第5話 【犬】

 私だってずっとずっと気が付いていた。渇根なんて田舎で、動物実験施設と言えばたった一つだ。

 気付いていて、でも信じたくはなかったから、ここを出ること以外は何も考えないようにしていた。そんなはずはないと思いたかったから、ずっと目を反らしてきた。

 だってあそこは黒藤の言う通り、十年前に火災事故で全焼している。燃え上がる炎が、動物も、建物も、大好きだった父さえも飲み込んで、何もかもを無くしてしまった。

 ただ一人────体調を崩して休養を取っていた母を除いて。

 もし、動物たちに私達と同じような心があったとして、そうしたらきっと実験動物たちは職員を恨むのだろうと思う。憎むだろうと思う。

許せないだろうと思う。

「逃げる事は許さないって、そう、声がしたんです」

何度だって蘇る。耳元で囁くような、電子音にも似た、あの甲高い声。

「きっと、彼らは私を殺したいんですね」

だとしたら、私は生き残れるのだろうか。綾子のくぐもった声が、脳裏の鼠の鳴き声の間を縫ってちらつく。次にああなるのは、私じゃないのだろうか。

「俺は鼠の言葉なんて聞いていない」

いつの間にか、黒藤は資料から顔を上げて真っ直ぐに私を見ていた。

「鼠は人の言葉を話さない。だからそれは恐怖がお前に聞かせた幻聴だ」

「じゃあ、あの【犬】も私達の幻覚ですか? 燃えたはずのこの施設も?」

今更、あり得る・あり得ないなんて問答に意味はないのだ。だって、何もかもがあり得ない。

「……自棄になるな」

黒藤は私の問いには答えずに、静かにそう言った。黒藤の目があまりに真っ直ぐ私を貫くから、私は言葉に詰まる。

 私は自棄になっているのだろうか? そうかもしれない。鹿島と浩が私の命を諦めたから、私も諦めようとしているのかもしれない。

 たった一人この人だけ────黒藤だけが、私の命を諦めずにいる。

 初めて会った時からそうだった。出会い方こそ乱暴でがさつだったが、初対面の私を助けてくれた。公園まで連れて行ってくれようとした。この施設に迷い込んでしまってからも、何度となく助けられた。今になってなおも私のそばを離れずにいてくれる。

「……どうしてそんなに助けてくれるんですか? 死んじゃうかもしれないのに」

この人一人でだったら、きっともっと楽だろうに。どうしてここまでしてくれるのだろう。

「元々俺は……」

黒藤は言いかけた言葉を切った。少しの間目を伏せて、やがて「いや」と一つ首を振る。

「俺は……獣医だ。だから、助かる命を諦められない」

黒藤は私の側までゆっくり歩み寄ると「出口を探すぞ」と言って私の腕を取って引いた。


***


 事務室を出た私達は、エントランスを横切る。

 黒藤が懐中電灯を持ち、私がスマホで撮影した地図を見た。

「とはいえ……出口を探そうにも手がかりがもう無いな……」

どの廊下にも窓はなく、近くの御手洗いを覗いても換気扇は頑丈に閉じられていて鼠も通れそうにない。

 まるで建物までもが誰一人逃がすまいとしているように思えた。

 エレベーターの隣に上と下に通じる階段を見つけたので試しに昇ってみる。しかし屋上へ続いているらしい扉は鍵がかかっており、固く閉ざされていた。鹿島の言っていた通りだ。

 ドアは見るからに頑丈そうで、私達の体当たり程度では敗れそうにない。仕方なく私達は登ってきた階段を下りる。

 階段の手すりに手をかけて、足元を照らす光を追うように足を踏み出して、その時光が不自然に歪んだ。

 小さな影が光の端を横切ったように見えた。ハッキリと姿は見えなかったが、「鼠だ」と直感的にそう思ったその瞬間、私の頭は真っ白になった。

「やッ」

咄嗟に後ろに下がろうとして、階段の段差に躓いて尻もちをつく。すぐ立たなければ、逃げなければと思うのに、上手く動けない。

 ──キイ──キイ

 耳の奥で小さな声が私の名を呼ぶ。肌を駆ける鼠の爪が、甲高い声が、息苦しさが、バチバチと明滅する。手すりを強く握る手が私の物じゃないくらいに震えていて、指先が嫌に冷たかった。今なら小さな鼠に悲鳴を上げて逃げ出した浩の気持ちが分かる。もう二度と、あんな恐ろしい目には遭いたくない。

 消えた鼠の影を追って辺りを見回す私の目の前に、黒藤がしゃがみ込む。

「大丈夫だ」

私は黒藤を見上げる。

「大丈夫だ。鼠も一匹で人間を殺せはしない。だから、大丈夫だ」

大丈夫だと、言い聞かせるように黒藤は繰り返す。相変わらず声に熱はなく、その声に止まっていた息が口から漏れる。

「立てるか?」

はい、と答えた声はカラカラに掠れていた。

「今一階を巡回するのは危ない。一旦地下へ行くぞ」

黒藤は立ち上がると、何事も無かったかのようにそう言って、また階段を下り始める。私は黙ったままその後に続いた。

 下りた先にはそっけない廊下があって、手前に一つ、奥に二つ、ドアがあった。

「え?」

私はスマホと廊下を見比べながら首を傾げる。

 スマホに写されている見取り図によると、この廊下から繋がっているドアは二つのはずだった。

 一つはロッカー室への扉で、一階と同じ間取りで更衣室、PL室を経てクリーン廊下──私が最初に倒れていた廊下へと続いている。もう一つは見取り図には備品倉庫と書かれている。

 私の頭越しにスマホを覗き込んでいた黒藤は、懐中電灯で一番奥のドアを照らした。

「どうやら見取り図に載っていないのはこのドアだな」

見取り図によれば飼育室があるはずの壁だ。

「俺が中を確かめるから、そこで待っていろ」

黒藤はそう言うと、躊躇なくドアへと歩いていく。

 黒藤の側を離れるのは心細くて、それに危ない事を彼に押し付けているようで気が引けた。けれど一匹の鼠にすら腰を抜かす今の私がいざって時に助けになれるはずもなくて、結局私は言われたままに少し離れた場所からドアを開く黒藤を見守る。

 ドアを開けた瞬間に何者かに襲われる、という事はなく、ほんの一分ほどで黒藤は私を振り返ると「大丈夫だ」と私を手招いた。

 私は駆け足で黒藤の元まで追いつき、彼の開くドアの中を覗き込む。

 その部屋は、今まで見た部屋とは全く異なる部屋だった。

 ドアには鼠返しがなく、代わりに私の首元ほどの高さのフェンスがドアを囲っていた。ドアの奥には見慣れた作業台とキャビネット。そして明らかに鼠のそれではない、私さえ入れそうな大きなゲージが三つ並んで鎮座していた。

「ここ……もしかして」

黒藤を見上げると、彼も「ああ」と頷く。

「あの【犬】の、飼育室だな」

つまりと言うか、やはりと言うか。あの【犬】もまた、この実験施設の被検体だったらしい。


***


 私達はフェンスに取り付けられた簡易的なゲートを開いて部屋の奥へと進む。この飼育室は、犬用と言う意味を除いてもそれまでの無機質で機械的な飼育室とは違った色合いを示していた。

 床は撥水性ジョイントマットが白黒交互に敷き詰められていて、棚には資料や備品に混じってゴムブラシやペット用のおもちゃが散見された。その隣には小さめの冷蔵庫があって、磁石でメモが止められていた。

「何て言うかこの部屋……実験施設っぽくないですね」

「PLを通さずに入れるし、恐らくセーフティレベルが低い実験だったんだろう。雑菌に気を使わない分、多少自由に出来る」

 部屋には入ってきたドアの他に二つドアがあるが、見取り図を確認するとこれまた一つしか載っていない。記載されている方のドアは実験室に繋がっていて、開くと確かに見慣れた実験室がそこにはあった。

 もう一方のドアの先は見取り図によれば会議室の壁という事になっていたが、開いてみると広々とした部屋の中には犬用の遊具やシャンプー台があって、とてもじゃないが会議室には見えない。

「間取り、全然違いますね……」

いよいよ信用できなくなってきた、と考えている私とは逆に、黒藤は「良いじゃないか」と言った。

「見取り図が正しくないなら、載っていない出口がまだあるかもしれないだろう」

「確かに、そうですね」

私達は手分けをして何か手掛かりがないか、もしくは武器になりそうなものがないか、探すことにする。

 私は会議室という事になっていた大部屋を調べる事にした。

 大部屋もまた一面にマットが敷かれていて、歩くと少し沈む。よく見ると所々に掘ったような傷があった。

一角にはトイレスペースが設けられていて、ペットシーツと雑巾が側に山となっている。

 奥には大型犬用のベッドがあって、毛布が敷き詰められている。

 実験施設の一室と言うよりは、室内犬を買っている人の部屋に近い。かつての我が家の犬部屋も、ちょうどこんな感じだった。

 だからだろうか。他の部屋より息が詰まらず、居心地が良い。

 広い部屋を見回していると、壁の一角に棚が取り付けられている事に気付いた。高い箇所にあるそれには、何か箱の様なものが置かれている。近づくと、それは小さな骨壺だった。それぞれ隣に写真が飾られていて、この部屋で遊ぶラブラドールとビーグルがそれぞれ映っている。枠には『ラッキー』『デイジー』と刻まれていた。この施設で被検体として働き、亡くなった犬なのだろう。私はそっと手を合わせて、そして部屋を振り返る。

 この部屋は完全に犬の遊び部屋らしく、特に資料などは置いてはいない。入ってきたドアの他に扉もない。出口の手掛かりは見つかりそうになく、だから鼠対策と【犬】対策に意識を向けて部屋を探すことにした。

 鼠の弱点はとりあえず水だ。シャワー台の横にバケツを見つけて、ここに水を溜めて鼠対策をできないかとシャワーの蛇口をひねったが、当然水は出てこなかった。

 【犬】の弱点は特に思いつかない。今までは物理的にダメージを与えたりして逃げてきたが、完全に制圧できたことはなく、次もまた上手くいくとは限らない。

 この辺りのおもちゃを投げたら気が逸れてくれないだろうか、と、足元に転がる骨の形のおもちゃを拾う。そう言えば、これと同じものを私も持っていた。

「紀伊」

ドア越しに黒藤の呼びかける様な声が聞こえてきて、私は「はーい」と返事をする。ドアの向こう側から引き戸の開閉音と、その少し後に重いものが倒れる音がした。

 何をしているのだろうか、と思いながらドアまで戻る。しかし私が手をかける前に目の前の引き戸ががらりと開く。

 どうかしましたか? 

 そう紡がれるはずだった声は、しかし喉元で止まってしまった。

 私の視界を埋めるのは白衣の白。けれどそれを着ているのは、黒藤ではない。黒い毛並みに銀色の瞳────あの【犬】だった。

「あ、う」

私は一歩二歩と後ろに下がる。犬は静かに私を見下ろしながら、ゆっくりとした動作で私を追った。

「こ、ないで」

絞り出すように、声を出す。血の気が下がって、身体が震える。

 【犬】は私の言葉に構わず、私に歩を進める。そもそも、私の言葉が分かっているわけがない。

 【犬】から離せずにいる視界の端で、引き戸が自重で閉まっていく。その向こうに、倒れた白が見えた。黒藤だ。声もなく、動く事もなく、ただそこに転がっている。

 生きているのだろうか。分からない。無情にも、扉が閉まり切り彼の姿が見えなくなる。

 また一歩、【犬】が私に歩み寄る。

「来ないで」

薄く開かれた口から覗いた牙が、スマホのライトを返して白く光る。浩の骨を砕いた牙だ。噛まれたらひとたまりもない。だらりと下げられた両腕の先には鹿島と黒藤を服ごと裂いた鋭い爪もついているはずだ。

 一歩、また一歩と背後に下がる。犬は私の動きをじっと見つめながら、私が下がっただけ距離を詰めて来る。

 どうにか逃げなければ。けれどドアはただ一つ、この【犬】の背後にある。逃げるには、【犬】を抜けるしかない。

 やるしかない。私は感覚のない手に力を入れた。

 手に持っていた骨のおもちゃを横に投げる。【犬】の鼻先がそちらに向いた瞬間に、私は逆側に足を踏み出した。

 姿勢を低く、なるべく大回りに走る。どうにかドアまでそうしたらきっと何とかなるから、とにかく今はドアまで。

「かっふっ」

視界が回転して、衝撃に息が詰まる。手元からスマホがすっぽ抜けた。何が起きたのか分からない。腕が痛い。背中も。転んだのか? だったらすぐに立たなくては。

 衝撃に反射的に閉じていた瞼を開くと、すぐ目の前には黒い毛並み。【犬】の顔面が、私の顔の目の前にあって、私は【犬】に押し倒されたのだと理解した。

「…………!」

もはや恐ろしさに声さえも出ない。目の前の【犬】はもはや死と同義だった。

 犬の鼻がひくひくと動いて、銀色の目が私を見下ろす。私はどうにか体を押し返そうと身じろいてみるが、びくともしない。

 【犬】の口が開かれて、白い牙と赤い舌が露わになる。それが私の顔に迫る。

「────!」

私は声にならない悲鳴を上げながら、顔を反らして目を瞑った。

 肉を裂かれ、骨を砕かれる痛みが今に私を襲う。そう、覚悟した。

 しかし実際に私を襲ったのは、薄くて柔らかい、濡れた何かが頬を撫でる感触。それは何度も何度も頬から口元までを往復して、私はそっと目を開いた。

 【犬】は、私の顔を舐めていた。

「え……?」

その仕草を、私は経験から知っていた。それは子犬が母犬に、あるいは飼い犬が飼い主に、『甘える時』にする仕草だ。

改めて見上げた【犬】の顔に、剣幕の色はない。

 私は無意識に手を伸ばして、【それ】の耳の後ろを掻いた。愛犬にしたように柔らかく掻くと、【犬】は舐めるのを止めて気持ちよさげに目を細める。手を離せばまるで「もっと」と言う様に頭を掌に寄せた。

 その姿は、首から下が人の形をしている事など忘れさせるほど、ただただ普通の犬の様で。私は訳が分からず呆然と【犬】を見上げた。

 やがて【犬】は満足したのか、私から体を上げて私の上から下りる。

 私もまた身を起こせば、私の胸から何かが落ちた。それは骨の形のおもちゃで、どうやら【犬】はそれを拾った上で私を押し倒したらしい。

膝立ちで私を見つめる【犬】の後ろでは大きな毛束が左右に揺れていて、私が飼い犬に褒める時のように「グッジョブ」と声をかけると、「ワン」という一声と共にその尾はますます大きく勢いよく振られた。

「君……あの【犬】とは別の子なの? 兄弟とか?」

黒藤と鹿島を爪で裂いて、浩の腕を噛んだ姿と、今の穏やかな飼い犬のような姿。どうにも同一とは考え難くて、つい声をかける。私の声に反応するように【犬】は私の事をまたじっと見て、また匂いを嗅ぐように肩口に鼻先を寄せる。

「────ユ、ヅ、ル」

されるがままにしていると、耳元でたどたどしくも柔らかな声を聴いた。

「えっ……?」

次の瞬間、がた、と扉の向こうから音がして、【犬】が素早くそちらを向いた。

「ゥルルルルル……」

眉間に幾重ものしわを寄せ、唇をめくりながら低く唸るその姿は私達を襲ってきた時と全く同じで、突然の事に私は身体を固くする。

 引き戸が開かれて、強い光が私達を照らした。

「紀伊!」

それは黒藤の声だった。

「ガルルルルウルルルルル」

私の側から【犬】が飛び出して、まっすぐに光源の──黒藤の方へと駆ける。

「ダメ!」

咄嗟に制止の声が出る。

それが良かったのか、それとも元々その気がなかったのか。【犬】はドアを塞ぐ黒藤に体当たりをするにとどめ、そのままどこかへと走り去っていった。

 黒藤は【犬】の去った方を少し気にしながら、私の元へと走り寄る。

「無事か? 怪我は?」

「私は大丈夫です、それより黒藤さんが大丈夫ですか!?」

私の側にしゃがんだ黒藤は頭から血を流していて、全く無事そうではない。

「後ろから急に襲われてな……頭を打って脳震盪を起こしたらしい。まあ傷そのものは大したものじゃない」

黒藤は言いながら、こめかみを通って首まで流れる血の跡を袖で拭った。

「脳震盪って大したことですよ……」

それでも、倒れていた彼の姿を見た時は、『死』すらも頭をよぎったから、生きていてくれて本当に良かった。

 私の姿を上から下まで見て、黒藤は安堵したように息を吐く。

「怪我はなさそうだな……」

私は今起きたことを、順を追って黒藤に話した。


***


 私達は逃げ場のない犬の遊び部屋から飼育室に戻り、床に座っていた。

「あの【犬】は……今まで私たちを襲った【犬】とは別の子だったんでしょうか?」

黒藤は首を振った。

「いや……顔の模様をみるに同じ個体だろう。例え一緒に生まれた兄弟でも、犬の顔つきや模様はかなり変わる」

自分の愛犬ならいざ知らず、私には数度見ただけの犬の見分けはできないが、獣医である黒藤がそういうのであればそうなのだろう。

 それに確かに、最後黒藤へ向かっていくときのあの姿は、今まで何度もみてきた【犬】のそれだった。

「最後、私の名前を言ったような気がしたんですけど……」

鼠の声と言い、私は頭がおかしくなったのだろうか。けれど、私にはどうしてもアレが幻聴の類には思えない。

「名前の件はともかく……紀伊に甘えていた件については、まあ分からなくもない」

黒藤は作業台に広げていた資料から一冊のファイルを取って、こちらに差し出す。ファイルには『犬によるインスリン貼付剤効果実証実験』と題名がある。

受け取って中を開くと、『実験責任者:紀伊 晴信』と書かれていた。

「実験動物とは言え、愛情をもって飼育されていたんだろう」

黒藤はそう言うと、床のマットを叩く。

「ほとんどの施設じゃこうして足を傷めないようマットを引いたり、自由にできる大部屋とおもちゃを用意したりしない。棚にはリードもしまってあったし、定期的に散歩もさせていたんだろう。あの【犬】にとってここの職員は家族の様なものだったんだ」

ここの職員。私の父と母も含めて、と言いたいのだろう。

「でも、私ここに来たことないですよ?」

実験施設と言うのは部外者には厳しく、余程の理由がなければ家族あれど入る事は許されない。だから私はここを訪れたことも、あの【犬】と会った事もなかった。なのにどうして私の事が『家族の家族』だと分かったのだろうか。

「実際のところは分からんが……犬って言うのは人間の十万倍以上良いと言われていて、ガンを発見する犬すらいる。両親に付着していたお前の臭いを覚えていても不思議じゃない」

そうなのだろうか。黒藤が言う様に、私の両親を大好きで、だからあんな風に甘えてくれたのだろうか。

 でも言われて見たら思い当たる節もあった。ここに来て、あの【犬】と何度となく遭遇し、黒藤達が【犬】に襲われている中、私は一度もあの【犬】に怪我を負わされていない。鼠に襲われていた時も、結果を見たらあの【犬】に助けられている。

 愛してくれているのだろうか、私の父と母を。私はなんだか無性に泣きたくなった。

「お、おい」

黒藤が焦ったような声を上げる。

「父も、母も、とても優しい人だったんです」

優しくて、仕事熱心で、家でもいつも勉強をしていて。

「そんなこと鼠達には関係ない事なのかもしれないですけど、それでも少しでも良い未来が来るようにってすごく一生懸命だったんです」

なのにその結果がこの心霊現象だと思ったら、それが本当は凄く悲しくて、少し悔しくて。だからたった一匹でも愛してくれている子がいたということに、どうしようもなく救われた気がした。

 涙をこらえる私の頭に固い手が乗った。

「間違えるな。お前の両親は必要な事をしただけだ」

淡々とした声が降ってくる。

「家畜を誰かが殺すから俺達が肉を食えるように、誰かが動物実験をしたことで発展した医療が俺達を生かす。鼠が恨みに思うとして、その結果こうなっているとして、その責任は研究者個人じゃない。あるとしたら、それは研究の恩恵にあずかる全ての人間にだ」

淡々とした感情を感じさせない言葉は、同情ではなくただそこにある事実を話しているように聞こえて、だからこそ私を安心させる。

「お前の両親は、間違った事をしていない」

嗚咽を零して泣く私の頭を黒藤は少しぎこちない動きで、だが私が泣き止むまで、ゆっくりと撫で続けた。


***


「そう言えば、黒藤さん私の事呼んでましたよね?」

感傷的になっていた気持ちが落ち着いて、私は【犬】と遭遇する直前の事を思い出す。

 元々はその声に飼育室に戻ろうとしたのだ。

「そうだった、見つけたものがあってな」

黒藤は立ち上がると、作業台の下から何かを引っ張り出す。ライトで照らすと、それは学生鞄の様だった。

「あ、浩君のですかね?」

最初に会った時に鞄を落としたと言っていた気がする。もしかしたら【犬】が拾ってここまで持ってきたのかもしれない。

「そうだろうな。学生証が付いてる」

確かに、黒藤の視線の先に定期券と共に学生証がホルダーに入っていて、私は手に取る。

 そこには今より幾分幼く見える浩が固い表情で写っている。上部には『私立楓南高等学校』と刻印されていて、その斜め下に『一年生』と記載されている。

「……あれ?」

何となしに滑らせていた目が、一点で止まる。発行日だ。発行日が『平成二十三年四月一日』となっている。だが……今年は令和元年だ。つまり、これは八年前に発行されたことになっている。

「黒藤さん……これ……誤字、ですかね?」

指さして尋ねる。黒藤はすでに気が付いていたらしく、眉間に深くしわを寄せながら高校の名前を指さした。

「その高校、従妹の出身校だったんだが……四年前に廃校になっているはずだ」

それは一体どういうことなのか。

 考える間も与えられないまま、私達の背後で引き戸がギイと音を立てて開いた。

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