第4話 ニルヴァーナ・ウイルス





 ニルヴァーナ・ウイルス。


 比較的最近になって見つかったウイルスだ。

 人獣共通して感染するタイプのウイルスで、感染したウイルスは宿主の体内で急速にして形質を変えることが知られている。ウイルスは進化の最終形態で植物の【ハス】に非常によく似た形質に至り、宿主の体表に葉を茂らせ、花を咲かせるのだ。

 このウイルスは通常、湿った深い森の池や沼地といった、人里離れたエリアに生息している。

 しかし、ウイルスに感染した獣と人が接触したり、大雨でウイルスに汚染された水や泥が流出したりすることにより、人間に感染することがある。

 自覚症状が分かりにくいため、ある日唐突に花を【咲かせ】た人間が、周囲に花粉――ウイルスを撒き散らして、パンデミックにつながる危険を秘めていた。


 3年前のバイオテロに使われたのが、このウイルスだった。


 とある病院の人々を院内に閉じ込めたあと、空調設備を介して花粉を病院内に散布し、多くの罹患者を出した。計都の家族もこのテロの犠牲者になった。

 【咲いた】人間は死亡するわけではない。

 人体はウイルスにとって最適な環境だった。【淀んだ水】と【柔らかい土壌】という性質を持つ人体は、彼らの本来の住処である水底の泥に似ていたのだ。ウイルスはこれを見逃さず、宿主を生かさず殺さずの状態を維持することを選択する。

 ウイルスは体表に茂らせた葉で光合成を行う。そして光合成で作り出した栄養素を宿主に供給すると同時に、ウイルスはも生成して宿主に与えるようになる。

 麻薬物質の依存性は極めて高い。罹患者は間もなく、幸せそうな微笑みを浮かべながら、食事もとらず言葉も発さず、ただ水辺で太陽の下に佇むだけの、より言葉本来の意味に近い【植物】状態に陥る運命にあった。

「……」

 ガラスの向こうで、蓮の花が咲いている。

 分厚いガラスの内側は広く、植物園の様相だ。生い茂る南国性の植物が、ガラスの向こうの酸素の濃密さを視覚で訴えてきていた。

 美しい緑だ。ガラス張りの天井から太陽光が降り注いでいる。片隅にある人工的な滝からは、勢いよく水が流れ落ちていた。きっとごうごうと音を立てていたが、この場所からは聞こえない。一瞬だけ滝つぼで淀んだ水は、室内に這う小川に流れていく。

 覗き込む部屋の空気も水も、処理されずに外に出ることはない。室内は常に負圧に維持され、水は何重にもフィルタリングされて、かつ循環されている。ウイルスの主な媒介である花粉を外に漏らさないための措置だった。

 閉じた世界だった。

 時間が止まった世界だった。

 計都にとっては、3年前のあの日から。

「……」

 計都の眼差しはガラスの向こう、その一角に咲く蓮の花たちを見つめていた。

「……っ」

 計都はガラスに手をつく。

 ガラスに触れようと思ったわけではない。ガラスの向こうに手を伸ばそうとしたのだ。しかし当然、それは叶わない。下手にあちら側の空気を吸おうものなら、ウイルスに感染する恐れがあった。

 淀宮封印ふういん病棟びょうとう

 それがこの植物園じみた場所の名前だった。3年前のバイオテロの犠牲者を中心に、国内のニルヴァーナ・ウイルス罹患者のほとんどが収容されている。

 いぶきから話を聞いた翌日、計都はこの病棟を訪れていた。計都が見つめる一角に咲くのは、彼女の家族に咲いたウイルスの花だった。花の周りに茂る葉をかき分ければ、微笑を浮かべた家族の顔を見ることができるだろう。もっともその顔や体は、ウイルスの影響で3年前から加齢が止まっている。

 ウイルスの罹患者は確かに生きている。心臓は動いているし、日光や水辺を求めて、ゆっくりと移動することさえある。

 しかし意思疎通はできなかった。誰が何と言おうと、体に触れようと、穏やかな微笑みを浮かべて中空を見つめているだけだ。全てが麻薬による幸福感と快感に塗り潰されているのだ。

 彼らが生きていることは希望だろうか、悲劇だろうか。だが少なくとも計都にとっては、家族がそこにいることが確かな支えになっていた。

「こんにちは」

「!」

 背後からの声に振り返る。見知った顔が微笑んでいた。

「あ、こんにちは」

「また来てくれたのね。ご家族も喜んでいると思うわ」 

「だと良いんですけど。あ、いつもありがとうございます。家族の面倒をみていただいて」

「気にしないで。好きでやってることだから」

 そう言って少女は首を振った。

 少女。そう、少女だった。年のころは計都と同じくらいだろう。

 計都は彼女の名前を知らなかった。お互い名乗るタイミングを失くしてここまできてしまったが、いまのところ不都合がないのでそのままだった。

 少女の顔立ちはよくいる日本人とは異なり、西洋人のそれだった。そしてなにより、新雪のように美しく、長い白銀の髪が印象的だった。作業用と思われるグレーのツナギが、小柄な彼女にはとてつもなくミスマッチだった。

「私も手伝えればいいんですけど、仕t――学校もあるから週末しか来れなくて」

「自分ができる範囲のことをすればいいわ。無理をしても続かないし。それにこの仕事は、常にウイルスへの感染の危険がつきまとう。よほどの理由がない限り、手は出さない方がいいわ」

 といいつつこの仕事している彼女は、いったいどれほどの理由があるというのだろうか。もう2年くらいの付き合いだが、彼女からそれが語られたことは無い。

「ところで……顔色が良くないわ。何かあった?」

「えっ……わ、悪いですか……?」

「ええ、とても。たぶん、寒さじゃなくて、精神性のショックによるものね。体にぎこちなさはないし、寒いわけでもない。熱があるようにも見えないわ」

「……さすがですね……」

 計都は自分の顔をペタペタと触ってみる。いつもより少し冷たい気がした。

「医師の端くれだから。私で良かったら話を聞くわ。お茶でもどうかしら?」

「ありがとうございます。でも、人に話せる類のことじゃなくて……」

「なんでもいいの。それに」

「?」

「私もあなたと話しがしたい。同世代の子、ここにはいないから」



 ――ちゅっ……。


「!?」

 唇に触れた、湿った感触。

 反射的に体が後ろに逃げた。しかしすぐに彼女は追ってきた。

「っっ――! こんなところでっ!」

「別の場所ならいいの?」

 どん、と背中に何かがぶつかる。振り返ると壁だった。計都は追いつめられていた。

「ま、待っててば!」

「……」

 少女が至近距離、鼻と鼻が触れ合いそうな位置でこちらを見つめる。計都より背が低いせいか、彼女は上目遣いになっていた。美しい、物憂げに輝くアメジストの瞳が、その奥で銀河を揺蕩たゆたわせていた。

「わ、分かったから、ち、近い……っ」

「……ふふっ、少し顔色が良くなったようね。ついて来て」

「誰でもなるわよっ、こんなことっ」

 先ほどよりぐっと熱くなった頬を両手で押さえながら、計都はどこかへ向かう少女の後を付いて行った。

  

 

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