第3話 のせられて
「っ……ごめんなさい、私、帰ります……ッ」
「待って」
ドアノブに手を掛けた瞬間、反対の手をいぶきに捕まれた。
「お願い、話を聞いて」
「私はそんなことできません! 業務命令だからって限度があります! どうしてっ……!」
「上はたぶん、性別も年齢も一緒だからってことで安易に選んだ。彼女の編入先の学校もあなたと一緒の学校になってる。あなたの仕事は、学校内で彼女を一番近くで警護をすること。もちろん他の人員が学校に潜入して補助するわ」
「だったらその人たちだけで警護すればいいじゃないですか! 私にはできません! むしろ私はソユーズを――!」
パッパーッ。
「「!」」
背後からのクラクション。いつまでも発進しないいぶきの車にしびれを切らしたのだろう。立腹はもっともだ。いぶきは素早く安全を確認して発進する。
「……よく考えて、離々洲さん。もしソユーズ釈放の狙いが、飛天さんに対する撒き餌だとしたら、ソユーズを狙ってきた飛天さんに最も接触しやすいのは誰?」
「……それは……」
「あなたよ。悪くない話だと思う」
羽衣に会える。
きっと、一番早く。一番近くで。
その予想が、計都の心を大きく揺り動かす。
「あ……う……」
「あなたの今の目的は何? ウイルスを根絶すること? 薬の密売人を全部逮捕すること? 恨みを晴らすこと? 違うでしょう?」
違う。今の自分の目的はそんなことじゃない。
ただ、友達に会いたいだけだ。
「……わかりました」
「理解が早くて助かるわ」
いぶきは肩の力を抜いたようだった。
「物分かりが良いって褒め言葉でしたっけ……」
「わざわざ悪意のある言い換えしなくてもいいでしょ……無能を手元においておく余裕は無いわ」
若くして責任ある立場についているいぶきだ。有能であるがゆえに敵も多いに違いなかった。だからこそ、計都という懐刀は彼女にとって大切な財産だ。懐刀の内の一刀が欠けている今なら、なおのこと。
「ソユーズとの顔合わせはいつになりますか?」
「月曜の朝8時、タクシーで学校に登校することになってる。出迎えをお願いするわ」
「仲良くはできないですよ」
「ケンカしない程度で良いわ」
それはそれで難しい距離感だ。自分の精神性をあまり信用していない計都は、小さなため息をついていた。
「ところで、どこに向かっているんですか?」
「じき淀宮駅に着くわ。ぐるぐる回ってただけだし。誰にも聞かれたくない話だったからこうしたの」
たしかに誰かに聞かれて良い話ではなかった。計都が声を荒げたあたり、いぶきの判断は正しかった。
「家まで送ってく?」
「大丈夫です。歩きながら頭の中を整理してから帰ろうと思います」
「気をつけてね。あまり遅くならないように」
「家に帰っても、待ってる人もいませんけどね」
「そういう問題じゃないでしょ。それにそんな制服で歩いてて補導されても面倒だもの」
と、いぶきはホルダーの缶コーヒーに口をつけた。味はブラックだった。それにつられて計都も、いただきもののミルクティー缶を開封する。口に含んでみると、すでにぬるくなっていた。
車は中心市街地にもどってきていた。いまの計都には、車窓から景色を眺める程度の余裕はあった。
「着いたわ」
待ち合わせていた公園に戻ってきた。先程と比べると、少し通行人は減ったように思う。ハザードを点滅させた車はゆっくりと路肩に停車した。
「じゃあ、月曜はよろしく」
「はい」
シートベルトをはずして、計都はいそいそと降車の準備をする。窓の外を見やり、歩行者や自転車が近づいて来ていないか確認した。そして扉を開けようと、まずはロックに手をかけた。
「離々洲さん」
背後からの呼び掛けに計都が振り返る前に、いぶきは続けた。
「今日、残業頼めない?」
「え」
その言葉の意味するところに、計都は顔を赤らめる。
「きょ、今日……ですか……?」
「朝までには帰すわ」
「そ、そういわれて帰らせてくれた覚えが無いんですけど……」
「今晩は、独りで過ごすより良いと思うわ、お互い」
「それは……」
たしかに今の精神状態を考えれば、ヘタに独りで考え込まない方が良いような気もした。
「それにそのミルクティー、まだ残ってるわ」
「あの……準備、とか、全くしてないんですけど……」
「今さら何言ってるのよ」
「えっと、あのっ……っ」
間が持たずにミルクティーを飲んでみる。一気に飲み干してこの場を離れる理由にしようとひらめいたが、しかし甘ったるくて一気には飲めない。一旦缶から口を離した。
その拍子だ。
「――んんっ……、!」
計都の唇が、柔らかい何かで塞がれた。
「っ……んむっ……ちょっ、いぶきさ――んっ……!」
抗議の声を上げようとしても、すぐにまた唇が塞がれてしまう。計都を間近で見つめるいぶきの眼差しは、閉ざされることなくじっと彼女の様子を観察していた。ご丁寧なことに、計都の左手を押さえてミルクティーをこぼさないようにしていた。
「んっ――ぷぁっ! ……はぁっ……はぁっ…………い、いぶき、さん……」
いぶきの口づけから解放された計都は、しかしぐったりとシートに体を
「……甘いわ。とても甘い」
などとこぼしながら、いぶきは自分の唇を指先で撫でた。
計都は乱れた呼吸を整えながら、ミルクティーをホルダーに置いたあと、はだけたスカートの裾を下に引っ張った。彼女の睫毛は涙で濡れていた。
「じゃあ、行きましょう」
「あ……は……はい……」
「シートベルト締めてね」
「はい……」
返事から一拍遅れて、カチャン、と弱々しくシートベルトの留め具が鳴る。それを待っていたかのように、車はゆっくりと滑り出した。
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