐらっ。
抱えた膝が崩れる。少女はそのまま床に体を横たえた。
それを合図に、彼女の体表にますます葉が茂り、さらに数輪の花が開いて、月下にその姿を誇らしげに晒した。おぞましくも美しい姿だった。
「ざま……みろ……」
そのセリフを最後に、少女はもう、何を言わなくなった。
顔を覆う葉をかき分けてみれば、彼女の微笑を拝めるだろう。
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