第5話 悲劇の雨


「夢を見るの。雨の夢」


 少女はぽつりとこぼした。

「……夢?」

 計都は少女を見下ろす。見下ろすといっても、2人ともベッドに横たわっているので、地面に対しては水平方向だった。少女が計都の肩に頭を寄せているため、少女を見ようと思うとそうなった。顔はあまり見えず、少女の白銀の髪や控えめにふくらむ胸元に視線が吸われた。

「真っ黒な雨。すすと血の匂いが混ざり合っていて、ぬるぬるとしていて重いの。

 世界の全部が黒い雨で汚れて、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていて、純粋なものなんて、闇の暗さ以外には何も無くて、空には太陽も月も無い。暗くて雲があるかさえ分からない。時折はしる稲妻の、青白い光だけが、そこが微かに空だということを教えてくれる……」

 さらに少女が計都に素肌を寄せる。少女に握られた手から、微かな震えが計都に伝わってきた――まるで計都はぬいぐるみ代わりだ。

「あれはたぶん、悲劇の雨。世界の終わり。その風景。何度も、何度も……いつまで経っても雨は止まない……」

 でもね、と彼女は体を起こす。計都の頬に手を添えたかと思えば、流れるような所作で計都の唇にキスをした。計都はもう驚かず、自然と迎え入れる。

「あなたとこうした日は、その夢を不思議と見ない。なぜなのかしら」

 答えは求められていない。計都はそう判断して沈黙した。するともう一度唇を求められたので、素直に差し出した。

「……あっ」

「あなた、本当に麻薬みたいな人」

 少女が急に、計都に覆いかぶさり身を重ねた。

 そして何事かと思えば。

「痛……ッ!」

 計都の首筋に痛みが走った。

 皮膚に何かが食い込む感覚がして、神経にみる。じっと痛みに耐えていると、しばらくして少女が体を離した。それと同時に鋭い痛みは治まったが、ジクジクした鈍い痛みが残っていた。

「はぁっ……はぁっ……っ」

「似合っているわ」

 少女は歯を見せて微笑んだ。きっと、その歯並びと同じ形の傷が、計都の首筋に刻まれていることだろう。

 痛みに顔を歪ませながら首筋を押さえる計都。その様子を満足げに眺めたあと、少女はするりとベッドを抜け出した。近くに放り出してあった衣類――ツナギではなくデスクワーク向けの服装だ――を素早く身に纏い、仕事に使うであろう書類をデスクから拾い集め始める。

「たぶん、もう会えない」

「え」

 予想もしない言葉に、計都は痛みを一瞬忘れる。

「仕事で、なんていうか、異動みたいのがあったの。だから、今までみたいにあなたと過ごすのは難しくなると思う」

「そう……なんだ……」

「……意外だわ。喜ぶかと思ったのに」

「なんでよ……ねぇ、この街には居るの? もしどこかで見かけたら、声かけて良い?」

「……あなたからそんな言葉を聞けるなんて、別れも悪くないかもしれないわ」

「あの、連絡先とか」

「ごめんなさい。スマホとか持ってなくて」

「そっか……」

 あとは――名前。

 名前を聞こうか? いやしかし、今までずっと、彼女と計都は名を知らぬ仲だった。なら、それをそのままにしておくことこそ、2人を再び引き合わせてくれるのではないか。そんな気がして、結局計都はその言葉を飲み込んだ。

「入口への戻り方は分かる?」

「大丈夫、だけど」

「まだまだ寒さは続くわ。風邪、ひかないでね」

 少女は書類を抱え、あっけなく部屋を後にした。彼女の私室――封印病棟内に設けられた、彼女個人の生活スペースだった――には、計都独りが残されていた。ベッドから彼女のぬくもりは消えてしまっていたが、計都の首筋には、鮮明に彼女の感触が残っていた。

 ほどなくして計都も、封印病棟をあとにした。

 封印病棟は、淀宮の北側に位置する山の山頂近くにあった。計都は自分のバイク――150ccクラスのスクーターだ。色は白い――にまたがり、下山を始めた。陽はすでに傾いており、曲がりくねった山道から時折見受けられる市街地には、美しい電光が灯り始めていた。

 首まで隠れるインナーを買わなくては。計都はそんなことを考えていた。



 月曜になった。

 いぶきから命じられた仕事が今日から始まる。何の因果か、自分から家族を奪った張本人の警護をしなくてはならない。

 時計の針は間もなく朝の8時を差そうとしている。他の生徒があまり通らないロータリーで、計都はじっと、ロータリーの入り口を見つめていた。

 すると。

「来た」

 思わず声に出ていた。

 タクシーがやってきた。黒塗りの、高級感あふれるタクシーだった。ロータリーを回り込んだあと、ハザードランプをつけて停車した。計都の目の前だった。

 会計を済ませているのか、スモークのかかった窓の奥で人影が揺れる。その数舜ののち、後部座席のドアが開いた。

「ありがとう」

 少女の声。

 車の中から聞こえたものだった。


 ――コン。

 ローファーが地面を鳴らす。

 血の気の薄い、ほっそりとした足が後部座席から伸びていた。

 車から体が出る拍子に、セーラー服のスカートの裾が流れる。前かがみだった体が徐々に起き上がっていった。起伏が穏やかで小柄な体を、セーラー服が包んでいた。が肩を滑り落ちたせいか、少女はそっと耳に掛け直す。長い前髪の奥、銀河を揺蕩たゆたわせたようにアメジストが、静かに計都を眼差した。


「はじめまして。あなたが私の警護を――――えっ」

「……なんで」


 そして2人ともが口をつぐんだ。


「……」

「……」

 お互いが瞬時に状況を理解した。だからこそ言葉がなかったのだ。

 因果だろうか? むくいだろうか?

 計都がその答えを出す前に、少女の方が声を上げた。

「……こんにちは」

 封印病棟で聞いたそれと同じトーンだった。

 こんにちは。

 そう、「こんにちは」が正解だ。あるいは「おはよう」だろうか。

 では不正解はというと、「はじめまして」だろう。

「あなたが私の警護を担当してくれる人ね」

 計都の見たことがある微笑みを浮かべると、少女はそっと手を差し出した。

「私はソユーズ。【ソユーズ・シルダリヤ】。よろしく、おねがいするわ」

 そして少女――ソユーズは続けざまに問うた。


「あなたの名前、教えてくれる?」





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